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『grazed heart 〜case of her〜 』
月見里・千里0165)&結城・二三矢(1247)


 ねぇ、あたしはいつまで待っていればいいの?

 いつまで、待っていてもいいの?

 ねぇ……


 もう何度目になるだろう。
 あの日から何度も何度も同じ問いかけをしている夢を見る。
 居なくなってしまった彼に。
 彼の記憶の中から消えてしまったあたしに。
 この夢を見た日はいつも、鏡を見ると涙の痕が頬に残っている。
 それを見たくなくて、あたしはいつもこの夢を見た日は起きてすぐに洗面所に直行して、鏡を見ないようにして顔を洗う。
 そうしてさっぱりした顔を見つめて、鏡の中の自分に向かって微笑んでみる。
 微笑み返してくる鏡の中の自分を見て、
「おはよう、千里」
と告げた。
 今日は日曜日。
 部屋に戻ってカレンダーを見ると今日の日付の所に、自分の字で『コンサート』と書き記してある。
「あ、これって今日だっけ」
 すっかり忘れていた予定を思い出してあたしは慌てて手帳のポケットを探った。
「あったあった。えっと、今日の午後からね」
 1ヵ月ほど前に友人から貰ったピアノのコンサートチケットの開演時間と会場を確認する。
 会場の場所を考えると昼ちょっと前に家を出て途中で軽く何か口にして行けば丁度というところだろう。
 お天気もいいし、洗濯くらいは済ましていく時間はあるな……と、あたしは外を見る。
 小鳥が何羽も羽ばたいていく空に向かってあたしは大きく背伸びをした。
 彼があたしを忘れてもこうやって毎日は過ぎていく。
 彼はそれまで通りに生活しているのだろうし、あたしもこうやっていつものように生活していかなくてはならなくて―――
 そうしている間にも、焦燥を感じている自分がいる。
 あたしはいつまでこのまま彼を待っていればいいのか、彼を待っていていいのか。
 彼を思い続けていることよりも、今はこのまま時間だけが流れていつの間にか彼に対する気持ちがだんだん少しずつ風化して、想い出に―――過去の物になってしまわないだろうかという不安が怖かった。
 ずっと一緒に居たら知るはずの無かった不安。
 でも知ってしまったからには知らん振りなど出来るはずもなくて……
 思考の渦に巻き込まれそうになる自分を振り切るようにあたしは大きく首を横に振った。


■■■■■


 バスと地下鉄を乗り継いでようやくその会場付近にたどり着いた時にはもう開演時間が迫っていた。
「思ったより時間かかっちゃったなぁ」
 会場に着いたらすぐにチケットを出せるようにとあたしは鞄の中を確認する。
「ん? あれ?」
 なかなか件のチケットが見付からなくてあたしは足を止めて本格的に鞄の中を漁りだした。鞄からいろんな物を出したり仕舞い直したりしてようやく鞄のそこに隠れていたチケットを発見する。
「あった、よかったー」
 そう言って胸を撫で下ろした瞬間だった、もともと風は強かったが突然背後から突風が吹いた。
「きゃっ」
 運悪く気を抜いた瞬間だったせいもあって、あたしの手からあっさりとチケットが風に奪われた。
「―――あ、やだ待って!」
 とっさにあたしは腕を伸ばしたがタッチの差でチケットは指先を掠めて飛んでいってしまった。
 ただでさえ開演の時間が迫っているというのにこんな所でチケットと追いかけっこしている暇はないのよ!―――と、駆け寄ったあたしだったが、チケットが舞い降りた先に見えた見知った後姿に身体を硬直させた。
 あたしのチケットと、そしてもう1枚重なったチケットを取り上げたその後姿は忘れるはずもない、彼―――結城二三矢(ゆうき・ふみや)その人のものだったからだ。

―――なんで?

 心臓の音が急に大きくなる。
 とくん……とくん……とくん……
 彼の動きがまるでスローモーションのようにあたしの目に映った。
 二三矢はあたしにそっとチケットを差し出す。
 何ヶ月ぶりかに見る二三矢の姿にあたしの身体はいつの間にかカタカタと小さく震え、チケットを受け取ろうとするのに腕が動かない。
「あの……これ」
 久しぶりに聞く彼の声。
 にわかに現実だとは信じがたかったが、間違いなく今あたしの目の前にいるのは二三矢なのだ。
 言い表しようのない感情が体中を駆け巡る。
 声を聞いた瞬間、一瞬ざっと引いた血の気がもどってきて体の中を駆け巡った熱が一気にあたしの瞼に集中してしまったらしい。
 ポロリと一滴、涙が頬を滑り落ちたと同時に、
「……ゃ」
と、震える唇が小さく彼の名前を口にしようとした。

―――ダメ!

 あたしのことを思い出していない二三矢にしてみれば、あたしは初めて会う人のはずで……そのあたしが二三矢の名前を知るはずなんてないのに。
 あたしはとっさに自分の口を掌で押さえて、空いている手でチケットを受け取るとお礼すら言わずに会場に駆け込んだ。
 席に座ってあたしはようやく口を塞いでいた手を恐る恐る離した。
「っく……」
 思わず洩れそうになる嗚咽を無理やり押し殺し俯いたままハンカチを取り出して目元を押さえた。


■■■■■


 その後は最悪だった。
 コンサートの演目はベートーベンのピアノソナタ『月光』と『情熱』だったが、演奏は全く耳に入ってこないし、ちゃんと前を見ているつもりなのに脳裏には先程見た二三矢の姿が何度も何度も繰り返し浮かぶ。
 あたしはずっと、不安だった。時間が自分の中の二三矢に対する記憶を少しずつ奪っていくのではないかと。
 でも、そんな不安を一蹴されたのだ。
 いくら気持ちが忘れてもあたしの目も耳も、五感の全てが二三矢のことを覚えている。
 盛大な拍手の音に、あたしはようやく我に返った。
 そして、すぐに席を立った。
 同じ会場内に二三矢がいる。

 帰ろう。
 早く。早く早く―――

 その気持ちに従ってあたしはホールに出た。
 だが、何故か足は鉛のように重く、地面は何故か水にぬれた泥のように不確かでなかなか前に進んでくれない。
 気持ちばかりが急いていたあたしの耳に、
「あのっ」
と再び懐かしい二三矢の声が届いた。
 振り向きたくなんてないのに、あたしの意思に逆らって身体はゆっくりと声の主を振り返る。
「あの、すみません。この後お暇ですか?」
 あたしは何度も何度もただ首を横に振った。
 声は出せなかった。

「ごめん、なさい―――」

 精一杯気持ちを抑えて、自分でも震えているとわかる声であたしはそれだけ言うと、再び二三矢の前から走って、逃げた。
 これ以上、二三矢の前には居られなかった。
 二三矢に変な印象を残したくなくて、その思いだけであたしは足を、身体を動かした。必死に。
 でも心は叫んでいる。

 二三矢。
 二三矢二三矢二三矢……二三矢!

 足が縺れてアスファルトの上に転倒した。
 見ると膝から脛にかけて5センチほどの擦り傷が出来ていた。
 ジクジクと痛むのは足だけではなかった。
 あたしの心についた擦過傷はさっき二三矢に会うまではようやくうっすらと膜が出来上がっていたはずなのに、あんな一瞬で、あんな一言で瘡蓋は一気に捲れたしまったようだ。


「痛い……いたい、よ……」


 その小さな呟きは風に乗ってすぐに、消えた。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
遠野藍子 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年02月28日

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