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『それは情熱にも似て真摯 』
高遠 聖1711)&ラティメリア(1922)


 首からかけた小さな十字をそっと外し、祭壇の前で聖水に浸した。祈りの言葉は口内に小さく、己と『父』の耳に届けば良いと願う。
 静謐な礼拝堂の空気は冷たく澄み、いまはキリストの姿を模した白い像が静かに彼を見下ろすのみである。
「Holy, holy, holy...」
 聖なる哉、聖なる哉、聖なる哉。
 聖水の滴る十字を優しくハンカチに受けながら、歌うように囁くように、神父――――高遠聖は毎週の心の安らぎとなっている小さな儀式を執り行っている。
「……あなたの神は、あなたの言葉に答えるのか? 聖」
 神父がふたたび、十字をそっと首にかけるのを見計らってから、碧髪の少女はそっと問うた。ラティメリア。海の民、渡理の少女である。
「僕たちの中には既に、主からの答えが眠っているのです。それを知るのが、祈りの理由」
 穏やかな口調で聖は返し、ラティメリアの方へと向き直った。彼の抱く聖書は古びて、所々の色が褪せている。そんな汚い本を大切そうに抱いている聖が、それでもラティメリアは嫌いではない。
「あなたは、私がここに出入りしても、異教徒だと云って叱ったりしないな」
「主のご加護は、万物に平等ですから」
 まだまだ世間を知らぬとは云え、ラティメリアの見た人間の中でも聖はとくに慈愛に満ちた人間であると彼女は思う。
 が、どうしてか――――彼の中には、『虚ろ』を感じてしまうのだった。
 聖の両親は、彼がまだ幼いころに死に別れ、それをきっかけに教会での暮らしを始めたのだと聞いたことがあった。すでに遠く忘れ去ってしまった自らの境遇とは間逆である。
 間逆の境遇を持つ者が、間逆の神を信仰し、間逆の暮らしを営んでいる。
「――――あなたは、神をその目で見たことがあるのか?」
 ラティメリアの細い声音は、礼拝堂の空気を凛と響かせる。聖の背後には、彼の背丈よりも僅かに大きなキリストの像があった。
 像は微動だにしない。聖を救うことも、自分を罰することもしないただの像、である。
「この目に見るか否かは、さして大きな問題ではないのです、よ」
 ラティメリアに向けられる聖の微笑も、何ら変わることはない。
「……目に見えぬ神を、あなたは信じることができるのか? その手で奇跡も起こさぬ、信仰の見返りも罰も与えぬ神のことを?」
 渡理の民であるラティメリアからすれば、聖の信仰する神の存在はあやふやに過ぎる。
 彼女の神は、深海に住まう魚の形を借りて彼女たちの前に姿を現す。死を司り、死を束ね、渡理の民の魂を鎮めることで神の脅威を示す。
 神とは、たしかに存在する者に与えられる称号である。たしかな力を持ち、たしかな安らぎと脅威を与える者を、神と呼ぶ。
「イエスも、エホバも、ただ天に座するだけで、その手を民に伸ばそうとはしない。それは、信じることの方が、苦痛ではないのか」
 聖は笑んでいる。彼女の言葉を、自らの信じる神への冒涜であるとは受け取っていないようであった。
「……主は、ただ天にあるだけで主なのです。そして僕は、ただ祈るだけ」
「…………」
 聖の言葉に、ただラティメリアは彼の面持ちを見上げるのみである。
「聖書は、ただ聖書であるだけで救いになるのです。自分が無知で無力な、ちっぽけな人間であることを知るために、人は聖書を開きます。そしてその中に、神の姿を見るのです」
「……人とは、複雑な生き物なのだな」
 しばしの沈黙ののち、ラティメリアは小さく呟いた。風が梢を鳴らす音が聞こえる。礼拝堂の中は、ただ静寂を保ったまま凍てついている。
 面白い、と思った。
 彼の中には、虚無と慈愛が同居している。
 虚ろな心に、信仰が慈愛を根差したのか。
 慈愛に満ちた心に、信仰が虚無を根差したのか――――
 もっと彼を知りたいと、ラティメリアは思う。
「複雑で、脆くて、儚い。それが人間というものです」
 聖はラティメリアの言葉にそう呟き返すと、彼女に向けて静かに十字を切った。
「あなたに神のご加護があらんことを」
 聖の信仰する宗教では遠い昔、イエス・キリストが自らを磔にする十字を背負ってゴルゴタの丘に登り、そこで万人の罪を償うために命を失ったと言い伝えられているらしい。彼らはイエスの心を忘れぬために十字を切り、イエスの心を伝えるために教えを説くと云う。
 互いの神の、存在理由が異なっている。
「…………」
 聖の祈りに返す作法を、ラティメリアは知らない。知るべきでもないことなのだろうとも思う。信仰は生半可な作法で現すことのできるものではない。
 が、悪い気はしなかった。
 聖の祈りに返すように、ラティメリアがす、と背伸びをする。合わせた視線の、それぞれの瞳には赤と碧が宿っていた。
「――――いつか、私の神にも会わせたいと思う」
 触れるのみの、優しい口付け。
 聖の口端にそっと、ラティメリアは柔らかな感触を残し――――そして、去っていく。
 それは契約にも似た、厳かな触れ合いだった。
「……幸せな、約束ですね」
 聖が囁いた。
 ラティメリアはそんな聖に笑い返し、静謐な夕は過ぎて行く。

(了)

■□■今までのご愛顧、本当にありがとうございました。 森田桃子■□■
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聖獣界ソーン
2005年03月17日

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