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『世界は斯くも美しく 』
藍原・和馬1533

 ぶわっくしょぉんっ! と盛大なくしゃみを一つして、藍原和馬は洟を啜り上げた。
 日が延び、風が温みを孕み始めた早春の頃にくしゃみとは、いやいや断じて花粉症なんかじゃないきっと違うていうか認めたら負けだろ。そんなことを考えながら和馬は長い脚を組みかえ、公園のベンチに踏ん反り返った姿勢で頭上を見上げる。そこには、磨き上げられた冬の蒼穹ではなく、薄らと灰色に霞がかる春雨間近の曇り空があった。
 ああ、もうすぐ春なんだなあ。
 今日は珍しく仕事のない、云わば正真正銘の休日だった。昨夜は空が明け白むまでネットゲームに精を出していたから、付き合っていた相棒も今頃は欠伸を噛み殺していることだろう。どちら様もオツカレってやつだ。
 時候柄体調を崩していないかが気になるところだが、でもまあ、彼女ならば自分よりも上手くやっているのだろう。なんたってあいつ俺よりずっとしっかりしてるもんなあ。あー、今頃何してんだろ。んーと、大学? 勉強? それともそれとも。
「って、はは、な〜に考えてんだ……っくしょおんっ!」
 二発目の咆哮を高らかに発射し終えた和馬は、不意に感じた肌寒さにぶるりと一つ身震いをした。────いけない、自分の体の方が心配だ。
 天上の曇天は所々の切れ間から白い光を滲ませており、高みで輝いているだろう陽光の存在をうかがわせる。きっと明日は、いや今日の午後には晴れるに違いない。和馬は知らず笑みに目を細める。そして視線の先、空よりはずっと近い場所にある木の枝の先に焦点を合わせた。
 ベンチの後ろには一本の樹が植わっていて、黒々と太い幹、それと同色の枝が優雅な姿勢で和馬の頭上にも手を伸ばしている。これはええと、そうだ、桜の樹だ。ならばあの先端で、目を凝らさねば解らないほど僅かな膨らみを見せているあれは、春の盛りを夢見て待つ花の蕾か。
「さっくっら〜さっくっら〜咲いたら花見〜ってね」
 妙な節回しで即興の鼻歌を作ってみると、何故だかその蕾に愛着が湧いた。背景の灰色が余計に庇護心を煽ったのかもしれない。
 かわいそうに、くしゃみ連発の俺より寒そうじゃないか。でもまあじっくり待ってろよ。そのうちさ、お日様が照って、風もそよそよと吹いてさ、女のコが薄着になって、そうやって街が春に染まっていくんだ。そうしたらおまえ、一躍春の主役なんだから、その時まで暫く、大人しく待ってろよ。なあ?
「ここ、よろしいですか?」
 不意に声を掛けられて肩と鼓動が跳ねた。
 見れば、豊かな黒髪に眼鏡をかけた女性がベンチの端を指して首を傾いでいる。柔和な面立ちは微笑むと更に愛らしさを増す様で、和馬は一瞬、果実のような唇に見惚れた。
「え、ああ、ど、どうぞ。あ、俺こっち詰めるから」
「ありがとうございます。失礼しますね」
 女性は滑らかな動きでベンチに腰掛け、手にしていた本を膝の上で広げた。髪を耳に掛けて後ろに流すその仕草は上品で、桜色のワンピースの裾さえも慎ましやかに揺れている様だった。
 彼女は背筋を伸ばしたまま本を読む。何となく居心地の悪い思いで、和馬は桜の蕾と、それからちらちら彼女を盗み見る。
 公園の中にベンチは幾つかあったが、人がいるのはここだけの様だ。……ということはわざわざ、自分の隣りを狙って?
「気になりますか、私のこと」
 紙面から視線を上げないで彼女が訊いた。ふふ、と笑みが口許を綻ばせる。
 そのラインに見覚えがあって、和馬は不意にぴんときた。ああ、そうか、そういうことか。
「あのさあ……もしかしなくても俺たち、初対面じゃないよな?」
 彼女は答えず、微笑みながらページを繰った。

************** **


 遙か昔のことかつい最近のことか、問われても記憶は朧で曖昧。一切が薄紅色の霞に隠されてしまっているかの様で、答えられるのはただ、夜桜と女に出逢ったということだけだ。
 その晩春の宵、和馬はふらりふらりと夜の街を歩いた果てに大樹の根元へと倒れ込んだ。風がひいやりと気持ち良かったから、大方酒精で頬を赤く染めていたのだろう。とにかく自分はどうにも眠くて、人影も見えぬ川沿いの路でふらふらと、居並ぶ大樹のひとつへと身を寄せた。
 逢魔が刻は人をも獣をも円やかに愚かにする。ましてや、ほろ酔い気分の男は尚更のこと。
 ああ、良い気分だ。隆起した幹の間に腰を下ろし、ごつごつと硬い幹に背を預けた。仰げば、はららと花弁を散らす幾重もの枝枝。纏う薄紅色は娘が着す振袖のように清楚で、また豪奢で。自分は手を伸ばして、戯れに舌を突き出した。その酔狂に興じたのか、濡れた舌先にひとひらの散花が舞い降りた。
 そこには月が在った。闇が在って、花が在って。そして、一人の女が居た。
『……お別れですね』
 花を咥えた自分はその時、きっと目を瞠ったのだと思う。
 何時の間にやら眼前に立っていたその桜色の女は、胸にしかと白い本を抱き、初めて逢う男へと声をかけた。


************** **

 お元気でしたか。女の問いに和馬は答える。ああ楽しく生きてるぜ、最近なんて特に。
「それは結構なことです。貴方は人よりも長く生きる方ですから、とうに倦んでしまってはいないかと案じていました。ふふ、余計なお節介でしたね」
「そーゆーあんたはどうなんだ。毎年毎年繰り返しで、欠伸の一つでも出ないのか? ……ってもまあ、あんたは我慢強そうだから大丈夫か」
「お褒めいただき光栄です。そうですね、飽きはしませんがただ、時折」
 痛むでしょうか。女はまたページを一枚進める。白い紙面がまた、現れる。
「痛むって?」
「総てが流れ、過ぎていくことが」
 女の声は穏やかで、今もあの時も変わらず淡々と言葉を紡ぐ。
 和馬は公園を眺め渡し、連れ立ち横切っていく袴姿の女学生に目を留めた。矢絣や花柄の着物に色取り取りの簪を挿して、それぞれ筒を携えた彼女らはきゃらきゃらと明るい声を上げながら、曇天の下を鮮やかに過ぎていく。まるで、早咲きの花の様。
「そっか、今日、卒業式なんだな」
 呟く和馬に女が頷いた。ええ、そんな季節ですもの。
「人は、命が短い故に区切りを持ち、それが為に人そのものは長く永く生き続ける。竹の節が、長く伸びるそのものを支えているように、彼らの命は全体として生きていくのです」
「じゃあ、それ個人で長く生きるものは?」
「ただ寂々と、その輪廻を眺めて生きて行くのでしょうね。痛みが痛みとして感じられなくなっても、なお」
 ページを繰る音がして、風の渡る感触があって、そして女学生たちの姿はとうに通り過ぎてしまった後の景色。
 残ったのはまた、灰色の空と咲き初めぬ蕾。

 世界の多くは正比例で出来ていて、つまり命の長さだけ、出逢い見送る風景が多いということだ。
 人は──例えば美しい少女は、清らかで鮮麗な色彩でこの視界に現れ、また消えゆく。言葉を交わすことも想いを募らせることも出来るけれど、どうしたって繋いだ手は放され、失われ、二度と同じ命には巡り逢えない。
 不貞腐れて思うことも、時にはある。なんだ、別れるために、自分たちは出逢うのか。始まりなどそもそもなく、総ては、終わりを告げるための過程でしかないのかと。

 ────例えばこの蕾も、散るための準備でしかないのかと。

「藍原さん」
 彼女が呼んだ。眼鏡の奥の黒曜石の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「痛みますか」
 和馬はぽりぽりと米神を掻いた後ゆっくりと視線を落とし、彼女の膝の上、開かれている本を見遣った。
 そこに在るのはただ真白な世界。彼女が読み続ける本が白紙であることに和馬は驚かなかった。
 だって、知っていたから。

************** **


 初めての逢瀬で別れを切り出した女は、和馬の前に進み出ると口許に淡い微笑を浮かべた。
 彼女は、頭上で咲き誇る花と同じ色をしていた。女性らしい、細身のワンピース姿。抱いた本の表紙は白く、背表紙にもどこにも題名らしき文字が見当たらない。緑なす黒髪は腰の辺りで切り揃えられており、その端が一筋二筋、宵風に戯れる様にして優美な曲線を描いていた。
「あんたァ、誰だ?」
 和馬は女の顔を見ようと目を凝らしたが、どうにも上手くいかなくて瞬きを何度も繰り返す。彼女の笑んだ唇はとてもよく見えるのに、その詳しい表情だとか、爪の指とか首筋の色、身体を形作る輪郭などを見止めようとすると、何故だろう、朝靄の中で霞む山の端の様にどうにも明確り瞳に映すことが出来ないでいた。
「誰なんだ、あんた」
 ざああ、と花の揺れる音。二人の間で花が散る。
 惚としたまま和馬は問いを重ねた。少々呂律が回っていない。ちえっ。女性を前にして舌っ足らずなど格好がつかないというのに。
 女はやや俯いて、肩を竦めながら笑みを深くした。形の良い指先で本の天をなぞり、私は、と緩やかな口調で言葉を紡ぐ。
「私は……そうですね、例えばその、花」
「花?」
 女の指が和馬の唇へと伸びる。つ、と触れられたのは張り付いていた一枚の花弁。そういえば先刻花に口付けられたのだっけと、ぼんやり女を見遣りながら思い出す。女はやっぱり霞の中。視得るのは、その微笑む唇だけ。
「私は花であり、貴方が背にしている樹でもあり。また、貴方が息をしているこの大気、世界、そして時間そのものであるとも、言えますね」
「はは、なんだあ、そりゃ」
「貴方、お名前は?」
「俺? 俺はあ、藍原和馬だ。どう呼んでくれたっていいぜ、おじょーさん」
「ふふ。では、藍原さん?」
「ああ」
「これでお別れです」
 薄紅色の霞が視界を覆った。花弁越しに、花だと名乗る女に口付けられた。
 とん、と何かが落ちる音がして、横目で追うとそれは彼女の懐中から滑り落ちた本──弾みで開いたページには文字も絵も何一つない、白紙の本が仰向けに倒れていた。
「なんで」
 息を止めていた和馬は少々上ずった声で訊いた。何を訊きたかったのか、自分でもよく解らないままに。
 そして女は答えた。春霞の微笑を、そう、異国の女神の様に湛えて。
「貴方が、恐らく私に近いものだったから」


************** **

「私は花、そして樹、または風。世界そのものでもあり、また何処にも無いとも言えるもの。仮初人の形を取って、貴方に、逢いましたね」
 そしてまた、逢えましたね。
 女の声は心なしか嬉しそうだ。……と思うのは、こっちがそれなりに嬉しいからなのだろうか。
 仮にも、間接とはいえ一応唇を交わした仲だ。再会を喜ぶか喜ばないかといったらそりゃあ、まあ、勿論、前者なんじゃないか?
「でも本当は、もう逢いに来ないつもりでした……と、言ったら怒ります?」
 和馬は一瞬口を噤んだ。女が笑ったところで、ふう、と長く息を吐いた。
「……あのさあ、そういうのはナシにしないか?」
「ふふ、ごめんなさい。ええ、ただ、ふふ。だって、逢ってしまうと痛むじゃありませんか」
「あー……痛む、かあ」
「独りで居続ければ知らない寂しさを、出逢ってしまったら知るでしょう?」
 腿に肘を置き、顔を前に突き出すような格好で和馬は公園を見渡した。そして、瞼をそっと閉じて、思い描いてみる。
 時が巡り、やがて春は来るだろう。樹が芽吹き、花が開き、今は色を潜めている世界にやがて満開の彩りが咲き誇る。
 そこに自分がいて。通りすがりの誰かがいて。子どもの笑う声がして、女のコの話す声が聞こえて、少年の駆けて行く音が響いて。
 ────そして薄紅色の花の下で、彼女が、自分を、待っている。
「…………」
 目を開けた。曇天が見えた。
 視界に中には誰の姿も見えなかった。ただ、独りきりだった。

  つまり、生きて行くっていうのは、こういうことなのだろう。
  現像が残像に変わっていくこと、未来が今となり、今がやがて過去へと流れゆくこと。
  越していく季節が多いだけ、その流れを幾度も見なければならない。
  残るのが痛みという寂しさと、刹那さだけだと、思い知らされながら。
  何度も。何度でも。
  ずっと、独りで。

「……けどさあ」
 ややあってから呟いて、和馬は唇の端を殊更に吊り上げた。
 それから彼女に向かい、にっかと花丸の笑顔を見せた。
「けどさあ、いいんじゃないか。だってまた、誰かには逢えるんだろ。な?」
「……ふふ。そうですね。ええ、そうなんです」
 彼女がこちらを覗き込む。真正面から見つめ合った彼女の顔を、零れそうな笑顔の表情を、今度こそ和馬は明確りと目に焼き付けることが出来た。
 印象以上にずっと綺麗な女だった。なるほど、この世界もなかなかやるものだ。こんな綺麗なものを、四季と言う時間の一部としているのだから。
「……では、そろそろ」
 ぱたん、と女が膝の本を閉じた。そして伸ばした背筋で立ち上がる。
「行きますね。私、これから忙しくなりますもの」
 ああそうか。和馬はまたベンチに踏ん反り返りながら、別れのために片手を振った。行くものを止めることは出来ない。自分はやはり見送る側だとただ思う。
 しかし不思議と気分は晴れやかだった。見れば雲間から金色の明かりが射し染めていて、後の青空を光は約束しているようだった。
「元気でな。あ、風邪と花粉症には気をつけ……っくしょおおうんっ!!」
 ……締まらない。洟を啜り上げながら和馬は頭を掻く。
 彼女は笑いを噛み殺しながら目許に浮かんだ涙を拭い(ってそれ笑い過ぎだろ!)、折り目正しく一礼した。
 まるで、初めて大切な人に出逢ったかの様に。それはそれは美しく。
 ”春”という世界の姿、そのままに。

「藍原さん、貴方に逢えて光栄です。貴方の綴る物語が、永く、佳きものでありますように」


************** **

 気付いた時にはもう、桜色の後姿は何処にも無かった。
 もう一度樹を見上げれば、徐々に明るくなっていく天空を背に焦茶色の硬い蕾が一つ。巡り巡る季節との再会を夢見て、今はまだ目蕩みの中にいるだろう未来の花が。────未知との出逢いを孕む命が、そこに。
「………お、」
 さらりと前髪を撫でる風に乗って。
 何処から来たとも知れぬ薄紅色の花弁が一枚。
 和馬の唇へと、口付けた。


 了


PCシチュエーションノベル(シングル) -
辻内弥里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年03月23日

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