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『未完成 』
一条・桂4837)&葛谷・享 (3374)


 玄関のチャイムを押してしばらくすると、でてきたのは自分の母親と同じくらいの年齢の女性だった。見下ろせば、家族のぶんだけ靴がある。いつのまにか小振りのローファーはそこに置かれなくなっていて、桂はそれの行き場所を知らない。
「おはよう、桂くん……ごめんなさいね……」
 彼女の複雑な表情を、既に桂は見慣れてしまっている。
「おはようございます。……じゃあ、享に……よろしくお伝えください」
 ぺこん、と頭を下げて、桂は学校までの道を走っていく。
 たいていの出来事に、人は慣らされながら生きていくのだ。
 忘れられぬ過去の記憶に、胸を押しつぶされそうになりながらも。
「…………」
 そんな桂の後ろ姿を、カーテンの隙間から盗み見る影があった。
 桂の幼なじみで、いままさに彼が迎えにやってきていた少年――――葛谷享、である。
 彼の静かな眼差しを背に受け、それでも桂は気付かず高校へ急いでいく。

 享の最愛の妹が心無い出来事に巻き込まれてこの世を去ってから、数ヶ月が経過しようとしていた。
 警察は明らかに他殺と断定しておきながらも、いまも犯人を見つけられないままでいる。
「……可愛い子、だったのにな」
 それまでは明るく、人を笑わせるのが好きな陽気な少年であった享は、彼女の死を境に変貌してしまったのだった。同級生はおろか、1番の仲良しであった桂の存在でさえも遠ざけて、最近はじっと家に篭るままであると云う。
 自分の見知った者が何かの悪意の許に傷つけられた事実は、桂にとっても大きなショックであったが、実の妹がその毒牙にかかったのだとなれば享の悲しみは相当のものであるだろうと桂は思う。
 隣同士の住居の、手を伸ばせば届くほど近くにある、幼なじみの部屋。
 ときおり、カーテンの隙間から享と目が合うことがあったが、彼はいつも怒ったような顔をしてその隙間を勢い良く塞いでしまった。
 むっとするよりも先に、そのしぐさが桂には痛々しかった。

「しばらくは、そっとしておいてあげるのが1番なのよ……桂、あまりお隣にちょっかいを出すのはやめなさい」
 ある日の夕餉で、桂の母親が彼に云った。子供同士が仲良く付きあっていれば、自然とその親同士の距離も近づいていく。心を痛めることしかできない高校生の自分と比べれば、母親の言葉はとても正しく、思いやりのある言葉のように桂には感じられた。
「……でも……」
 それじゃ違う、と桂は強く思う。
 享の心に余計な傷を与えてしまわないように留意したまま、見守っていようと考えたことは桂にもあった。
 が、いつ登校しているものか、たまに学校で見かける享は、日に日に何かに追いつめられて行っているような気が桂にはしていたのだった。
 いまだ若い桂には、ひとの生き死にの真実など理解することはできない。
 それでも、いくら享が心を痛めても――――彼の妹が、ふたたびあの笑顔を享や桂に向けてくれるわけでは決してないのだ。
 享には享の、未来がある。
 そのために、ほんの少しでも、彼の心の傷を癒したいと思う。
「……母さん、俺、今日疲れちった。早く寝るからね、おやすみ」
 食卓を立つと、桂は母にそう告げてリビングを出ていった。
 その後ろ姿に、何か言葉を投げ掛けようと口を開いた母親であったが。
「――――おやすみなさい。寝るときは、きちんと窓に鍵をかけるのよ?」
 優しく笑んで、息子を見送るに留めたのだった。

 カツン――――カツン。
 自室の窓から身を乗り出して、桂は享の部屋の窓にBB弾を投げつけている。
 ガラスに弾けて階下に落ちていく弾は、朝になったら土と混ぜてしまえばいい。
 カツン。カツン。
 それは、小学生のころから続けていた、ふたりだけの秘密の呼びあい方であった。デスクのある辺りの照明が仄かにカーテンの向こうに見えるときには、何度かBB弾を投げつけてやれば享は窓から顔を出した。
 弾をしまってある小瓶の中には、あと少ししか弾が残っていない。
 カツン。カツ。カツ――――
「何だよ。寝ようとしてたんだけど」
 そのときだった。
 ガラガラ、と窓が開き、薄明かりの中仏頂面の享が顔を出した。
「…………ごめん。俺も、もうすぐ寝るとこ」
「…………」
 ならば、どうしてわざわざ声をかけた。
 そんな享の心の声が、桂の脳に直接響くようである。
「ん……と、――――元気かなって、思って……」
「…………」
 享はじっと桂を睨め付けたきり、言葉を発しない。当然の反応だろうと、問うた直後に桂は後悔した。自分の妹を殺した犯人が捕まらないままの兄に向かって、元気かも何もないだろう。
 なんて、気遣いのたりない人間なのだろう。桂は自分で自分が情けなくなる。
「ごめん……なんか、――――やっぱり、迷惑……だよな……」
 享の沈黙に耐えきれず、桂は俯きがちにそう呟いた。
「しつこくしてごめんな。俺、享に早く……元気になって欲しかったから……」
 ともすれば泣きだしそうに息を詰まらせた桂の様子に、僅かに享が狼狽する。
「やっぱ、母さんの云う通りだったんだ。……もう、しつこくしないから――――」
「……何云ってんだ、ケイ」
 と、少し大きな声で享が言葉を投げた。はっ、と桂が享を見上げる。そこには、少し怒ったような顔の――――それでも、ここ最近の刺々しさを少し柔らかくしたふうな享がいた。
「享……?」
「明日も、朝うちに寄れよな。っていうか、起きたら起こせ。……まだBB弾、残ってるんだろ?」
「……うん!」
 満面の笑みを浮かべて大きく頷いたら、どうしてか視界が潤んだ。ぱちぱちと目を瞬かせ、桂はきゅっと口唇を噛みしめる。
「寒いから、きちんと窓締めて寝るんだぞ」
「うん」
「あと、鍵もかけろよ。最近ぶっそうな事件が多いから、な」
「うん」
「……腹出して寝るなよ」
「う、うん」
「朝、寝坊するんじゃないぞ」
「……うん……」
 桂よりも背が高く男っぽい享は、何かと云うと桂を子供扱いしたがった。
 以前はいちいちそれに腹を立てた桂だったが、幼なじみの調子が少しでも以前に戻ったと思えばそれも嬉しい。
「……おやすみ。また明日」
「ああ。明日な」
 何気ない挨拶のあとで、ふたりは互いに窓を閉める。
 大丈夫だ、桂は思う。
 享は何ひとつ変わってはいない。
 自分がいままで通りに接することを、享は厭んではいないのだ。
 別れたあとも、享の部屋の明かりは灯されたままである。
「……早く、前みたいに……元気になればいい……」
 もそもそとベッドに潜り込み、桂は数刻前よりもずっと穏やかな気持ちで目を閉じる。

(了)

■□■今までのご愛顧、本当にありがとうございました。 森田桃子■□■
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東京怪談
2005年03月17日

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