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『 □彼方への唄□ 』
ユンナ2083)&C・ユーリ(2467)


「どこがいい? 聞いてあげてるんだから、早く答えなさいよ」
「僕に聞いたら大体似たような場所になっちゃうんだけど」
「構わないわよ。だってこれはあんたの希望じゃないと意味がないもの」
「うーんと……それじゃあ、あそこがいい」




 ユンナは呆れたように口をへの字に曲げて、丘の上に仁王立ちしていた。
 背後にはよく晴れた海と空が水平線によって区切られ、時折ちぎった綿菓子のような雲が、そのまにまをのんびりと飛んでいる。
 もう咲き始めの時期なのか花の香りさえ漂う、正午を少し過ぎた時間帯。誰もが穏やかに過ごしているだろう時に、しかしユンナは海を背にしてむっつりと立っていた。
 ともすれば背後に暗雲さえ漂ってきそうな気配に動じもせず、ユンナの向かい、草原の一角に座り込んでいた青年は「おや?」と軽く首をかしげた。

「そんな顔してちゃあ美人が台無しだよ? 歌姫さん」

 いつものコートを肩にかけ、あぐらをかいた足の上にたまきちを乗せながら、キャプテン・ユーリは楽しげに眼前の少女へと声をかけたが、しかしユンナはますますへそを曲げたように片手を腰に当てて言う。

「……せっかく私がこの前のお礼に歌ってあげようっていうのに、あんたときたらムードも何もあったものじゃないわね。普通「どんな場所がいい? どこででも好きな場所で歌ってあげるわよ」ってこの私に言われたら、大抵の奴は超高級料理の店とか秘密の酒場とか、そういった場所を提案すると思うんだけど」
「あー、うんうん。僕も最初はそう思ったんだけどね」

 膝の上のたまきちを指であやしながら、ユーリはいつものようににこやかに笑う。

「そういえば、キミがこうやって明るい場所で歌ったのって聴いた事なかったんだよね、僕。正確にはこの前船の上で聴いたのが初めてだったんだけど、あの時はほら、バタバタしていて結局最後まで聴けなかっただろ? だから今度こそは明るい場所に腰を据えて、じっくり聴きたいなって思ったわけさ。料理屋とかだとどうしても屋根があるしね」
「それは分かったけれど、なんだってこんな何もない丘の上でなのよ。明るい場所がいいんだったらあんたの船とかででもいいでしょう?」
「まあね」

 ふとユーリはそう言うと目を伏せ、たまきちを手のひらで撫でながら沈黙する。

「ユーリ?」
「ああ、ごめん。何でもないよ。――――そうだなあ、特に理由はないさ。たまたまここからの景色が綺麗だって以前誰かに聞いた事があるから、それを思い出してってところだね。やっぱりいい歌を聴くのなら、それなりの景色の中での方がいい」
「相変わらずよく分からない男……まあいいわ、それじゃあ始めるわよ。よくお聴きなさいな、キャプテン・ユーリ」

 すう、とユンナは息を吸い、瞳を挑戦的にきらめかせる。
 昼の太陽にも負けることないその輝きは、ユーリの目をあっという間に吸い寄せた。そうして青年は理解する。この少女が何故、この世界に歌姫として名を轟かせているのかを。
 誰もが彼女の瞳に惹かれ、そして歌によって心を奪われるのだ。以前酒場に耳にしたそんな会話が、ユーリの脳裏によみがえる。

 さあ、歌姫さん。僕の心をどんな風に奪ってくれるのかな?
 そんなことを思いながら余裕の笑みを返すユーリに、ユンナは口の端を上げた。


「私を助けてくれたお礼として、貴方に瞬きもできないような時間をあげる。聴き逃すのなら残るは後悔、ただひとつ――――」


 そうして、見えない幕が上がる。





 
 ユーリの、そして膝の上のたまきちの瞳は、真っ直ぐに少女へと向けられていた。
 片手を胸に当て、高い空に朗々と歌を紡ぎ上げていくユンナの姿を、まるで一瞬たりとも見逃すまいとするかのように。

 少女が選んだのは、様々な場所に訪れたユーリでさえも知らない歌だった。少し古めかしい旋律。一体どこの歌なのだろうと詮索する暇もなく、響きの奔流はユーリを歌の世界へと押し流していく。しかしそれは決して不快なものではなかった。

 旋律の中の主人公は、恋人を失って嘆きの最中にいた。戦争の時代、赴いた者が死ぬも殺すも当たり前の事と皆が諦め、顔を伏せる。そんな中で主人公は疑問を持ち続けていた。
 戦場に行った以上、見送る者も行く者も覚悟を決めていてしかるべきだというのに、自分も覚悟を決めていた筈だというのに、ならばどうしてこれほどまでに悲しみが心を満たすのか、と。
 それが人なのだと皆が言う。その者を愛していればいるほどに悲しみ、時には仇を討ちたいとまで思うのが、人として当然の事なのだと。

 やがて、主人公は恋人を斬り伏せた見ず知らずの者を憎むようになった。できるのならば自分も戦場に赴き、敵の首を全て刎ねてやりたいと思うまでに、憎しみは成長する。
 だが憎しみは育つだけ育ってしまったというのに、主人公はそれの出口を作ることができないでいた。
 主人公はあまりに弱く、武器を扱う心得もない。ましてや殺意の荒れ狂う戦地に行くことを考えるだけで、足がすくんでしまう始末だった。
 これではとても仇など討てる筈もない。そう嘆きながら、主人公は憎しみを抱えたまま生きていく事を選んだ。
 情けない我が身と心を、ただ蔑んで。

「………………」


『情けない? 馬鹿言っちゃいけねぇよ。あんたは自分で道を選んだんだ、それを誇りこそすれ――――』
『やはりユリアン一家の野郎はどいつもこいつも腰抜けだぁ!! こいつなんて特にそうだぜ、やっぱりあいつの息子だけのことは……!!』
『ちっくしょう……!! 悔しい、悔しいよ!! どうして駄目なの?! どうしてあいつらが目の前にいるってのに……』


 ユーリの胸に見えない針が一本、刺さる。それは細く、けれど長く、ずっと彼の胸にあったものだ。
 何故、今思い出してしまうのだろう。
 そんな青年の思いとは裏腹に、記憶は次から次へとあふれ出してくる。まるでずっと上から押し付けていたものが、とうとう耐えられなくなって吹き出てきたかのように。

「……ユーリ……?」

 いつのまにか、歌は止んでいた。ユンナが何故か呆然としているのに気付き、ユーリはいつものように「どうしたの?」と声をかけようと口を開き、そして。
 声が出なくなっているのに、気付いた。

「…………………………?」

 何故、声が出ないのだろう。
 ああそうか、口が開かないのだから声が出る筈もないのだ。そういえば口とは何だろうか。
 いや、それ以前に自分とは一体何なのだろうか。

「ユーリ!! ちょっと、まさかこんな……!!」

 ユーリ。
 それは一体何なのだろうか、何を示す言葉だったか。目の前にいる少女は? ああ、もう、全てが何が何だか――――

「ユーリ……!!」

 最後まで少女が叫んでいた言葉の意味が分からないままに、青年の意識が落ちていく。
 泥に沈み込んでいくような感覚の中、少女の声の中にひどく懐かしいものを感じながら。





 ユンナは青年の身体が草原に沈む音を、呆然と聞いていた。
 たまきちが心配げに耳元で声をあげているが、それにもユーリは答えずに草原に頬をあずけている。目を瞑った様はまるで眠っているようでもあったが、ユンナはそうではない事を誰よりもよく分かっていた。

「馬鹿じゃないの……私…………」

 ぺたり、とユーリの側に腰を降ろし、ユンナは青年の寝顔を見下ろす。

「……お礼、したかっただけじゃないのよ……。なのになんだって、こんな……!!」

 ユーリの身体は、通りすがりの者が見れば普通のように見えただろうが、ユンナの目にはしっかりと彼の身体を取り巻いている具現波動が視えていた。
 毒々しい色をしたそれにためらいもなく指先を触れさせれば、どんよりとした波動が白い指にまとわりつく。ユンナはこの感覚に覚えがあった。そう、ユンナが情景を想像し思いを込めた歌の中の主人公。それが抱えていた憎しみの感情と毒色の波動は、あまりにも酷似している。

「知らない間に、歌の中身と私の力が同調したってわけ? ……冗談!! それだけじゃここまで深く意識が囚われる筈がない。抵抗力がない人ならともかく、ユーリがそう簡単に囚われてしまう筈がない……!!」

 いまや小さく息をするだけになったユーリの頭を抱きかかえながら、ユンナは呟いた。

「何か、原因があるんだわ。私の歌と同調してしまうようなものがきっと、彼の中に――――」





 ぷくぷく、ぶくぶく。
 これは何の音だろうかとユーリは考えて、すぐに聞き慣れた音だと気付く。簡単だ、これは海に潜った時に呼吸が泡となって上へと昇っていく時の音だ。

『おう、ユーリ。随分深くまで潜れるようになったじゃねえか』

 水から上がったユーリの頭を、大きく暖かな手が乱暴に撫でた。頭を振り回されそうな勢いだったが、ユーリはそれを嫌がってはおらず、むしろ楽しげに笑い声をあげてその手を受けていた。
 しかしすぐに画面が切り替わり、低かった視界は随分高いものへと変わる。頭は軽く、まだハットもいつも肩にかけているコートもない。他の船員たちと大して変わらない格好をしたユーリは、甲板に座り込んでいた。
 いつも船員たちが綺麗に磨いている床はところどころが破れ、黒ずんでいた。生々しい戦いの跡の中、ユーリは降りしきる雨の下で目の前に転がるものをじっと見つめている。

 目の前に転がっているのは、数分前まで確かに生きてこの船の全てを取り仕切り、いつも遠い海の先に何があるかと口元を緩ませながら大海原を渡っていた男だった。
 豪胆で、けれど妻には頭が上がらなくて。そんな姿をユーリはいつも楽しげに見ていたが、もうこれから先二度とそんな姿を見ることはないだろう。男の四肢はだらりと甲板へと投げ出され、胸元にはもうどこが傷口なのかも分からないほどに赤色が広がっている。息がないのは知っていた。何せ父の胸から血が広がっていく瞬間を目の当たりにしたのが、他でもないユーリ自身だったからだ。
 ユーリは父の顔を見たが、視界が曇ってしまってよく表情が分からなかった。眼鏡もかけていないというのに、と不思議に思い手の甲で目をこすると、ユーリは納得したように大きく息をつく。
 目に雨が入ってしまっていたのだ。

 そうだ、きっとこれは雨だ。
 自分に言い聞かせるようにしながら、ユーリは頬をつたって止まらないそれを拭い続ける。
 やがて雨が止んでも、瞳からつたう雫は止まることはなかった。

 また、場面が変わる。今度は見慣れた船内だった。テーブルを囲みながら皆が激しい口調で議論を続けている。
 ユーリは上座でその様子を静かに眺めていたが、やがて古株の船員がユーリの方を見た。その瞳には透明なものがあふれている。

『ユーリぼっちゃん、どうしても駄目なのか?! どうしても許してくれねぇっていうのか?!』
『奴らの行きつけの酒場に協力してもらう手はずは整っている。今ならあの時のようにはいかねぇ! なあキャプテン、今こそ仇を討つ絶好の機会なんだぞ?!』
 
 しかしユーリは決して首を縦には振らなかった。彼の海賊としての矜持がそうさせたのだった。海の上で全てのことを運ばなければどうして海賊と言えるだろう、という考えもあったが、ユーリ自身が何より復讐そのものを望んではいなかった。 
 もはや怒号が飛び交う場と化したテーブルの天板を見つめながら、青年はそう遠くはない過去を思い出す。

『なあユーリ。海賊として生きる以上は、いつもこの青色と同じような心持ちで船に乗っているべきじゃねえかと、俺は思う』

 鮮やかな海を見渡しながら、父はそう言っていた。爽やかで清々しく、けれどその奥には油断のならないものが潜んでいるこの海のように、海賊というものは生きていくものだと。
 復讐。ユーリは口の中でその言葉を呟いてみたが、その中には父が言っていた海賊の理想とはほど遠い感情しかなかった。
 けれど、それに身を任せてしまえばきっと楽になれるのだろう。怒りと悲しみを内包する黒々とした負の感情の渦は、今のユーリにとっては確かに魅力あるものだった。


 だが、復讐を成したところで残るものは何だろう? きっと、それは――――


『……そんな事ばっかり言ってるから、あいつらに舐められっぱなしなんですよ!!』

 心を読んだかのように、船員の声が響く。

『あんた、本当は親父さんのことたいして大事にしていなかったんじゃねえの?』
『それもそうだよな。本当に尊敬していたんなら、あんな事絶対に許せる筈がねぇ』
『逃げ腰の大将か。はっ、情けねぇこった。この分ならもうユリアン一家もおしまいだな!! 仇討ちすら満足にできねぇ腰抜けの元からなんざ、すぐに皆抜けていくだろうよ』

 違う。
 そう言おうとしても喉からは全く声が出なかった。いくら叫ぼうとしても、口すらも開かない。ただ俯いてテーブルを見ている事だけが、今のユーリができる全てだった。
 
『本当に違うのか? あんただって本当は仇を討ちたいって思ってんだろうが!!』

 二本目の針が、刺さる。
 太いそれは一息にユーリの胸を穿ち、一瞬呼吸さえも止めた。
 だがユーリはぎりぎりと胸に刺さる針の痛みに耐えながら、それでも違うと胸の中で叫び続ける。復讐を望む気持ちがなかったわけではない。しかし、そうしたところで時も人も戻らない事を、ユーリはとうの昔に知っている。

 ならば、戻らないからといって憎しみを、そして怒りを放棄するのか。
 今、こんなにも胸の中では相手を殺してやりたいという気持ちが渦巻いているというのに、それでも自分は剣を取る事を拒むのか。
 いっそこのレイピアで相手の喉を抉り取ってしまえばどんなに、ああ、どんなに楽だろう。

『そうだ、それが人として当然の考えだ。でなければどうして怒りなどというものが人に備わっている?』
『悲しみを抱えて生きていこうなどと、愚の骨頂だ。殺されたら、殺し返せばいい』
『憎しみも叱りも悲しみも、人が抱えて生きるにはあまりに重い感情だ。ならば吐き出せばいい、負け犬にならぬ為にも』

 いつのまにか声は静かに、ユーリの心に直に語りかけていた。
 ぼんやりとした頭で、ユーリは考える。考え続ける。

『考える必要がどこにある?』

 いや、それでも考えなければならないんだよ。
 これは僕自身で結果を導き出さなければならない問題なんだ。悪いけれど、ちょっと黙っていてくれないかな――――

『これはお前だけの問題ではない。元締めとなった以上、お前の周りには常に付き従う者がいるのを忘れるな』
『お前ひとりのわがままで周囲の人間がどれほどに我慢を強いられたか、知らぬわけではあるまいに』

 そんなことない。
 僕の周りにいる奴らは、そんなこと――――

『我慢してきたのだ。相手を殺してやりたいという思いを、ただひたすらに今も我慢し続けているのだ』
『それも全て、お前が彼らの憎しみの行き先を塞いでしまったせいだ』

 僕は。
 僕が。
 僕、が――――?

 とん、と音がして、ユーリの胸に三本目の針が立ったかのように見えた。
 しかしそれは冷たい鉄ではなく、細く暖かな指。

「………………?」

 視線を落とせば、暗い汚泥の海の中から一本の腕がユーリに向かって突き出ていた。その肌の白さは暗い色ばかりの泥の中にあるせいか、輝いてさえ見える。いや、実際輝きを放っていたのかもしれない。
 手のひらが静かにユーリの胸へと触れた。これは誰の腕だったか、青年は思い出そうと記憶の扉を開く。
 ああ、これは。 

「…………」

 ユーリは自分を守るかのように触れてくる手のひらへと、そっと自身の手をかぶせた。暖かで規則正しい鼓動が伝わるこの手を、青年は知っていた。
 声なき声でこの汚泥の向こうにいるだろう少女の名を呼べば、触れていた手のひらが微かに動く。頷くように。
 温もりが徐々に広がっていく感覚に、ユーリは目を閉じた。胸の針は刺さったままだったが、痛みはもう僅かにしか感じない。
 暖かさの向こうで、声がする。


 あんたの選択が正しいものかどうかは私には分からない。それは、その人自身が判断するべき事だから。
 けれど私は、そんなものを通り越して思う。
 ――――今、あんたのこの手が復讐の血に塗れていない事実。それをとても、嬉しく思う。


 言葉は小波のように消え、しかし再びユーリの耳へと響いてくる。今度は幾人もの人の声だった。

『情けない? 馬鹿言っちゃいけねぇよ。あんたは自分で道を選んだんだ。それを誇りこそすれ、情けなく思う必要なんかどこにあるもんかい!』
『そうっすよキャプテン。俺たち、そんなキャプテンでなかったら今頃きっとよそに行ってましたよ』

 甲板でふと漏らした言葉に、船員たちはユーリが驚くほどにこぞって反応した。
 これはいつかの記憶。もういつだったのかすら忘れてしまったけれど、確かに過去に存在していた時。

『俺たちはみんな先代を慕ってついてきましたが、先代が亡くなった今もここにいます。それがどうしてか分かりますか? キャプテン・ユーリ、あなたがいるからです』
『先代は血を流すよりお宝見つけろって人だったから、きっと今のユーリをお空から見て「やってんなぁ、息子!!」って言ってんじゃないかな。それでいいんじゃない? 復讐なんて飯のタネにもならないし』
『おうよ、俺たちゃ海賊ユリアン一家だ! 海賊ってのは人を傷つけるより先に、まず世界中のお宝をこの手にするっていうでっけぇ夢がある!!』
『はははっ、違いねぇや。そんで船長、次はどこへ行きます? あんたの指す方向へと間違いなくこの船を動かしてみせますよ!!』

 笑いさざめく声が、すかんと晴れた青空へと響いていく。
 ユーリもまた笑った。笑って、そして顔を上げる。
 青の双眸にはもう暗雲はない。キャプテン・ユーリは相棒のたまきちを肩に、背筋を伸ばして前を向いた。

 胸に刺さった針は痛みが和らぎこそすれ、この先もずっと抜ける事はないだろう。ふとした瞬間にいつ憎しみの火が点るとも知れない。
 だが、それでもユーリはこの先を生きていく。怒りと悲しみを胸に抱え、けれど真っ直ぐ前を見て。


 ――――吐き出すのは簡単。
 だけど自らが恐れるものを胸に抱いて生きるのは、とてもとても難しい。
 蔑む必要などどこにもない。あんたには間違いようのない勇気がある。
 それを皆は、知っているのよ。


 ユーリは微笑みながら、目を閉じた。
 皆の声が遠く遠く消えていくが、寂しさはない。
 いつだってこの風景は、自分の中に存在し続けているのだから。







 ユンナは昏睡状態の続くユーリの胸に当てていた手を、ほうっと息をついて放した。もう彼を取り巻いていた毒色のもやはない。

「……さすがに、ちょっとやばかったわね」

 ユーリの中にある、歌と同調してしまうような原因を探る為にユンナが行ったのは、具現精神同調というかなり変則的な方法だった。能力者同士でなければうまく互いを繋げられない確率が高く、あまつさえ死の危険性もあるという術式を、全てを承知の上で少女は行使したのだ。
 眠り続けるユーリの髪を梳きながら、ユンナはぽつりと呟く。

「ねえ、起きてよ」

 黙して語らないユーリの顔を眺める少女の脳裏に映るのは、八千年前の光景。
 彼女には二人の友がいた。しかし、かけがえのないものだと思っていた二人とは最悪の形で別れる事になってしまった。それは死という、あまりにもどうしようもない事実だった。
 その時心に入ったひびの音を思い出すたび、ユンナの胸は見えない槍で貫かれる。

 同じような音を、ユンナはつい先程聴いた。心を囚われたユーリがこのまま目を覚まさなかったら、そう考えるだけでも胸が軋みをあげて痛んだ。だからこそ彼女は力を行使するのをためらわなかった。
 自らにも死の危険がある術式をどうして行ったかは、ユンナには分からない。
 ただ。

「――――見たくないのよ、もう」
「……何をだい?」
 
 突然の声にユンナはつい髪から手を放そうとしたが、それより早く大きな手にとらえられてしまう。
 少女の膝の上では、青い瞳が笑っていた。

「起きてたなら早く言いなさいよ!!」
「ごめん」

 ユーリはこくりと頷きながら、自分を見下ろしてくる少女の頬へとそっと手を伸ばした。
 伝わる厚い皮の感触に一瞬身を引きそうになるユンナを目でやんわりと制し、ユーリは微笑む。

「もう大丈夫だよ、ユンナ。僕は生きて、ここにいる」
「……起き抜けに恥ずかしい台詞言うんじゃないわよ、人間性疑われるわよ」
「うーん、厳しいお言葉だ」

 言いながらも、ユンナの手は頬に添えられたユーリの手へと重なっていた。
 それを知っているからこそ、青年の声は笑っている。

「あのさ、ユンナ。また何かおかしな事になっちゃったけど、お礼ってまだ有効?」
「有効? って……ほんっとーに呑気ねあんた。こんな事になったってのに、まだ私の歌聴きたいっていうの?」
「別にキミがわざとやったんじゃないしさ。僕はもう一度キミの歌、聴きたいな。今度は最初から最後まで通しで」
「……また同じ目に遭うかもしれないわよ」
「キミがそんなことする人じゃないっていうのは、とっくに知ってるよ。ねえ、本当に聴きたいんだ、キミの歌。あの主人公がどうなったのかを最後まで聴かせて欲しい、駄目かい?」

 ユンナは大きく溜め息をついて、肩をすくめてみせる。

「駄目かいとか言っといて、ものすごく聴く気なんじゃないのよ。ああもう分かったから、それじゃ早くここからどいてちょうだい」
「何で?」
「…………ちょっとあんた、まさか」
「僕はこのまま歌ってくれる方がいいんだけど。柔らかい膝枕をされながら、晴れた空の下で歌を聴く。なかなか絵になると思わない?」
「どうでもいいわよそんな事!! いいからさっさとどきなさいよ!」
「うーむ、歌姫さまはお怒りのようだよ。どうしようか。なー、たまきち」
 
 くすくすと楽しげに笑いながらたまきちを高い高いする青年を見て、ユンナは肩の力ががっくりと抜けるのを感じた。
 いっそ無理やり立ち上がって草の上におっことしてやろうかという考えさえ浮かんだが、しかし目の前でとても楽しげな顔をされていると、それを壊してしまうのがとてももったいないように思えてくる。

「分かったわ、もうこの際だからお好きな形で歌ってあげるわよ。でも変なとこ触ったら即刻そこの木に逆さにして吊るすから、覚悟しときなさい」
「この瞳と海にかけてそんな事はしないと約束しよう、歌姫さん。それじゃあお願いするよ。うーん、女の子の膝は柔らかくて気持ちいいなぁ」
「言ったそばから何やってんのよ、馬鹿!! 黙ってるつもりだったけど、私がこうやってあんたにわざわざお礼しているのは、か……かなづちだっていうのを皆に黙っててもらう為っていう意味合いも含んでいるんだからね、おかしな誤解するんじゃないわよ!」
「おかしな誤解って?」
「それは…………」

 どもるユンナの顔を楽しげに見上げていたユーリだったが、やがて何かを思いついたように起き上がると、


「こういうことかな? 歌姫さん」


 と、唇を軽く白い頬へと触れさせた。
 呆然として前を見れば、笑みのかたちをした青の目がユンナを見ている。

 その奥にあるのは、ただやわらかなひかり。


「――――僕を助けてくれてありがとう、ユンナ。本当に誤解してしまいそうだよ。……本当に」







 港に立ち、ユーリは大きく伸びをして背後を見た。そこには先程まで膝枕をしてもらっていた草原が見える。
 再び歌姫によって紡がれた歌は、今度はユーリの精神を犯さずに終わりを迎えた。
 歌の主人公は自分を蔑み生きていたが、夢の中で再会した恋人はそれを嘆きこう言ったのだという。

『死んでしまったのはとても悲しい。けれど君の未来を縛ってしまうのはもっともっと悲しい』

 父も同じだったのだろうか、そう思うユーリの髪が潮風にあおられ揺れる。歌の主人公はその後幸福な人生を送ったらしいが、自分は一体どうなのだろうか。
 
「……ま、最期になってみなきゃ分からないってね」

 ユーリは過去に父に教わった草原へ背を向けて歩き出す。脳裏をよぎるのは思い出のままの草原と、父と共に在った日々。そして新たに刻まれた、思い出。
 今日この日は、歌声と共にいつまでも心の中に残り続けるだろう。


「この瞳と青の海、そしてこの名と船に誓う。僕はこの日の事をきっと、忘れない」


 どこか清々しくなった胸を抱えながら、ユーリは帰る。
 スリーピング・ドラゴン?U世号。仲間が待つ暖かな、彼の家へと。







 END.
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
ドール クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2005年03月28日

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