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『桜は春を惜しみ泣く 』
藍原・和馬1533


「だからさ、もう来なくて良いって云ってやったんだよ――そうじゃないか、フロアに出たって大あくびばっかりしてやがるんだから」
 店を閉めたあと、仕事仲間だけで食うまかない飯はうまい。勢いよく飯粒をかき込む藍原の目の前で、コック長は割り箸を振り回しながら熱弁をふるっていた。
「スミマセンスミマセンって、バカのひとつ覚えみたいに頭下げるばっかでよう……おい、和ちゃん聞いてるのかい?」
 もぐもぐと口を動かしながら、藍原はもっともらしい様子で何度か大きくうなずいてみせる。自分の飯には半分も手をつけていないままで、コック長はふたたび演説を披露しはじめた。
 個人経営の小さなレストランにとって、アルバイトひとりひとりの存在は大きいものである。藍原よりも少し前に入った大学生のアルバイトが、仕事に身が入っていないからという理由で先日クビになった。彼に引導を渡したのはコック長であったが、結果的に夜のバイトの中では1番の古株となった藍原に彼は毎度同じ口調でクビになった大学生のことを愚痴るのだった。
「まあ、誰にでもそういう時期ってありますから……ほら春だし。何かあったんだと思いますよ」
「知らないね――――おおかた、留年したか失恋したかのどっちかさ」

 店を閉めて外に出ると、遠くの方で低い空が白く靄がかっていた。
 ふんわりとした香りは風に乗って藍原の鼻腔をくすぐる。
 桜の蕾が、ほころびはじめているのだ。

 いつもは時間ぎりぎりの終電に乗って帰宅するところを、桜見たさに歩いて帰ることにした。知らない角を曲がり、知らない道を往き、知らない橋を渡る。視界の左の方には高架線路があった。それを見失わなければ、迷うことはないだろう。
「…………良い、ね」
 幾年もの時間の流れは、東京の街を少しずつ変貌させていった。かつては横に広かったこの土地の景色も、今は高層ビルや高架に埋め尽くされて縦に長い景色になった。空は少しずつ、狭く淡泊になっていく。あのころはくっきりと輝いていた星も、見上げればぼんやりと陰影を落とすのみとなっている。
 そんな中で、うつくしさを損なわずにありつづけるのが桜だった。

 桜は良い。見る者の罪を糾弾しないし、罰を与えることもしない。

 クビになったアルバイトの大学生のことを少し考えてみる。
 コック長が彼の咎を影で責めはじめる少し前から、藍原は大学生の異変を感じ取っていた。何かを悩み、思案する眼差し、息遣い。
 直感、と表現するのが正しいかもしれない。彼は自分の人生に起きた何らかの出来事やターニングポイントと対峙し、それに苦悩しているのだと藍原は悟った。
『あ、やばい。イチタクのオーダー取り忘れてた』
『昨日、オンラインゲームやりすぎちゃってさ……眠いったらないわ』
 そんな言葉で、ともすれば思案のために手が止まってしまいそうな彼のフォローをしてやっていたのだった。

 白い靄が、うっすらと桜色を帯び始める。
 濃くなる香りを肺いっぱいに吸い込みながら、藍原は遠く仰ぎ目を細めた。

 ある日、ふと視線で捉えた大学生の表情に、変化があった。
 迷いや思案は変わらない。が、そこには何がしかの『覚悟』が生まれたように藍原には見えた。
『週末だから忙しいぜ、頑張ろうな』
 そう云って彼の肩を叩いてやった。
 フォローを失った彼はその日からなしくずしに調子を崩していき、とうとうコック長の目にも留まるほどに疲弊していったのだった。
 ――漫画家になりたいんです。
 少し前の休憩時間でふたりきりになったとき、彼が漏らしたそんな言葉を藍原は思い出す。

 あたりを付けた角を左折したとき、都会の真ん中、排気ガスを撒き散らかす自動車たちが往く高架の下で、人の手によって作られた桜の人工林があらわれた。
 まっすぐに吹いたなまあたたかな風が、ほの甘い桜の香りを放っている。闇を照らす灯籠のように眩しく咲きほこっている桜の木の下で、藍原は立ち止まり、幹に背を預けた。

 あの大学生が宿した覚悟は、最後まで聞けずじまいだった。
 迷いがあり、決して損得のためではない深い思案がそこにあり、覚悟がなされた。
 良くある話しだと、藍原は思う。
 そして同時に――――彼からすればそんな些細な心境の揺らぎが、生きる誰かの運命を左右するという事実を、羨ましく思う。
 自分とて、無駄に歳月を重ねてきたわけではないと自覚する。
 が、自分に損なわれた瑞々しさの行方を、あるときある瞬間、ふと探してみようという気になったりもする。

 桜のせいだと、藍原は考える。
 ……ことに、する。

「――――……別に、珍しいことじゃないしな」
 人はたくさんの出会いと発見を経験しながら、同じだけの別れと挫折を経験していく。
 そうしていくことで、己という存在が何者であるのかを自覚していく。
 そうしていくことでしか、己という存在が何者であるのかを自覚できない。
 因果な生き物であると藍原は思う。
 そして同時に――――愛しい生き物であると、思う。

 人工林を背に、家へ向けてゆっくりと歩を進め始める。
 通り過ぎようとしていたアパートの二階の窓をふと見上げると、カーテンの閉じられたそれの奥はまだ明かりがついているのが見えた。
「なまじ、鼻が良いのがあだになった」
 藍原は苦笑交じりにひとりごちて、ジャケットのポケットに両手を突っ込む。
 こんな時間まで起き続け、あの大学生が何をしているのかは判らない。
 深夜放送のテレビ番組を観ているのか。
 録画しておいたトレンディドラマでも観ているのか。
 本を読んでいるのか、ゲームでもしているのか。
 漫画でも、描いているのか。

 桜の咲くころには、感傷的になりすぎる。

 家の鍵を探してズボンのポケットを探っているとき、肩口に淡い桜色の花びらが1枚張り付いているのを見つけた。
 ふ、とそれをふきはらい、藍原は玄関をくぐっていく。

(了)

■□■今までのご愛顧、本当にありがとうございました。 森田桃子■□■
PCシチュエーションノベル(シングル) -
森田桃子 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年03月16日

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