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『交換条件 』
マリオン・バーガンディ4164)&セレスティ・カーニンガム(1883)

 偶々、そのような機会が訪れたのだ。時折屋敷で見かけることのあった青年秘書と、そのような話を持つ機会が。この屋敷――巨大な書庫を持つこの場所が、最近頻繁に言われている大震災に見舞われたら、どうなってしまうのかと。あれだけの量の本が、全て本棚から零れ落ちてしまったら、整理にはどれほどの時間を要するのかと。
「でも、そもそも耐震構造になっているはずですからね。大丈夫なのですよ」
 思っていた以上に長くなってしまった秘書との廊下での立ち話に応じていたのは、マリオン・バーガンディ。この屋敷の主人が所有する美術品の管理を一手に引き受けている、どこか愛らしい印象の青年であった。
 そこはかとなく懐古趣味的な香りを身に纏った青年は、でも、と暫く考え込むと、
「でももし、そのようなことになってしまっては、大変ですよね」
 あの書庫の広さは、見てようやくそうと理解できるほどのものであった。至極最近の本から、普通であれば解読すらできないほど時代の遡ったものまでが、あの書庫には納められている。あの主人だからこそ、の本へのこだわりが、そこにはある。
 しかしもしその本が、全て、もう一度整理され直す必要があるとなった日には――、
 恐ろしいのです……。
 まあ、あの人辺りがすぐに元に戻してしまうのかも知れませんが、と、屋敷の庭師の存在を思い返していたマリオンへと、
「大丈夫ですよ、マリオン様」
 秘書は唐突に、思い返したようににっこりと微笑むと、
「本は、あの子に任せておけば大丈夫ですから」
「……あの子、ですか?」
「おや、マリオン様は、まだご存知でありませんでしたか」
 それではまるで私だけ知らないみたいで、なんだか少し仲間外れにされたような気分なのです……と、少々むくれ気味のマリオンに、秘書は相変わらず表情を崩さぬそのままで、
「実は暫く前からこのお屋敷には――」

「あったしはたしかにご本の精霊さんなの〜!! でもねっ、でもっ!!」
 廊下でマリオンと秘書とが立ち話をしていた、丁度その頃。
 屋敷の書斎では、お気に入りの大きなぬいぐるみを抱えた一人の少女が、主人の目の前であるというのにも関わらず、機嫌を斜めにしたままで騒ぎに騒いでいる真っ最中であった。
 ねー、
「あたしだって遊びたいのっ! ね、おじさんだってそーでしょ?」
 おじさん――少女の呼ぶその先からは、ゆっくりと本の捲られる音が届けられてくる。
 この屋敷の主人でもある、リンスター財閥の麗しき総帥、車椅子に腰掛けた青年――セレスティ・カーニンガム。
 元々それほど大きくはない窓の影となる場所にある机。うっすらとした陽の光が、ほのかに暖かいだけの薄暗い場所。しかし、手元にある明かりを点けようともせずに静かに本を手に取ったまま、じっとそちらに意識を向けているセレス。
 少女は、知っている。あまり見えていない瞳の代わりに、その研ぎ澄まされた感覚が全てを視ているのだと。本の内容に関してとてその例外ではないのだ。
「秘書さんは、遊んでくださらないのですか?」
 セレスは本に意識を集中させるその一方で、面倒くさがることも、追い払おうとすることもせずに、その元気な少女の話を聞いてもいた。
 時折、思い出したかのように返事を返すと、少女がまた、思う存分に自分の喋りたいことを口にする。
 ……あの駄目秘書なんてっ!
「あそーんでくれないもんっ。いじわるなんだもん。いそがしいいそがしいって、そればーっかりなんだもん」
 少女にとっての秘書とは、少女は決して口にはしないが、兄のような存在でもあった。
 セレスと同じほど、或いは、時によってはそれ以上に、少女にとっては一番自分に近しい存在。
 一方では、だからこそ、
「駄目秘書なんてきっらあああいっ!! だいっキライ!!」
 それだけあって、喧嘩も日常茶飯事のことであった。ただし、正確にいうならば、喧嘩、などではなく、少女が一方的に秘書に対して怒っているだけだということが、殆どであるわけなのだが。
「おや、また喧嘩をなさったのですか?」
「けーんかなんてしてないもんっ。ゼッコーキッタんだもおおん」
 ぷいっ、とそっぽを向いて、少女が口を尖らせる。
 ……おやおや、
 セレスは微苦笑を浮かべると、
「昨日も同じようなことを仰っていませんでしたか?」
 ぱらり、ともう一枚、質感のざらりとした頁を捲りあげる。
「そんなことなーいもん。きのーはちょっとあたしも言いすぎたから、ゆるしてあげただけっ!! ゼッコーはきってないもん」
 きょおはあたしだって、おこってるんだもん。
 おじさんにはあたしのキモチ、わかるっ? と、少女はちょこん、とセレスの方に向かって背伸びをする。
 そうして、ふと思い返したかのように、ぽつり、と口にした。
 そーいえば。
「おじさんは、おねーさんとケンカするの?」
 セレスにとっての、特別な女性。自分も大好きな彼女が初中後この屋敷に顔を出していることは、少女もよく知っている。
 でもね、
「だっておじさんとおねーさんって、ケンカしてるの、見たことない」
 珍しく声の音調を落として、唸り声を付け加える。
 むぎゅり、と小さな手でワンピースのスカートを握りしめながら、
「おじさんたちは、それだけオトナってこと?」
 それとも、
「あたしと駄目秘書のナカがわるいってこと?」
 大きな瞳で、セレスを見上げた。
 ――その、様子に。
 セレスは頁をもう一枚捲ると、そこで手を止め、前に流れてきていた銀髪をするりとかきあげる。
 車椅子ごと机から少女の方へと向き直ると、海色の瞳で、まっすぐに彼女を見据えた。
「キミは、あの秘書さんのことをどう思っていらっしゃ、」
「キライ」
 言いかけたところで口を挟まれても、しかし、口元に優しい微笑を宿したそのままで、
「けれどもし、仲直りしましょう? と誘われたら、どうしますか?」
「んー……、」
 セレスの言葉に、少女は暫し考え込んだその後で、
「遊びにつれてってくれたら、ゆるしてあげる」
「でも、遊びに連れて行ってほしいということは、キミがあの秘書さんのことを好きな証拠ではありませんか」
 セレスの忍び笑いが、空間の雰囲気をより穏やかなものにする。
 セレスはついに、読んでいた本へしおりを挟み、それを丁寧に閉ざすと、
「一緒にいてほしいから、怒っていらっしゃるのでしょう?」
 少女の言い分は、秘書が持っている仕事に対して、ヤキモチを妬いているといっているようなもの。
 だが、セレスにとっても、そのような日が無いわけではないのだ、少女には秘書という特別な存在があるように、自分には彼女という特別な存在があるのだから。例えば、会いたい時に限って、どちらかの都合がつかない。抱きしめたい時に限って、彼女は自分の傍にいない――。
 時に、もどかしく思うこともある。何が自分達二人の間に横たわっているのかと考えて、どうしようもない気持ちに襲われることが、無いわけではない。
 ……ですから私だって、
「その気持ちが、わからないわけではありませんよ」
「ホントに?」
「お互い、ちょっと我侭なのかも知れませんね」
 少し、悪戯っぽく笑みを深める。
 少女の頭をそっと撫でながら、
「あのお方だって、私だけの方であるはずが、ありませんのに――」
 遠目の声音が、しん、と書斎に甘く響き渡った。
 少女がゆっくりと、瞬きをする。
 セレスは、少々困ったようにしている少女に、やおら話題転換です、と言わんばかりに一息を置いてから、
「でも今回は、どうして喧嘩なさったのですか?」
「あのね、遊びに行きたい、って言ったの。そしたらね、ダメーって言うんだよ!」
 途端、ようやく自分の目線まで降りて来て話を始めたセレスへと、少女は両手をぐーっと広げてむくれて見せる。
「どこに遊びに行きたいって言ったんですか?」
「んーっとねーえー、」
 しかし。
 どこだっけ……と少女が悩み始めた、その時であった。
 ――あれぇ、と。
 少女の頭の中に、違和感が走りぬけたのは。
 何かが、おかしい。
 まるで自分の領地を無断で踏み荒らされたような、そんな、気分。
 もしかして。
「おじさん、あたしちょぉっと行ってくる!」
「何か用事があったのですか?」
「ううん、チガウけど」
 軽い足取りで書斎の扉の方へと向かうと、一度だけ小首を傾げるセレスを振り返り、一言二言。
「あたし、ちょぉっと見てくるねっ。書庫! ナンカぜったい、おっかしいきがするの」


「マリオン様。この本はどちらにあったので――」
「わからなくなってしまったのです……」
「そうでしたか」
 少女がセレスと話をしていた、丁度その頃。
 例の書庫では、マリオンによって運ばれてきた――これも実に、秘書としては自分の目を疑ってしまったのだが、マリオン曰く、自宅の書斎と空間を繋いで運んできたのだという――沢山の本の山を目の前に、二人はいそいそと、片付けに勤しんでいる最中であった。
 彼曰く、丁度最近、セレスから大量の本を借りたまではよかったが、それがどこの屋敷や別荘や本棚に納められていたものなのかわからなくなり、途方に暮れていたところだったのだと言う。
『実は暫く前からこのお屋敷には、書物を管理する子がおりまして。本人は、本の精霊……だとか、申しておりますが』
 でも、そのような方がいらっしゃるのでしたら、安心なのです。
 秘書との話の果てに、どこにあったかわからない本も、ここに置いておいてしまえば良いのです、と、そう思い至ってここまで来ていたマリオンの指示を受けながら、
「あの、こちらは」
 秘書が懸命に、呆れそうになるのを抑えているのを知っているのかいないのか、
「あ、その本は向うにあったものなのです。多分右に曲がって三十五番目の本棚くらいから、同じようなジャンルが並んでいるので、わかると思うのです。そこから奥に進んで十七番目くらいの棚だったと思います」
「わかりました。それでは置いてきますね」
 律儀に一礼をすると、秘書は小走りで広い書庫の奥へと消えて行く。
 ――そうして。
 電気を点けているとは雖も、それでも薄暗い書庫の一角に、マリオンが一人でぽつり、と残される。
 ふと、マリオンの視線が、本の山へと吸い込まれるように引き込まれた。
 ……おや?
 誰か、いる?
 思った、その途端。
「ねーえー」
 反射的に振り返ったマリオンの耳に、まだ幼い、少女の間延びした声が聞えてきていた。
 厳かなこの場に不似合いな声音に、しかし、
「お嬢さんは、どこから入ってきたのですか?」
 マリオンが至極冷静に視線を落とすと、そこには確かに、ふんわりと床に向けて花開くワンピースを身に纏った、ぬいぐるみを片手にした少女の姿があった。
 少女は、ち、おどろかなかったか……と心の中でこっそりと悪態をつきつつも、
「あのねー、お屋敷にいるときは、ドアからはいんなさいーっておじさんが言うの。だれかがびーっくりしたら、こまるでしょーって」
 少女にとっては、元々実体などあって無いようなものであった。壁をすり抜けることくらいは、簡単なことでしかない。
 けど、と。
 少女はにんまりと満面の笑顔を浮かべると、
「ここはいーの。あったしのてりとりぃだから!」
「テリトリー、ですか」
 おや、――と、いうことは、
「もしかして、お嬢さんが、秘書さんの言っていた本の精霊さんなのですか?」
「そうでーす。あたしは本の精霊さんでしたー! せーかーい! さー、イッセンマンエンカクトクまであとナンモンだー?」
 まさか、
 こんなに小さな、お嬢さんだっただなんて。
 だが、その存在は随分昔からあるのだろうと、マリオンにとっては容易に想像のつくことであった。間違いなくあの秘書より、この少女の方がずっと年上に違いない。それも、一回りや二回りどころの話ではないほどに。
 まあでも、
 ……そのようなことは、ともあれ。
「それじゃあ、後はお願いいたしま――、」
 これは益々都合が良いですね、と。
 マリオンがそそくさとその場を立去ろうとした、その時であった。
「だまっててあげるから、遊びに、つれてって」
「……はい?」
「まずはおフランスがいい!」
「ふ、フランス……?」
「セカイでいっちばんたかーいハシが見たいのっ!!」
 二○○四年、一二月一四日完成。フランス南部ミヨーのタルン川峡谷にある、世界一高い道路橋。
 少女はテレビでその完成のニュースを聞いた時から、あの秘書にも、何度も何度も連れてけ連れてけと言い続けてきたのだ。
「ぜんちょーが二○六○メートルで、たかさが三四三メートル、道路のブブンも一番高いところで、二七○メートルだって!!」
 駄目秘書はつれってくれなさそーだし、いっそこのヒトにたのんじゃえ!
 好奇心をきらきらと輝かせながら、少女がマリオンの服をぎゅっと掴む。
「じゃないと、おじさんにチクるよ」
「ええっ?!」
 お、おじさんっ?
「セレスちゃんにチクってやるんだからっ」
「せ、セレスティ様に、ですかっ?」
「ほら、この子も言ってるよ!『ボクはおクチがカルいから、セレスティさまにナニをイっちゃうかワカんないなー』って!」
 ぬいぐるみをぴこぴこ動かしながら、訴える。
 と。
 丁度その時。
「マリオン様? 何を騒がしくしていらっしゃ――」
 手にしていた本の片付けを終え、本棚の影から顔を出した秘書が、そのままの姿で絶句する。
 ……何せその先には、先ほど自分が機嫌を損ねたばかりの、あの少女が立っていたのだから。
「あー!!」
 少女が、秘書を指差して大声をあげる。
 自分にとっては意地悪で、ちーっとも言うことを聞いてくれない仕事バカな秘書の登場に、少女は小さな頬を、ぷぅ、と膨らませると、
「いいもんっ。猫被りに遊んでもらうから!!」
「「ね、猫被りぃっ?!」」
「おフランスに行くの! 約束したもんっ」
「ちょっと貴女! マリオン様に向かって何ということを……!」
「まだ約束したわけでは……それに、一体どうして、私が猫被りなのですか……?」
「いーの! たまにはいーでしょ、ねー!」
 たまにはヨーロッパに、ついでにドイツとかにもいって、オサトガエリする!
 言葉の後半は、強気に飲み込んで、
「こそこそこーんなトコロにおかれたらタイヘンなのはあたしなんだからっ! かたづけてあげるから、ごほーびー! ちょうだいっ!」
 ひょいっ、と山の上にあった一冊の本を取り上げると、
「えいっ」
 不思議な威圧感を受けて黙り込んでいる二人の前で、その本を虚空に向かって勢いよく投げ飛ばした。
 ……って、
「ちょおおおっとおおお!!」
 何をやっているんですかあああっ!!
 あまりにも自然に行われた行動に、秘書も一瞬状況を理解することができなかった。
 もつれる足を誤魔化して、どうにか少女の元まで駆け寄ると、
「なあああにいいいをおおお!」
「ナニって、おかたづけ」
「おおおかたあああ」
「秘書さん、大丈夫ですか?」
「だ……」
 いじょうぶなわけ、ないじゃないですか――。
 均衡を崩し、後ろに向かって倒れこんできた秘書の背を、マリオンが慌てて支えようと、反射的に手を伸ばす。
 が、
「……相当ショックだったようですね」
 私じゃあ支えられませんね、と、次の瞬間引っ込めた手を後ろに組み、床へと倒れこんだ秘書を見つめて苦笑する。
「おかたづけだっていってんのにー。あたしのことしんじてくれないのー!!」
 少女によって本が投げ飛ばされ、それが弧を描いて重力に引き付けられようとするその瞬間、どこへともなく消えていっていたことに、秘書はどうやら気がついていなかったらしい。
 少女は、今度は二冊一纏に本を取り上げると、力を込めてそれを投げ飛ばす。
 ――ふわり、と虚空に本が溶け込み、やはり、本の床に落ちる音は、聞こえてこなかった。
 本に空間を渡らせ、収まるべき本棚へと帰ってもらう。
 それが、この少女の――本の精霊の、書庫管理の仕事の一つであった。
「でねー、ホンダイだけど、コンカイはゆるしてあげる。猫被りのコト」
 コンカイだけね。
 ただし、と。
 少女はまた本をどこへともなく投げ飛ばし、それからくるり、と振り返ると、
「かわりにおフランス、つれてって」
 にこぉ、っと、小悪魔のように満面の笑みを浮かべる。
「ね、そーしてくれたら、駄目秘書のこともゆるしてあげるからっ! ゼッコーきらないでおいてあげる! ね?」
「ええと、一体何の話なのですか……?」
「だぁかぁらあつれてって! ね、おフランスに遊びにいこー! ついでにあいすたべよ、どらいぶしよ!」
「……ドライブ?」
 ふとマリオンの、言葉が止る。
 フランス? 世界一高い道路橋?――ドライブ? そう、ドライブ、ですか?
 何と、いうこと。
 何で私は、今までこんな単純なことに気づかなかったのでしょう……!
「ねー猫被りー、きいてるの?」
「聞いていますとも。フランスにドライブに行くという話でしたよね」
 マリオンは唐突に腰を折り、きゅっと少女の両手を握り締めると、
「行きましょう、是非」
「やったあ! じゃああたし、駄目秘書のコトもゆるすし、こんかいの猫被りのあくぎょーもダマっておいてあげる! そのかわりドイツにもいってイタリアにもいって、ろぉまのきゅーじつもマンキツしよ!」
 ドライブ――。
 最近ではマリオンには、なぜか主人から自分専属の運転手がつけられてしまい、一人で車に乗らせてもらえない日々が続いていた。
「では、その橋を目指して、ヨーロッパ中をドライブというのも良いと思うのです」
 大好きな、ドライブ。
 やっぱりドライブは、自分で運転してこそのものだと思うのです。
 マリオンは、気付いていない。自分の運転が、端から見ていればどれほど危険なものであるのか、ということに。
 ……スピード違反で、いつか捕まってしまうのではないかと、と。
 以前こっそりと、冗談交じりにセレスがそう心配していたことなど、当のマリオンは全く知らないのだ。
「いいねそれっ! あったしもさんせー! じゃあ猫被りさ、イマからイッショにゆーきゅーとりに行こ!」
「ご旅行に行かれるのは、別にかまいませんが……」
「そうだよね! ナンならおじさんもイッショにどお? きっと楽しいよ! ついでに駄目秘書も色好みもイッショに、ね?」
「それはそれで確かに面白そうではありますね」
「でしょ? だったらおじさ……、」
 ん? と。
 そこでふと、少女が動きを止める。
 ――あれあたし、
 いま、ダレと話してるんだっけ……?
 そうして、その瞬間初めて気がついた。
 マリオンが自分の方ではなく、もっと前を見つめて、驚いたように凍りついていることに。
 自分が話していたのが、
「あ、おじさん!」
「セレスティ様――、」
 先ほどまでは、ここにいなかったはずの人であったということに。
 振り返った少女の見つめるその先で、セレスはゆったりと車椅子のハンドリムを回しながら、二人――もとい、三人の方へと近づいてくる。
「いつの間にここにいらしたのですか……?」
 恐る恐る、無意識に先ほど持ち込んだ本の山を隠そうとその前に立ち直しながら、マリオンが主人に問いかける。
「先ほどから、おりましたよ。ただ、気付いていらっしゃらなかったようですから」
 随分とご旅行のお話で、盛り上がっていらっしゃったようですし。
 いつもの優しい笑顔のままで、セレスは穏やかに答えを返した。
「――マリオン」
「は、はいっ」
「隠さなくても、大丈夫ですよ」
「べ、別に隠してなど……」
 今にも笑い出しそうな声音で指摘され、慌ててマリオンが本の前から一歩退く。
 セレスは、お疲れさまです、と、少女と、そうしていまだに気を失ったままでいる秘書とにそっと労いの言葉をかけると、
「私もわかる範囲で、戻してはいたのですが。やはりマリオンだったのですね。微妙に本の並びが、変わっているなと思いまして」
「その……すみません」
「向学心があるのは、とても結構なことですよ」
 読まれてこその本ですから、と、静かに付け加える。
「ずっとしまわれっぱなしでいるよりも、必要とされる方に読んでもらった方が、本としても本望に違いありませんから」
 叱られなかったことにほっとしたのか、マリオンが密やかに胸を撫で下ろす。
「これからは、どこからお借りしたのか忘れないようにするのです……」
「ええ。読み終わったらなるべくすぐに返してくださると、マリオンも忘れずに済むと思いますよ?」
「そうですよね。そうすることにするのです」
「あ、それからもう一つ」
 セレスは、穏やかさを全く崩さぬそのままで、
「ご旅行に行かれるのでしたら、運転手を一人、手配致しましょう。――そうですね、そこの秘書さんは、どうですか?」
「「えっ」」
 全く同時に、マリオンと少女との、間の抜けた声音が響き渡った。
「どーしてっ、おじさんっ? それにこの駄目秘書だったら、遊んでなんてくれないよー?」
「どうしてですかっ! 私が運転すれば良いだけの話ではありませんか……!」
「秘書さんも、お仕事です、と言えばご旅行にもつきあってくださるでしょう。それから、マリオン。この子には是非、ヨーロッパの景色をゆっくりと楽しんでいただきたいので。――マリオンも、たまには良いでしょう? 長閑な一時も、それはそれで良いのではないかと」
 うっ、と同時に、二人が言葉を失ってしまう。
 セレスは、そんな二人ともの意図に気がつきながらも、慌てふためく二人の様子を、一人微笑まし気に感じていた。
 まあ、たまにはこのようなことも、良いではありませんか。
 どの道もうすぐ、春休みの季節がやって来る。自らに仕えてくれる者達には、セレスとしては、このような機会におもいきり羽根を伸ばしてきてほしいのだ。
「それに司書さんも、たまにはお里帰りなさりたいでしょうから、是非、ドイツにもよって、楽しんでいらしてくださいね」
「べっつにっ! あったしはほーむしっくなんかじゃないもーん!!」
「たまに見る故郷は良いものですよ。それに、隣に特別な人がいますと、それもまた格別なような気がしますしね」
「……おねーさんのこと、言ってるの?」
 セレスは、直接はそれについては語らずに、
「秘書さんにも是非、もう一度キミの故郷を見せてあげてください」
 よじよじと、膝の上に上ろうと背伸びする少女の手を取る。
 そうして、
「ねー、おじさんは、イッショに遊びにいかないの?」
 問いかけてくる少女へと、暫く考え込んでから、
「そうですね、私は――、」
 答えと共に、暖かな微笑を向けた。


Finis


27 febbraio 2005
Grazie per la vostra lettura !
Lina Umizuki
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
海月 里奈 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年02月28日

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