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『四角い薬はきっと飲み難い 』
宇奈月・慎一郎2322

 風が心地良い。慎一郎は顎を上げ、額に掛かる前髪を緩やかに吹く風に任せた。ほつれ毛を指先で整える仕種などはたおやかでどこか艶めき、慎一郎が女なら、クラリと色香に騙さ…もとい、虜になる男が後を絶たなかっただろう。だが、いかんせん、慎一郎は男だ。残念ながら、周囲には慎一郎ただひとりだったので、そんな彼の仕種を見て眩暈を覚えてくれる女性はいなかった。
 ―――尤も、女性は根本的に現実的なので、見た目だけで恋に落ちたり虜になったりする事はかなり稀かもしれないが。
 先程も記述したように、この道を歩いているのは慎一郎だけだ。周辺は閑静な住宅街であるし、元々人通りが多い場所ではない。その上、現在時刻は正午になるおよそ一時間前、一日の中で一番静かな時間帯でもある。そんな、平日の昼間に、何故に成人男性が住宅街なんぞをのんびり歩いているかと言うと…慎一郎が定職を持っていなかったと言う理由もさる事ながら、彼が歩いてきた道の向こうに、彼の行きつけの店があるからである。

 「…今日も良く出汁が効いていましたね……」
 青い空を見上げながら一人呟く慎一郎。彼の行きつけの店とは、大人の雰囲気漂う隠れ家的なバー等ではなく、ただのおでん屋であった。
 「あの店のおでん出汁…鰹節がメインだと言う事は分かりますが、それ以外にも何か深い味わいがありますね…昆布のような海藻臭さはないところを鑑みると、同じ魚類で、アゴの出汁…或いは、鯖の…いやいや、焼き鮎、若しくは岩魚と言う可能性も捨て難く…」
 さっきから飽きもせず、ぶつぶつと、先程食べたおでんの出汁に付いて考察し続けている。決して、あの店の出汁の秘密を解き明かし、自ら調理して心行くまで食そうなどと考えている訳ではない。勿論、どこかのライバル店から、情報を盗んでこいと命を受けた訳でもない。そんな苦労をせずとも、慎一郎には腐る程の財産があるから、どんな高級店でたらふく食っても困る事はなかったし、同様に、そんなベタな仕事をこなさずとも金に困る事もないからだ。では、どうして。
 いつもなら、おでんをおなか一杯食べた時点で、慎一郎の欲望は満たされていた。満足度がMAXになる筈だったのだ。だが、今日に限っては何故か満足度メーターはMAXに振り切らなかったのだ。【概ね満足】と【最高潮に満足】の、丁度真ん中ぐらいの中途半歩な位置で、メーターはふらふらとしていた。平たく言えば、満腹にはならなかったのだ。だから、つい無意識のうちに、おでんの事を考え込んでしまっていたと言う訳だ。
 「あの大根、中まで出汁が滲みていましたが、それでも芯の方に少し筋が残っていましたね…恐らく、市場で大量入荷した大根でしょうね。やはり、大根は……っとと」
 とと、と慎一郎は踏鞴を踏んで立ち止まる。もう少しで、時代掛かった門柱に、額を思い切りぶつける所であった。慎一郎の目の前にそびえ立つのは、古いが格式高そうな大きな洋館であった。そこは、慎一郎の自宅であった。


 「ただいま帰りました〜」
 重厚な扉を開けて洋館の中に入る。そう声を掛けてもおかえりなさいと答えるものはいない。ただ、慎一郎の足元を、一陣の風が吹き抜けただけだ。
 「……どうやら、窓を閉め忘れて出掛けてしまったみたいですね」
 溜息交じりにそう呟くと、慎一郎は風の吹いた向きを捜して歩き出す。広い洋館の中で、ひとつの部屋を探し出すのは、なかなか困難な作業に……なる筈だった。だが、意外なまでに、その部屋はすぐに判明する。そこは食堂であった。どうやら、開けたままの窓を捜してはいたが、空腹が彼を食堂に誘導し、偶然にもそこがビンゴだった、と言うだけの話らしい。取り敢えずは窓を締め、もう一度溜息を零して慎一郎は振り向く。ふと彼の視界に、皿に乗った『何か』が入った。
 「……これ、は…?」
 それは、白い小皿に乗ってテーブルの上で鎮座ましましていた。一見すると、黒いかまぼこ。或いは黒いカラスミ、もしかしたら黒いチーズ、百歩譲って黒い石鹸。果たしてその実体は。それは、一切れの羊羹であった。
 何故、こんなところに羊羹が?
 洋館だから、おやつは羊羹。ではなく。
 この家には慎一郎ただ一人しか住んでいない。お手伝いさんなども雇っていないので、彼以外の人物がこの邸内に足を踏み入れる事はまず無い。いつぞや、ブロードバンドの回線を引く為に業者が立ち入ったが、この食堂には入っていない筈だ。故に、この羊羹は誰かが用意したものではない。
 では、慎一郎自身が用意したものと結論付けるのが当たり前であるが、当の本人にはその記憶はさっぱりない。大体、羊羹なるものを食した記憶など、遥か昔の話である。つまりは、慎一郎にとっては、それほど好物な訳ではないのだ。
 …が、今の慎一郎はいつもの彼とは違う。何が違うのかと言えば。

 慎一郎は、まだ物足りないのだ。

 物足りない→目の前には羊羹→この家には自分しかいない→この羊羹を食べるのも自分しかいない

 そんな図式が慎一郎の脳裏で形成されたかどうかは定かでは無いが、ともかく、慎一郎は皿の上の羊羹を無造作に摘まみ上げると、そのまま口の中へと運んだ。

ぱくん。もぐもぐ。


……そして悲劇は、一時間後にやってくるのであった。


 「………ぅ、う……ううぅぅうぅ………」
 自室の書籍机に突っ伏している為、黒髪がざんばら状態になって机の天板上に散らばっていた。そのうえ、地を這うような呻き声だ。これではすっかり、最近流行のホラー映画のノリだが、本人にとっては冗談ではない。
 「…やはり……賞味期限を確かめてから食べるべき…でしたね……」
 と反省してみるものの、切り身だった羊羹に、賞味期限が記されている筈もなく。
 洋館だから羊羹、のノリは、そのまま古い洋館だから羊羹も古い、だったようだ。突如襲われた腹痛に、読み掛けの本もほったらかしてこうして呻いている慎一郎なのだが、やはり人間と言う生き物は危険が迫れば本能が働くらしく。よろよろと椅子から立ち上がった慎一郎は、そのまま何の根拠もなく、床から天井まで届く、巨大な本棚の一つへと近付いていった。右から三番目の、上から七段め。その段の、左から十三冊目の本。それを抜き取ると、なんとその本は真ん中が空洞になっているでは無いか。そして、その空洞には、半透明の蝋紙に包まれた黒い丸薬。そう、見た目はまさに、日局クレオソートを主成分とした、有名な某下痢止め薬そのものだったのだ。
 勿論、慎一郎は躊躇いもせずにその丸薬を飲み込む。よっぽど切羽詰まっていたのか、水も飲まずにそのままで飲み下した。
 と、その次の瞬間。慎一郎の視界がぐにゃりと歪んだ。
 「……え、え……!?………」
 視線を忙しなく彷徨わせているうちに、慎一郎の精神だけが過去へと飛んだ。

 そこから、慎一郎の精神は目粉しいまでの旅を経験する事になる。歪み、捻じれ、表と裏が引っ繰り返って反り返り、元の位置がどれだったかも最早分からなくなっていた。部屋の角を埋めないと、と漠然と思いながらも、伸ばした手の先に届いたものは何か犬の尻尾のようなものだった。耳の奥から低い唸り声が聞こえ、慌ててその手を離すと、再び慎一郎の身体は光速を超えて飛び立っていった。
 過去へ、と先述したが、本当のところは過去なのか未来なのか分からない。と言うか、この世なのかあの世なのか、或いは別の世界なのか単なる裏側なのかも分からない。ただ、慎一郎は飛び続け、記憶から溢れ出さん程の大量の情報を垣間見ていた。あらゆる時代、あらゆる分野の、科学、文学、心理学、経済学、政治学等々、これら全てを己のものに出来たとすれば、その者は確実に神になれるだろう。それは見る向きを返れば『理』と呼ばれるものであり、また違う向きから見れば、それは『道(タオ)』と呼ばれるべきものであった…。

 「…………。あれ?」
 ふと慎一郎が我に返ると、そこは親から譲り受けた財産である洋館の一室、自分の部屋であった。床の上にへたり込んではいるが、腹痛も綺麗さっぱりどこかに行っていたし、それ以外の身体の不調も変化も認められない。ただ、片手に一冊の本を掴んでいる事を除いては。
 「……これは、下痢止めのお薬じゃなかったんですね」
 今更のように慎一郎は、その小瓶を日に透かして見る。瓶には何か中国語で書かれたラベルが貼ってあるが、掠れて消え掛けていて良く見えない。
 「…まぁ、何事も無かった訳ですし。構いません」
 溜め息混じりに微笑んで、慎一郎は小瓶を元の場所に戻す。その本を、同じように同じ場所に戻し、指先でゆっくりと奥まで押し込んで、背表紙だけが見えている状態にした。
 慎一郎が飲んだのは『遼丹』と呼ばれる中国産の所謂幻覚剤だ。老子はこれを服用して道(タオ)を幻視したと言われるが。

 では、慎一郎は何を見たのだろうか。

 今、片付けたばかりの本の背表紙を人差し指の先でなぞり、その掠れた金文字をじっと見詰める。ふ、と視線を逸らしてその本に背を向け、慎一郎は一歩を踏み出した。その内には、本人も気付かなかったが、何か新しいが古く、正しいが間違っているものが溢れ出そうとしていた。
 真理に押し出されるがままに、慎一郎は呟く。


 「やっぱり、おでんが一番美味しいですよね」


おわり。


☆ライターより

いつもいつもありがとうございます!へっぽこライターの碧川桜でございます。
 今回は、私的には多少いつもと違った感覚で文章を綴ってみましたが…如何だったでしょうか?PL様の世界観を壊す事なく、表現出来ていればいいなぁと願っております。
 ではでは、今回はこれにて…またお会い出来る事を心からお祈りしております。
 
PCシチュエーションノベル(シングル) -
碧川桜 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年03月04日

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