▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『咎 』
冷泉院・蓮生3626


咎とは何であろうか。
人を恋うる心は、それは咎であろうか。
では、穢れとは何であろうか。
人を想う心は穢れを生むのであろうか。
咎とは、穢れとは。

心は風がさらっていくばかりなのであろうか。


 冷泉院蓮生は神仙や天女の住まう天の世界で、蝶よ花よと愛でられて育った。
身の回りの世話は数人の天女達が勤めていたし、穢れから遠ざけられて育ちもした。 
 天女達は思いつく全ての言葉で少年神を褒め称え、舞踊や詩吟をささげ、枯渇することのない微笑で蓮生の周りを飛び交っている。
蓮生はよく彼女達の舞踊などを眺めていたが、最近の彼の心を捉えているものは、彼女達の美しい微笑ではない。
澱みのない湖面を浮かべたような空の青でも、絹のような雲でもなく、風にそよぐ花の姿でもない。
 
 彼は先日、皆の目を盗んで下界に――人間の住む世界へと降り立った。
 人界では桜の花がほころぶ季節を迎えていた。
――――今頃では、桜ももう葉桜へと変容しているのだろうか。
 考えて、そっと目を閉じる。
開いた花の姿の美しいのはいうまでもない。
薄く緑をさしはじめた葉の揺れる姿や、初夏の到来を知らせる気の早い花の色も、また美しい。
――――また人界に足を運ぶ機会は得られるだろうか。
今度はもう少し長くとどまり、人々の活気に満ちた世を眺めるのもいいだろう。

 そんな事を考えている蓮生の耳に、さわさわと揺れる葉擦れの音にも似た天女達の声が届いた。
 蓮生は見るともなしに天女達の姿を眺め、不意に、その異変に眉根を寄せた。
「……胡弓を奏していたあの者の姿が見えぬようだが」
 訊ねると、天女達の微笑が一瞬翳りをおびる。
蓮生はその翳りを見逃すことはしなかったが、しかし、次の瞬間にはいつものような微笑を浮かべていた彼女達を見やって首を傾げた。
「蓮生様、かの者は他の神仙様に所望され、御身を離れたのでございます」
 天女の一人が口を開いた。
蓮生はその言葉に小さく頷くと、再びゆっくりと睫毛を伏せる。
そしてまたすぐに瞼を開けて、呟くように、
「またあの胡弓の音を聴きたいものだ。……あれは素晴らしい技芸であった」
 その言葉に、天女達の表情が再び、先ほどよりも色濃く翳る。
「……いいえ、蓮生様。かの者などよりも、私共が一層美しい音をお聴かせいたしましょう」


 夕を迎え、天女達がしずしずと姿を消した後。
蓮生は一人自室に残り、いつものように、窓辺で月を眺めていた。
月は望月よりも幾分か端の欠けた姿で、青銀の光を蓮生に注いでいる。
 蓮生は自分が下界に降り立ったあの日の月と今のそれとを見比べて、あの日からそれほどには時間の経っていないことを知った。
では、桜はまだ花を残しているかもしれない。
その残骸は地表を絨毯のように敷き詰めて、春の名残を世界に知らしめているだろう。
 うっとりと月を眺めている蓮生は、まるであの胡弓の音色にも似た月光に、再びあの天女を思い出す。
「……所望されて他の神仙の元へと行ったのであれば、その行く先を私に伝えても、害はないはずだ」
 一人ごちて眉根を寄せる。
そもそも、昼の天女達のあの言動は、あれは虚偽を口にしているものではなかったか。
あの話が誠ではなかったならば、あの天女は、何処に姿を消したのであろうか?

 思い立った蓮生は、座っていた椅子を鳴らして立ち上がり、自室を後にした。
 天女の気配を辿り、その行く先を調べることくらい、蓮生には容易な事だ。
蓮生の心を感じ取ったのであろうか。空から麒麟が姿を見せて、庭の中にふわりと身を寄せる。
麒麟は嘶くでもなく、ただ静かに頭をたれて、穏やかなその眼で蓮生を映し見る。
蓮生は頬を緩めて頷き、その背に跨った。

 天女の気配を辿って着いたその先で、少年神は束の間呆然とし、しかしすぐに顔色を変えた。

 天女は、人界に居たのだ。
 夜なお明るいこの世界の片隅で、天女は、数日前までのその姿など見る影もない容貌に変容していた。
 蓮生は小さな公園のベンチで崩れるように座っていた女の姿を見下ろし、驚愕に目を見張る。
かつての主に気がついたのか、女は――天女であった者は、ぐったりと顔を持ち上げた。
「れ、ん、しょう、さ……ま?」
 絞り出すように告げられたその声に、蓮生は知らず膝をついて女の手を取っていた。
女は思わぬその行動に一瞬声を詰まらせていたが、すぐに小さな笑みを浮かべ、ゆっくりと首を振る。
「わたし、は、不浄の、身、ですれば、れん、しょう、さまが、触れること、は、まかり、なり、ま、せん」
 激しく咳こんで血痰を吐き出した女の言葉に、蓮生は強く首を振って女の言葉を否定した。
「おまえが不浄であるはずなどない。おまえは私の心を慰める技芸を持っている。再び私の元に戻り、胡弓を奏でてくれ」
 言葉が浮かばない。こんな言葉など慰めにもならないことを、蓮生は知っている。
女は、もう消え逝くばかりなのだ。
「どうして――――――」
 声を詰まらせている蓮生に、女は弱々しく笑う。
「ああ――蓮生様のおかげ、で、だいぶ楽になってまいりました」
 いくらか詰まらなくなった言葉で女は頬を緩める。
「あの晩、蓮生様が、麒麟に乗って行くのをお見かけしました。無礼を承知で追いかけましたところ、蓮生様は下界へと――。わたしはしばし迷いましたが、御身に何かあってはと……」
 再び血痰を吐いた女の言葉に、蓮生は表情を強張らせた。
「では……では後をついてきて、そのままここにとどまったと……そういう事か」
 訊ねると、女はゆっくりと頷き、蓮生を見つめていたその目を天に向ける。
「ああ、懐かしい――――懐かしゅうございます、蓮生様」
 うわ言のように告げられた女の言葉に、蓮生もまた天を仰ぐ。
「けれどもわたしは、わたしの心は、あの晩に垣間見た人間に、すっかり囚われてしまったのでございます」
「――――人間に心を寄せたというのか」
 女は小さな微笑を唇にのせた。
その微笑は、天で舞っていた時のものとは異なるものだった。
恋を知った女の、艶やかな輝きを、放っていたのだ。

 女はそれきり言葉を発することもなかった。
天を見上げ、女としての微笑を浮かべ、天が懐かしいと呟きながら、人間に心を囚われたのだと呟いた、天女だった女。
女は最後に蓮生の手を弱く振り払い、その勢いで崩れるようにベンチから転げ落ちた。
――――既に絶命していた。
 女が見つめていた空を、蓮生は言葉なく見上げた。
 青銀に光る月が、闇夜をぽっかりと照らしている。
 まだ残っていた桜の花が、風に寄せて花を散らす。
 女が最期に自分の手を払ったのは、『死』という穢れから蓮生を遠ざけるためだっただろう。
「おまえは――――」
 呟く声は花に沈んでいく。
 
――――おまえは、最期まで、この身を案じたというのか。
朽ちていくその身をどうする事も出来ない、無力なこの身を。


 天に戻った蓮生は、自分を探していた天女達によって迎えられた。
「蓮生様!」
「蓮生様!」
「人界へと降りていらしたのですか!」
 驚く彼女達の間をくぐり抜け、庭へと戻った彼は、やわらかな草の上に女の亡骸を静かに置いた。
「蓮生様、それは」
 言葉を失っている天女達を確かめて、蓮生は声を沈めて呟いた。
「……この天女は人界に降りていたのだな。……他の神仙の元ではなく」
 怒りではない。悲しみでもない。
否、怒りや悲しみがあるとすれば、無力なばかりのこの身に向けて。
「虚偽を申したことへの罰はお受けいたします、蓮生様」
「しかしそれよりも、今は御身についた穢れを落とさねば」
「――――穢れ?」
「死は穢れでございます、蓮生様。さあ、こちらへ。湯の用意が出来ております」
「人界の不浄な空気も穢れでございます。一刻も早く禊を」
「ああ、その者。死した後も蓮生様に穢れを寄せるとは!」
 
 憤っている天女達の言葉に、蓮生は沸きあがる怒気を振り払うように、髪をかきあげる。
 見下ろせば、不浄とされてしまった天女の亡骸が、幸福そうに笑んでいる。
月光ばかりが、その眠りを見守るようにその顔を照らしている。

「ささ、蓮生様」
 くいと袖を引く天女達の呼び声に、蓮生は睫毛を持ち上げた。
「その者の処分は、蓮生様が禊をされている間に済ませてしまいましょう」
「屋敷も変えた方がよろしいのでは?」
「穢れが入りこんでしまったお庭などで、蓮生様の安らぎが得られるはずもございません」

 袖を引かれながら、蓮生は再び女の亡骸に目を向ける。
「――――おまえ達、先に行って用意を整えてくれ」
「蓮生様は?」
「すぐに行く」

 蓮生の言葉は絶対だ。
 天女達はしずしずと姿を消していった。
 蓮生は女の亡骸の傍に膝をつき、女の耳に揺れていた耳飾りへと指を伸ばす。
真珠のような滑らかな光沢を放つそれは、月光の下で上質な光を放っている。
「……おまえの心を得たというその男は、どのような人間なのであろうか」
 訊ねるが、答えはない。
今は静かに眠るばかりの女の笑みに、蓮生は小さく唇を噛む。
「いつかその男を探し出し、おまえの心とこの形見を、その男に手渡そう。……約束する」
 真っ直ぐに女を見つめる。
月光に照らされた女の顔が、ふと頬を緩めたように見えた。

咎とは何であろうか。
人を恋うる心は、それは咎であろうか。
では、穢れとは何であろうか。
人を想う心は穢れを生むのであろうか。
咎とは、穢れとは。

心は風がさらっていくばかり。


―― 了 ――
PCシチュエーションノベル(シングル) -
エム・リー クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年03月24日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.