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『ホワイトディ〜静耶君のごくごく小さな明日への目標〜 』
架月・静耶4365

「……あ」
 それは、ある仕事を終えたときのことだった。架月静耶は、今日という日の日付を不意に思い出した。そこまでしばらく、それどころではなかったというのはあったが。
「もう、こんな日付でしたっけ」
「何言ってんだ、架月」
 今回の仕事で一緒だった同僚が奇妙な顔で静耶を見て、それからすぐに「ああ」と納得する。そろそろ、三月も半ばに迫る。男も女も日付を気にするのなら、アレしかない。
「先月はいろいろもらったのか?」
 気づいた同僚は、かすれた口笛で静耶を囃してきた。同僚の考えの、その半分は真実であったが……それは、お返しの数に悩まされるほどではない。
「そんなことありませんよ……学生時代から、気を持たせないように、お相手する気のない方からは受け取らないことにしていますから」
 もらわなかったのではなく、受け取らなかったが正解だが。
 静耶ほどの端麗な容姿であれば、学校なんて箱庭の社会では、女の子には黙っていてもモテる。だが静耶は学生時代には、ただの一人にも振り向かなかった。あまりに女の子に興味を示さなかったものだから、逆に男からもよくモテたものだ……やっぱり静耶に、その気はなかったが。
 さて、しかしそれも今は昔の話だ。
「へえ? てえことは、お返しは本命ってわけだ。どこの誰だい、静耶姫を射止めた勇者は」
 にやにやと笑われて、静耶は少ししまったと思った。実は相手も同僚の女性なので、あまり広まるのは微妙だろうか。彼女がまわりに知られてもよいのなら、言ってしまってもよいのだが……今度聞いてみようと思いつつ、今日のところはごまかすことにする。
「先輩の知らない人ですよ」
「なんだ、つまらねえなあ」
 同僚は頭の上で手を組んで、本当に面白くなさそうに言った。深い追求がなかったことは幸いか。追求されて、万が一にも口を滑らせたなら、明日にはだいぶ同業者に広まっているような気がした。
 ……相手がわからなくても、憶測でそれなりには広まりそうだったが。


 静耶は仕事から帰った後、手早くシャワーを浴びて出かける支度を整えた。何はともあれ、買い物に出かけなくてはならないということだけはわかっていたので。
 ただ……
 スーツを着替えて支度を整えたところで、考え込む。
 お返しと言っても何がよいのだろうと。今まで母以外の女性にホワイトディのお返しなど、静耶はしたことがない。
 母と同じようにプレゼントを選んでもいいのだろうかと、首をひねる。
 しばらく悩んだ末に……
 静耶は電話の受話器を取った。

 ――トゥルルル、トゥルルル、トゥ……

 受話器の向こうで呼び出し音が二回と半分ほど鳴って、それは途絶えた。そして替わりに、眠そうな声が出る。それに静耶は呼びかけた。
 あれぇ、と相手を静耶と認識した声は少し嬉しそうな装いに変わり、そして何かと用を訊ねてきた。用もなしに電話をかけてくるような人間だとは、思われていないのだろう。それは事実なので、手っ取り早くてありがたいことだった。
「ちょっと相談があるんですが」
 少し声に緊張がにじんだ。電話してしまったが、彼に相談しても良いものか、という理性の警告が脳裏をよぎったからだ。ただからかわれて終わるかもしれないと。
 そんな静耶の葛藤を知ってか知らずか、電話の向こうからは「なんなりと」などと、少しおどけた返事が返ってくる。
 静耶は意を決して言った。
「ホワイトディのお返しというのは、世間一般的には、どんなものをどのくらいというのが相場でしょう」
 電話の向こうが、しばらく沈黙した。
 そして。
 ――俺なら何でもいいですよ?
 と、まじめくさって答えてきた。
「君からは何ももらってないよ!」
 そうだったっけ、と、とぼけて笑いながら、向こうの声はまた元の調子に戻る。
 ――まあ、まじめな話、何でも良いかと。
 要は気持ちだし、と。
 あまり役には立たないアドバイスだが、それもそうかと静耶が納得しかけたところで。
 ――でも、一般的にはもらったもんの三倍返しですね。
 静耶はかすかにうなった。
 金に困っているわけではないが……さて、バレンタインディにもらったものは、いったいいくらだったのだろうと根本的なところを考え込む。
 ――本命ならば五倍ですよ。
 静耶はさらにうなった。
 ちなみに五倍というのは、すでにかなりからかわれているのだが……静耶は気づいていない。
 静耶が気になっていたのは、本命という言葉にだ。
 対抗馬がいるわけではないので、本命という言い方は少し引っかかるが、静耶が本気なことは間違いない。今後どうなるにせよ、いつか彼女にプロポーズをするのかもしれないという気はしている。ただそれが今ではないのは……
 いまだ母と比べてしまう癖が抜けないからだ。それが俗にマザコンと呼ばれることは静耶にも自覚があるので、彼女の前では控えめにしている。だが、母離れしようという気もないわけで……静耶的には、母と彼女と愛情を両立できるのがベストだ。母親については自然と大切にすることが染み付いているので、後はそれに劣らぬだけの愛情を彼女に注げるか否かである。
 逆を言うなら母親よりも愛せる自信が出るまでは、お付き合いから先に進むことはできないかもしれなかった。
 本命か、本命ではないのか。本命なような気がする。いやしかし……などと、そんな間違った自問自答に静耶は意識を奪われていた。
 なので、すっかりそのときには電話の向こうの声が楽しそうに弾んでいることなどには、静耶は気づかなかった。
 それに……いや、初々しいということが、それだけで他人の玩具になりうるのだということに静耶が気づくのは、はるかに先のこととなる。
 おかげでその電話一本で、静耶はホワイトディに関わるあらゆることを吹き込まれた。
 そりゃもう、あることないこと。


 微妙に偏った知識を抱えて、静耶がやってきたのはブティックだった。
 他の時期であれば女性ばかりの店内に足を踏み入れるのには、いささかの抵抗があるものだが。この時期においては、その抵抗感は若干薄れるようだった。
 広い店内には、女性に混じって男性の姿も見えるからだ。静耶と同じ目的で買い物に来たと思われる姿だった。ただ店自体それなりのクォリティのものであるせいか、こんなところに服を買いに来る男性は手馴れているのか、彼らは悠然とドレスを選んでいる。静耶には、そこまでのオーラは醸し出せない。
「何をお探しですか」
 店員がにこやかに声をかけてきた。
「プレゼントなんですが」
「どのようなお色がお好みでしょう?」
 そんな誘導に乗るように、静耶は彼女に似合いそうな色をいくらか挙げる。
 答えながらも、静耶は壁際に吊るされたドレスや、マネキンのコーディネートに視線をめぐらせていた。
「どのような雰囲気の方で?」
「綺麗な人なんですけど……どんなものが喜んでもらえるんでしょう」
 考え込みながら、静耶の視線は一着の上品なスーツに留まっていた。
「こちらのお品物がお好みですか?」
「ええ……」
 静耶の視線に気づいて、店員も売り込みにかかってきた。セールストークに、静耶はぼんやりと答える。
「上品な方なんですね」
 それはすらりとしたシルエットで、凛としたデザインだった。静かで深い色合い。それでいて女性らしい可愛らしさや甘さもある……
 それはさぞかし似合うだろう、と、静耶は頭の中にそのスーツに身を包んだ人の姿を思い浮かべた。
「ええ、とても。母に似合いそうだ……」
「まあ! お母様へのプレゼントだったんですね」
 にこやかな悪気のない店員の声に、ハッと静耶は正気に返った。ここへは何をしに来たのかを思い出して。
 そうだ。母へのプレゼントを買いにきたのではない。
「あ……っ、いえ!」
 否定するも、時すでに遅し。
「ホワイトディのお返しに、お母様にという方はけっこういらっしゃいますよ」
 咄嗟の否定は、照れているのだと店員は思い込んだようだった。
「あ、いや、その」
「親孝行でらっしゃいますね」
 そして、その誤解は見事解けぬままに……
 店を出たとき、静耶は彼女に渡すのではないスーツの箱を持っていた。
 それが一軒目の出来事だった。


 静耶が彼女のためのドレスを買えたのは、四軒目の店でのことだった。
 そこまでの三軒でも、必ず買い物はしていたが。
「まあ、静耶さん、今年はどうなさったの? どれも素敵ですけれど」
 母にさえも三着という多すぎるプレゼントを訝しがられて、静耶は心に決めた。
 来年は……いや、クリスマスには、せめて彼女へのプレゼントから先に買えるようになろう、と。
 志が低いと笑われようとも。千里の道も一歩からだ。
 ……しかし千里の道を一歩ずつ進んでいたら、「母上よりも君を愛す」などと言える日はいつになることやら。
 そういう問題が認識される日さえも、さてまだまだの静耶であるようだった。

                                 終


[ライターより]
 またの発注ありがとうございました。
 それなりにほのぼのを目指したら、いささかコメディに寄り気味に。でも、多少なりともお気に召していただければ幸いです〜。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
黒金かるかん クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年03月10日

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