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『母なる慈悲と狂気。 』
浅海・紅珠4958



 風はまるで竜の咆哮のように鳴り響き、少女の耳元で荒々しくがなり立てている。
少女はその無遠慮な吼え声に、顔をしかめた。
無論、少女のまだ幼さが残る顔に容赦なくたたき付ける、雨粒のせいであるのかもしれない。
だが少女自身にとってはそのどちらであっても変わりはなく、
心の中では、前を行く祖母を見失わないよう、ただそれだけを強く思っていた。
 その祖母は、少女のことを気にもかけずに、ずんずんと前へ突き進んでいた。
その前方に在るのは、黒々と荒れ狂う海。
海は全てを包み込む母の優しさを持っているが、
同時に容赦なく叱責する母の厳しさをも、その内に秘めている。
本来ならば海を住処としているべき少女にとって、それは十二分に分かっていることであり、
間違いなく今己と祖母の目の前に在る海は、母の怒りが具現化したものだと思っていた。
 無論、泳ぎには過分の自信がある少女とて、こんな猛々しく狂う嵐の夜に、
一層激しく荒れている海には出たくない。
だがどうしても、今この場で必要な薬品の材料があるのだ。
それはこの荒れ狂う海の中にしか存在せず、
だから仕方なく、少女は祖母に連れられて、嵐の海にわざわざ入ろうとしている。
普通の人間から見ると、明らかな自殺行為ではあるが、
少女と祖母には成し遂げることが出来る自信があった。
…少なくとも、祖母のほうには。
 やがて少女の少し前を行く祖母の足が止まり、
ためらいを微塵も見せず黒い海の中に飛び込んだ。
それを察し、少女も慌ててそれに続く。
巨大な波が押し寄せ、少女のまだ幼い身体を飲み込んでいった。

 だが決して溺れたりはしない。
少女の名は浅海・紅珠、れっきとした人魚の末裔なのだから。












 海水を被ると、紅珠の細い二本の足は、忽ち鱗を伴う魚の尾になった。
今は黒い海の中でよく判らないが、昼間の晴れた海の中で見ると、
それは緋色に染まり、時折光に反射して金の粉が舞うように輝くのだ。
 紅珠は自分の尾が好きだった。
自分の名と同じ朱の色も気に入っていたし、
まるで金魚のように優雅にたゆたう様子も、御伽噺の人魚姫のようで。
だが今の状態は、そんな悠長なことを思っていられる状態ではなかった。
先程陸を歩いていたときと同じ、祖母の波を蹴る尾を必死で追いかけながら、
まるで意思を持っているかのように暴れる波を掻き分け進む。
 紅珠は自らの泳ぎに、強い自信を持っていた。
それはある意味、人魚の血を引く彼女ならば当たり前のことであったし、
水の中ならば誰にも負ける気はしなかった。
しかし、紅珠はいずれ気付くことになる。
―…水の中ならば。海の中ならば。
それは総じて、”穏やかな”という前提の上で成り立っていることを。



 紅珠は決して、海を舐めていたわけではない。
むしろ、誰よりも海の凶暴さを理解していた。
だがそれよりも強く、己の尾と、己に流れる血を信じていた。
そして、師匠である祖母がいるならば。
紅珠が海に負けることは無い筈だった。
 だが時に、運命は”そんな筈では”ということをもたらす。
それは紅珠にとっても決して例外ではない。




 それは一体、何時からだったか。
いつの間にか、前を行くはずの祖母の尾が波に隠れて消えていた。
紅珠は思わず目を凝らす。
(…ヤバイ)
 その事実に気付くと、紅珠は思わず顔を青くした。
無論、暗い海の中、それを伺う者は誰一人としていなかったが。
(海流も激しくなってきてる。…わッかんないよ。波が激しすぎて、居場所が掴めない。
俺、今一体何処に居るんだ?)
 紅珠は叫びたい気持ちを抑え、とりあえず波に攫われまいと一層強く波を掻いた。
一旦海流に流されたらお仕舞いだ。
いくら紅珠でも、体勢を立て直すことは出来ない。
(…海が重いよ。何で、こんな、俺の身体に纏わりつく?)
 海は紅珠の味方だった。
いつでも紅珠の背中を押してくれて、彼女の思うとおりに動いた。
…だが今の海は、紅珠をまるで敵と認識したかのように、
重く鈍く、彼女の華奢な身体を押し潰さんにばかりに蠢いている。
 紅珠は何故か哀しくなった。
海の中にいるのに、こんなことは初めてだった。
まるで信じていた人から裏切られたような、そんな感情。
(…やだ)
 誰か、助けて。
 だがそんな紅珠の切ない祈りを聞く者は皆無であり、
また紅珠に容赦なく襲い掛かる海は、紅珠の心の隙を放って置く程、お人好しでもなかった。
 一瞬、紅珠の尾が動きを止めた。
海はそれを待っていたかのように紅珠の身体を飲み込み、渦の中へと招きよせた。
一度巻き込まれたら、二度と動き出すことは叶わない。
紅珠は身体の細胞という細胞が悲鳴を上げているのを聞きながら、
海のように深い闇へと、意識を落としていった。












 青く澄んだ、空の色を移す穏やかな海。
その波は緩やかに砂浜へと被さり、また引いていく。
それは砂浜だけではなく、その上にうつ伏せに倒れている少女へも同様に。

 やがて、さく、という砂を踏む音がし、少女の上に影を作った。
未だ意識を混沌の闇へと落としている少女は、その存在を知らない。

 それが、己にとって、どれだけ大切な存在になるかということすらも。









            End.



PCシチュエーションノベル(シングル) -
瀬戸太一 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年03月24日

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