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『緋色を纏う記憶 』
白神・空0233












―――心拍数が上っています。
―――脳波に乱れ。
―――催眠鎮静剤、フェノチアジン系精神安定剤、抗不安剤、睡眠導入剤、躁状態治療剤投与。
―――催眠鎮静剤投与。
―――フェノチアジン系精神安定剤投与。
―――抗不安剤投与。
―――睡眠導入剤投与。
―――躁状態治療剤投与。
―――効果なし。心拍数さらに増加。
―――脳波異常値に上昇。
―――もう一度だ。
―――指示を確認します。催眠鎮静剤、フェノチアジン系精神安定剤、抗不安剤、睡眠導入剤、躁状態治療剤の定量投与。
―――そうだ。今、これに死なれては戦争の逆転は望めん。
―――しかし、肉体構造、精神構造に異常をきたす可能性があります。
―――構うか。今まで散々薬を投与してきた。どれもこれも、一ヶ月もしないうちに効かなくなる。量を増やすのは当然の処置だ。
―――了解しました。催眠鎮静剤投与。
―――フェノチアジン系精神安定剤投与。
―――抗不安剤投与。
―――睡眠導入剤投与。
―――躁状態治療剤投与。
―――主任、駄目です! 心拍数異常値をはるかに越えて……っ!
―――SOLA5029が……
―――今度は何だ!
―――目を……覚醒を……っ!!
―――そんな馬鹿な! これだけの催眠導入剤を使って、覚醒などあるはずが!!
―――脳波が異常値をはるかに上回っています!
―――くそっ! こんな時にっ!! 後僅かだと言うのにっ!! 神は、神までが我等を見捨てるかっ!!


 彼女は眼の前を、大きな空気の泡が通った。耳に届く雑音が煩わしい。
 ゆっくりと開けた視界。青く歪んだ世界が広がった。
 生気のない銀の瞳を巡らし、何の気なしに状況把握を行う。
 白く長いものを纏った何かが動き回り、何か音を立てている。水を満たした円柱がそこらに乱立し、蠢くように長いチューブがそれから這い出していた。
 それらを見ているうちに、自分が閉じ込められている事を知る。体が動いて、目に鬱陶しいほどに様々な色のチューブがまとわり着いた腕が、ひたり、と境界に触れた。透明な壁が、外と中を隔てている。
 特に出たいとは感じなかった。ただ、不思議であった。


―――催眠導入剤をありったけ投与しろ!
―――しかし!
―――黙って従え! こいつはな! この兵器は、まだ未完成なんだ! 目的が刷り込まれていないんだぞ! 目覚め次第、私たちを食い殺すかもしれないんだ!
―――しかし! 二十年以上にわたる研究の成果を、こんな事で不意にする事はできません! POAに対する最後の抵抗を!
―――その為に調整してきた! 空腹の絶頂の化け物だ! お前は貪り食われたいのか!
―――索敵レーダーに反応! MSが数機突如姿を現しました!
―――奇襲は我等の専売特許だったのだがな……
―――主任!
―――主任!!
―――各人退去! この施設を放棄する!
―――主任! SOLA5029は!
―――当然爆破だ! 目的を刷り込む前にやつ等に渡してやるか!


 頭上から、轟音が響く。水槽内の水が僅かに振動し、その威力を伝えてきた。
 青く歪んでいた世界が赤く明滅を始める。視界にあった円柱に白い動くものが取り付いて、離れると直ぐに爆音を上げて四散した。
 手を突いたその下に、白いものが寄ってきて何かを始める。彼女は興味を誘われて、顔を近づけた。見上げてくるその黒い水晶に、触れてみたいと。
 不意に。
 もう一度轟音が響く。目が回り全身を何度となく打ち付けた。体中から、何かが抜け落ちる感触。特に、顔や頭が多かった。急に息苦しくなり、衝動に任せて息を吸った。痙攣が起こり、体の機能を逆巻いて体の中から何か水分を吐き出す。
 荒く胸を上下させて、空気中から専ら酸素を取り込んだ。息をした。
 顔を上げると突如明確になった視界に、赤く明滅する世界が広がる。
 音がして顔を向けた。白い何かが、二体。
 その時彼女は、急激に自分が空腹である事を思い出した。
 何か食べたい。食べなければ死んでしまう。この飢餓を癒す為に何をすればいいのか。
 目を瞬いて、もう一度白い何かを見た。
 無条件に、おいしそうだと感じる。
 本能と行動が直結して、彼女は体を起こすと同時に走り出した。がくん、とよろめいてから、直ぐに走りやすくすれば良いと知っていた。
 体中がざわざわする感触。体が軽くなる。そして、開放感。
 食事の為の準備は全て整った。
 軽い跳躍。こちらに向けられていた黒い何かを払う。けれど、再度向けられる。何か嫌な感じがした。どうするか? 離れないなら、離せばいい。
 指先から飛び出した鋭利な何かがそれを切り離す。
 鼻につく、芳醇な香り。
 何かが、壊れた。
 空腹だった。
 どうしようもないほどに。
 お腹がすいた。
 お腹がすいた。
 お腹がすいた。
 それだけだった。
 他には何もなかった。
 爪も牙も赤く粘って。
 お腹がすいた。
 お腹がすいた。
 お腹がすいた。
 衝動に抗えない。
 靄がかかった思考は、何も働かない。
 自我すら、見つからず。
 必至だった。
 ただ、空腹を癒すことだけに。
 彼女は、その術を知っていた。
 お腹がすいた。
 お腹がすいた。
 お腹がすいた。
 何時しかそこには、彼女の食べかすだけが残った。
「お腹が、すいた」
 ポツリと、音が漏れた。
 自分が漏らした音だと気がついた瞬間、彼女はそれが声だと知った。
 もう、食べるものがない。
 あの水槽の外に世界があったように、この外にも世界があるかもしれない。美味しいものがあるかもしれない。
 彼女がそう思って足を踏み出した瞬間。
 今までにない爆音が響いた。耳をとっさに伏せたけれど、あまり効果はない様に感じられるほど、直ぐ傍で何かが爆ぜる。
 空気が体を叩いた。足元がすくわれる。一瞬見えた天井が、降り注いでくるのが解った。視界の端で、様々なものが潰されてゆく。
 あの獲物達のように潰されてしまうのか。
 疑惑。そして、体を走った恐怖。
 羽ばたいて逃げようと、体が変わる。更なる爆音。視界の端に、赤々と燃える炎の塊が映った。
 巻き込まれたくない。
 そう、思って。
 視界が暗転する。脳裏に刻まれた赤。明滅する赤。辺りにぶちまけられ、自らをも染め上げた赤。自分を、世界から退場させる赤。
 突然彼女は”跳ばされ”た。














 ん、と声が漏れた。最後に聞いた声だった。
 目が覚めたが、眼の前に広がる光景は青色に歪んでいるものではなく。赤く明滅するものでもなく。ただ、蒼。
「生きてたか」
 声がして顔を向ける。急に、蒼が消えて白とまた別な藍が見えた。
 体中を支配していた空腹感がすっぽりと消えうせている。まるで、体の半分を置き忘れてきたような不思議な違和感。
「あんた、どこから流されてきた?」
 急に視界に、顔が映る。それはあの時と同じような動くものだったが、彼女はもう、おいしそうだとは思わなかった。話しかけられて、そこに自分が存在していると知った。
「どこから来たんだ? おい、言葉は通じてるか?」
 どこ、言葉、断片的なその発音を、彼女は確かに理解していた。目を瞬く。
「名前はいえるか?」
 名前、というのが固体識別コードなら、彼女にも答えられる。
「SOLA5029」
 意味は、まるで解らない。そこにどんな想いがあったのか、彼女には解らなかった。
「SOLA? そら? あんた、どこの国の人間だ?」
 何も、解らなかった。
「解らないのか? まともな名前じゃねぇな。もっとこう、呼ばれて嬉しいもんを名前って呼ぶんだぜ?」
 言葉の羅列。知らない発音。けれどその意味は確かに理解している。
「なま、え?」
 固体識別コードとは、別のものなのだろうと理解した。
「わけありみたいだな。じゃぁ、空(そら)。まんまか。だったら、空(くう)でどうだ?」
「なま、え?」
「おう。そうだな。苗字もいるか? あんたを見たとき白く光って神様かと思ったんだぜ? 急に海に落ちてきて、その時は確かに羽根があったのに、ここに引き上げてみたら魚みたいじゃねぇか。なのに、暫くしてると人間になっちまった」
 白神でどうだ? その顔が、なにか変わったように感じた。目を凝らして見てみようとしたが、あいにく後ろからの光でよく見えない。
「白神、空」
 声にすると、何故だか暖かな響。SOLA5092ではない、響。
「気に入ったか?」
 ここはどこだと、問おうと思った。けれど、また何も解らなくなってゆく。獲物ではない何かが、居たはずなのに。
 それすら、解らなくなってゆく。
 意識が、途切れた。








 眼の前が真っ暗だった。
 赤も、青も、何もない黒の単色。
 彼女は体を起こした。”ここ”がどこかまるで解らなかったのに、嫌に意識が冴えている。
「あたし、いかなくちゃ、ね」
 喉を滑る声。頬が緩んで、笑った。
 白神空。それが”あたし”。
 どこで知ったのか。何があったのか。急速に心の中から消えてゆく。
 そんな事には頓着しなかった。
 ”ここ”に”空が居る”のだと。
 確かに、知っていた。
 腰までの長さのシルバーブロンドを翻し、銀の瞳に生気を満ちさせて、歩き出す。
 体が変わって、走りやすくなる。
 全身を銀の体毛が覆った。何も纏わない体を、外気から守ってくれる。
 鼻が冴えて洞穴に居るのだと悟った。潮の匂いが鼻につく。
 暗闇を終えると、ぼんやりと薄暗い海岸で。
 跳躍。
 どこに行くのか。どこから来たのか。
 そんな事は関係なく。
 艶やかに輝いた白銀の翼をはためかせて。頬が風を切るのを感じながら。
 白神空は飛翔した。





END
PCシチュエーションノベル(シングル) -
泉河沙奈 クリエイターズルームへ
PSYCHO MASTERS アナザー・レポート
2005年03月10日

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