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『 雨の死者 』
マリィ・クライス2438)&藍原・和馬(1533)


 昼なお暗い春の或る日、午前11時。
 目覚まし時計よりも早く鳴ったのは、藍原和馬の携帯電話だ。目覚めた和馬は、しとしとという雨音を聞いた。
 ああ、雨だ、ああ、電話だ。
 和馬は半開きの目で、定位置にある携帯を手に取った。マリィ・クライス――彼の師、彼が居留守を使えない相手。その名前が、液晶画面にしっかり浮き出ている。和馬は電話に出るしかなかった。
「ぅあい、何すか」
『起きたかい? ちょっと出るよ』
「はあ……」
『5分待つからね』
「ああはい、5分……はい、余裕っす……」
 早々に電話を切って、和馬はベッドから抜け出した。カーテンを開けると、雨が見えた。
 マリィ・クライスは、あまり雨が好きではない。きっと機嫌はあまりよくない。今日は仕事を入れていない、のんびり過ごせる日だったということを、和馬は黙っておくことにした。

 たったの5分で、天候はさらに悪化していた。しとしとと風情ある雨として我慢できる程度だった降りだったが、和馬がアパートを出た頃には、どしゃ降りになっていた。マリィはその雨の中、黒いレースの装飾がほどこされた傘をさし、奇妙なほど大人しい面持ちで経っていた。しかも彼女は喪服姿であり、白い花束を持っていた。
 ああ、と和馬は嘆息する。彼女の気まぐれとわがままによる呼び出しではなかったのだ。彼は雨の中に飛び出し、マリィを愛車の助手席に導いた。
 マリィの口数は少なかった。彼女が行き先に挙げた墓地は、東京のはずれにある外国人墓地だ。和馬は、誰の墓なのか気になったが――訊かなかった。
 マリィは憂いを秘めた金眼で、濡れた窓の向こうを見つめている。
「いま何時」
「12時半すね」
「お昼にしようか」
 ようやく会話が交わされたが、内容はそんなところで、昼食というのもコンビニで買った弁当とパンと飲み物で済ませられた。それきりしばらくは会話もなく、車は先へと進んだ。

 雨は――想いを連れて流れていく。

 マリィは思い出す。雨とともに流れていってしまった時代を。
 思い出せるだけ、思い出していく。
 呪われた奔流の中、マリィにはいくつもの出会いがあった。出会いと同じくらいの数の別れがあって、彼女は、その『別れ』に慣れていっている自分と、出会いこそが悲劇なのだと考え始めている自分の存在に気がついた。
 ――いやだね……こんな日に、こんな雨が降るなんて。余計、気持ちが沈むよ。
 はっ、と彼女は短く溜息をついた。鼻でものを笑ったときのように。
 ルームミラーにうつる和馬の目が、ちら、とマリィに向けられた。問われる前に、マリィは問う。
「和馬、あんた、最近どうなの」
「はい? ……元気すよ。バカだから風邪も引かねエし」
「そうじゃないよ、バカ。あんた本当に、黒髪で翠の目の女にフラフラ寄ってくね」
 鏡の中の和馬が、目を見開いた。ハンドルがぶれ、車はぐらりと田舎道でよろめく。
「や、やめてくださいよ! 何すかいきなり!」
「あんた、わかりやすい男だねえ」
 ふっ、と彼女は今度こそ、確かに笑った。
「……でもあの人は、そうじゃなかった。……頭の回るやつで……ひとを煙に巻くのが得意だったよ。私があのひとの心を読めたのは……別れるときだけだったねえ――」
「……」
 ルームミラーの中の和馬が、前方に目を戻す。
「あいつのことは」
 彼は言った。
「俺も正直、どうしたらいいのか……。あいつの心が……読めなくて」
 今度は、彼が鼻で笑った。
「でもまあ、いいです。時間はたっぷりあるんだし」
「どうだろうね、それは」
 ぼんやりとしたマリィの否定までもが、雨音に流されていった。


 分厚い雲はなお幅を利かせ、辺りは、午後の昼下がりであるはずなのに、黄昏どきのような薄闇に包まれていた。雨の墓地には、マリィと和馬のほかに人影もない。和馬は、洒落たレースの黒傘を、マリィの代わりにさしていた。
 新しいのか古いのか、誰が眠っているのかさえ定かではない墓ばかりだった。マリィはその墓石の群れの中を迷わず歩き、ひとつの墓の前で立ち止まると、花束を捧げて手を合わせた。
「……」
「……」
 雨の音さえ忘れてしまいそうなほど、静かだ。
 ふつふつとした静寂の中の音に、自分の鼓動がある。和馬は、いまマリィが祈りを捧げている相手が誰なのか、見当もつかなかった。ふたりとも、見当もつかない数の人間に触れてきたのだから。
 ――でもなァ、ケモノで、カミサマの決めたことに背いてる、俺たちの祈りなんか……。
 和馬はその気持ちを押しとどめ、黙って、マリィの祈りを見守っていた。
 一度は落ち着きかけた雨足は、再び強くなってきている。雨音の中に雷鳴が混じり、薄闇の中、一瞬の光が空を走る光景が目立つようになってきた。
「師匠」
 腰を上げたマリィに、和馬は小さく声をかける。
「もう、いいんすか」
「ああ、もういい」
 墓地の終わりに停めた車は、随分と遠くにあるように見えた。強い雨はヴェールのように、寂しげな墓地の風景を覆い隠そうとしている。
 そこに、突然の稲妻と、耳をつんざく雷鳴が割りこんだ。あッ、と叫んで二人は一歩退く。稲妻は、ひとつの立派な墓と、それに寄り添う樹木に吸い寄せられていったのだ。衝撃があり、ふたりの獣性を、電撃が貫いた。
 ついで、異臭がふたりの嗅覚を刺激した。それはけして、稲妻が墓石や樹木を焼いたものではなく、雨がミミズをふやかした臭いでもなかった。
 人間の、死骸の臭いだった――

「――師匠ッ!」

 牙を剥いて叫んだ和馬が、マリィの背後にまわった。獣の叫び声と、血飛沫が上がった。マリィは何が起きたか悟る前に、和馬に押し倒されていた。
 ……いや、和馬がマリィを故意に押し倒すはずはない。
 和馬が突き飛ばされ、マリィはそれに巻き込まれたのだ。そして本来、突き飛ばされているのはマリィであるはずだった。マリィの代わりに血を流したのは、和馬だった。
「和馬!」
「くそ! 師匠――ここァ、一体何なんすか!」
 彼の背の傷は、人間ならば無視できないほど深いものだった。しかしそこは獣の血、すでにみちみちと音を立てて裂傷は塞がりはじめている。和馬も顔こそしかめていたが、問題にしているのは傷ではなく、この墓地だった。
「どうでもいいから、どきな!」
「うぐあハぁ!」
 まさに踏んだり蹴ったり、泣きっ面に鉢。背中を裂かれた和馬は、腹の下のマリィに蹴り飛ばされた。和馬の身体は、奇妙に捻じ曲がり、腐り果て、腐臭を放つものどもの前に転がった。
「うぅ、ひでェよ、師匠……いくらなんでも、ひでェよ!」
 和馬のせつない怒りは、それでも、マリィに向けられはしなかった。
 遠吠えとともに現れたのは、黒い獣人だ。振り向きざまに爪を振るった彼は、一度に数体の死者を引き裂いた。
 死者の群れは、それだけではいくらも減らなかった。
 映画のように、死者たちは自ら墓石を持ち上げ、土を掘り起こし、腐った身体を土の上に次々と引き上げていく。枯れ果てた喉からは何の声も漏れては来ない。雨音と、土が盛り上がる音、雷鳴が、彼らの声だった。
「あ、」
 死者の群れを前にしたマリィが、思わず息を呑む。
 動く屍の中に、真新しい白い花を肩につけたものがあった。ぐったりと項垂れた顔が、マリィに向けられることはなかった。
 それでも――彼女は――獣の怒りと、闘争心を束の間失った。
「師匠ッ!」
 黒い獣人が、そう叫んだようだ。獣の唸り声の中に、その呼びかけが混じっていたというべきか。マリィに手を伸ばす死者たちを蹴り飛ばし、殴り飛ばし、叩き潰して、和馬はマリィを抱え上げた。
 狼のものと化した舌で、彼は懸命にまくし立てた。
「数が多すぎます! ……手ェ出したくないやつも居るんでしょ?! そんなデカい墓場じゃねエから、結界張って清めちまいましょう!」
「――離しな、和馬! 自分で走れる!」
「どぁ、失礼しました!」
 和馬が手を離した途端、マリィは和馬以上の速さで走った。彼女は雨を跳ね飛ばし、雨音に奪われていく呪文を唱えながら、墓地の片隅に向かっていく。
「……ここァ一体、何なんだよ……! こいつら、怒ってやがるじゃねエか……!」
 もう一度、答えの得られない疑問を口にしてから、和馬はマリィとは反対の方向に走り出した。

  灰は灰に。
  塵は塵に。
  夢で織り成されし人間たちよ、
  夢の波間に還り、
  いま一度、眠る夢を正に見よ。

 稲妻が空へ還っていく。
 和馬とマリィは、それを見届けた。
 あとには、ひっくり返った墓石が転がる墓地が残されただけだった。和馬の傷も消えたいま、この場に生ける死者が溢れかえっていたことを示すものは何もない。
 ああ、いや、そこに、
 白い花が落ちている……。

「私は……そんなあんたを見るために……あんたを殺したんじゃあ、ない……」

 幸い、マリィ・クライスの言葉も、頬も、何もかも、雨が舐めつくしていった。
 はじめに手を合わせたのは、和馬だった。
 獣の祈りはほどほどにし――
 ふたりは、何も語らない帰路についた。和馬が知りたい答えは、マリィの胸のうちにあった。彼女は何も語らないつもりでいたが、少しだけ、結局、話してしまった。
「あいつはね、旦那にはならなかったけど、ただの友人じゃあなかったんだよ。私を煙に巻いて……がっかりさせて……驚かせて……しまいには、いなくなったんだ。私のことを……知りすぎてもいたよ。……呪われたものの祈りなんて、罰当たりだったかねぇ……やっぱり、さ……やっぱり……来なければよかったよ」
ただ、誰かに聞いてほしかったのだ。それから、マリィはひどく珍しいことに、自分を庇った和馬に礼を言い、蹴り飛ばしたことについて詫びを入れた。
 和馬は得意になるどころか、面食らってしまった。
「やめてくださいよ、師匠。師匠が俺にあやまるなんて……雨降るじゃないすか」
「もう降ってるだろ」
「あ」

 雨は結局、翌朝までやまなかった。




<了>
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2005年02月18日

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