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『それは甘美なナイトメア 』
海原・みなも1252)&海原・みその(1388)



   私の中で蠢くモノ。

   もぞもぞ、もごもご、もぐもぐ。


   ああ、”私”が変わってゆく。









            ◇◆◇










 海原みなもは、ゆっくりとベッドの中で寝息を立てていた。
過ぎ去った今日の日を思い、やがて来る明日を想い、眠りに落ちていた。
それは何とも彼女らしい、穏やかな平穏に満ちた眠りだった。
決して何者にも犯されることのない、そんな安らかな眠りであった筈。
 海原みなもは、夢を見ていた。
夢というものは、己の意識がまだ強く残っているからこそ、見るものだといわれている。
だから、もし彼女がこのとき、深く深く深遠の淵にまで、彼女自身を落としていたのならば、
きっと気付くことなく全てが終わっていたのだろう。
 だが、みなもは夢を見ていた。
そして、夢を見ている自分を自覚していた。それはとても、はっきりと。
だがこれが夢であるという自覚はなかった。
明晰夢と呼ばれるそれはとても特異なことで、
彼女にとって幸か不幸か、彼女はそれが夢であると自覚することはできなかった。
ただ、不思議。変な気分。
ただ、それだけ。
だがそれを訝しく思う心はみなもの何処にもなく、だからこそみなもは夢の中にいた。

 そのみなもの夢は、本来ながら安らかな眠りと同様に、穏やかな夢であった筈。
みなもの無垢な寝顔が、苦痛に歪められることなど、あってはならない筈だった。
だがみなもの夢は、ある一線を越えて変貌した。

 夢の中のみなも、自分が夢の中にいると知らないみなもは、
どこからか黒い霧のようなものが、自分に纏わりついているのを知った。
それはいつやって来たのか、何処からやって来たのか、果ては自分が今何処にいるのか。
そんなことを思考の片隅に置く間もなく、霧はみなもの細い身体を覆い始めた。

 ・・・助けて。

 みなもは囁くように呟くが、一体それは誰に対してのものだったのか。
本能的に危険を察知し、みなもは足掻いた。
だが意思があるようには思えない霧は、みなもの囁きを無視し、彼女の全身を覆いつくした。
みなもは、まるで陸に揚げられた魚が、必死に空気を追い求めているときのように、耐え切れず口を開いた。
呼吸ができていないわけでもなく、そもそも今のみなもに呼吸が必要だったのかどうかも怪しいが、
みなもは本能的欲求に従って口を開いてしまった。
新鮮な空気を追い求めるが如く。
 霧はその一瞬の間に、するりとみなもの中に入った。
みなもは慌てて口を閉じようとするが、
屈強な男の手でこじ開けられているかのように、顔の筋肉が硬直していた。
その間にも、するすると霧はみなもの中に入ってゆく。

 ・・・あ・・・あっ・・・!

 みなもはそこで初めて、恐怖を感じた。
それは果てしない異物感。己の中で蠢く何かの存在を、みなもははっきりと悟った。
・・・このままではいけない。
そう思ったときには既に遅く。
霧はみなもの中に入り、水を得た魚のように嬉々として活動を始めた。
勿論、みなもの意思とは真逆に。

 やめ・・・!いやっ・・・。

 みなもは、自分の中で蠢くそれを止めるかのように、自分の腕で胸を掻き抱いた。
何処とも知れぬ空間の中で、自分の殻に篭るように丸まる彼女。
だが霧は、みなものそんな儚い抵抗すらも許しはしなかった。
 みなもの中で、霧は姿を変えてゆく。
みなもの心は、霧が姿を変えるたびにバラバラになり、
また繋ぎ合わされ、綻びが解けるようにまた散らばった。
それを繰り返されるたび、みなもがみなもで在り続けるための心は、深遠の淵へと堕ちてゆく。
堕とされ、引きずり戻され、また堕ちてゆく。
綻びが縫い合わされるとその隙間に霧が入り込んでいることに、
みなもはとうとう気がつかなかった。
ただ、幼子が自分の身体を必死で守るように、縮こまり、すすり泣くように足掻いた。

 や・・・ねえ・・・もう、やだっ・・・!

 それは刺すように、磨り潰されるように、叩き壊されるように痛く響き。
だが信じられないことに、潰されるたびにみなもの心は歓喜に震えた。
まるで刺激を愉しむかのように。
 同時に襲ってくる、激痛と快楽。
それはみなもの心を、酷く壊した。
壊された心が肉体をも壊すのに、さして時間はかからなかった。

 みなもの肉体は変わってゆく。
その精神と同様に、黒く、醜く、白かったキャンバスが塗り潰されるが如く。
黒く塗りたくられたキャンバスには、それだけでは飽き足らず、更に強く深く黒が飛び散る。
キャンバスは、やがてくしゃくしゃになって破られてしまうだろう。
そうなれば最早カンバスではない。ただの、塵。

 海原みなもも、同様に。









            ◇◆◇










 そして時間は暫く遡る。

海原みなもを愛する者の一人、海原みそのは愉しそうに微笑んでいた。
彼女の笑みの意味を理解できるものはそうそうおらず、
その理由は、みそのがみそのであるからとしか言いようがない。
みそのは、そんな少女だった。
 みそのの手には、黒い塊が在った。
それはみそのにとっては、まだ有害たり得ることもできない、か弱いものだった。
だがみそのは、この黒の一番良い使い道を知っていた。
それは勿論、この少女にとっては、のことなのだが。

 みそのが両の掌をさぁっと翻すと、黒は掻き消えるように消えた。
両の眼を閉じているみそのには、それが何処へ辿り着いたのか、
見えるはずもないものが見えていた。
勿論、それを飛ばしたのもみそのの意思であるから、行く先はとうに知っているのだが。
(・・・夢魔の元。まだ意思も実体もない下等なものだけれど)
 黒い塊、将来悪夢を生成する夢魔と成り得るものの原型を飛ばした先に、
己の意識をも飛ばしながらみそのは心の中で呟いた。
(わたくしを愉しませるぐらいのことは出来るでしょう)

 そして、時は繋がる。





 




 みなもは、夢魔へと変貌していく己を見ていた。
それはまるで、自分の意識がどこか遠くにあり、
斜め45度付近から自分自身を見下ろしているような感覚だった。
自分であって自分でないような。
見下ろされているみなもは、苦痛と快楽に溺れていたが、
見下ろしているみなもは、それが己には届かないことを知っていた。
だから、ただ眺めていた。
快楽に喘ぎ、苦痛に足掻く自分自身を。
 そんなみなもを見下ろしているのは、もう一人。
みそのは自らが送り込んだ夢魔が、思う通りにみなもの姿を変えているのを、
愉しそうに微笑みながら眺めていた。
それは彼女にとってはとても嬉しく、みなもに入り込んだ夢魔同様、歓喜に震えた。
 ずっとこのまま眺めていたい。
愛する者が醜く変貌していく様を。
みそのはそんな、願望に近い望みを持ちながら、うっとりと恍惚するように浸っていた。
・・・助けるべきか、否か。
とうにその答えは出ているのだけれど、みその中で相反する気持ちがぶつかり合う。
しかし、そんな相反する気持ちは、結局のところは同じ点に行き着くのだということは、
みその自身すでに判っていることなので。
(・・・名残惜しい気持ちで一杯ですが)
 みそのは渋々といった風に、みなもの”中”から離れた。

 それは折りしも、夢魔へと変貌したみなもが、
見下ろしている自分―・・・現実の自分へと手を伸ばしかけた時だった。









            ◇◆◇








「え、あ・・・お姉様?」
「お早う、みなも。随分と早起きね?」
 みなもが目を開けると、姉のみそのが自分を見下ろしていた。
その眼は穏やかな微笑の形に歪められ、慈愛を込めて自分を見つめていたが、
みなもは何処となく察していた。
・・・この姉がこんな風に笑っているときは、
自分にとって良からぬことを思っているときなのだから。
だがそれは、あくまでみなもにとって、であって
みその自身に悪気や敵意があるわけではないことは、
みなもは知っているからこそ、何も言えないのだけれど。
「あら、汗びっしょりね。何か厭な夢でも見たの?」
 くす、と微笑んでみそのが首を傾げた。
みなもはむっくりと起き上がり、自分の額を押さえた。
そして胸元に手をあて、着ているパジャマがほんのり濡れているのを知る。
・・・冬だというのに、この寝汗は異常だ。
「・・・あ・・・そう、あたし、なんか変な・・・」
 夢を。
そう言いかけて、みなもはふらりと体を揺らす。
寝起きはぼんやりとするものだが、何時にも増して意識がはっきりしない。
きっとみそのの言うとおり、厭な夢を見たのだ。
みなもはそう自分に言い聞かせた。
みなもの脳裏から、夢魔とそれに変貌した自分のことはすっかり抜け落ちていたのだが、
それは思い出さないように、自然と努めていた。
これも彼女なりの、本能的危機回避と言えるのだろう。
「そうなの。まだ時間はあるのだし、もう暫く眠っていたら?」
 みそのの声にみなもは窓のほうを見た。
カーテンが掛かっているのではっきりとは伺えないが、まだ陽の光はない。
ということは、まだ夜明けですらないのだろう。
「う・・・でも、何となく寝る気がしないの」
 みなもは呻くようにそういった。
彼女自身、なぜそう思ったのかは判らない。
だがこれも、きっと本能的危機回避。


 そんな青ざめているみなもを、みそのは愉しげに眺めていた。
また面白いものを見ることが出来たと、心の中で呟きながら。










        End.


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東京怪談
2005年03月07日

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