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『天満月の夜 』
ラクス・コスミオン1963




 立春を過ぎ、街中はざわめいて陽光が春を始めた。
 けれど、風はまだ冷たく、人々はコートや外套の前をかきあわせる。しっかりと巻いたマフラーに鼻先を埋めて、せかせかと歩く。喫茶店の窓ガラスは温度差に淡く曇って、朽ちたような銀杏が殊更に冬を強調する。
 終りなど訪れない永遠のサイクルの中で、何が暖冬だと口の中で呟いた。






 不意に、目の前を結晶が通り過ぎた。
「やっぱり」
 降って来ました、と彼女は小さく頷く。
 このアスファルトとコンクリートに覆われた地表に、決して馴染むことのない穏やかな瞳は、母なるナイルをはめ込んだ鮮やかな緑。小麦色の頬は若干寒さに青ざめていたが、その唇は綻んでいる。鷲の翼を小さく畳んで、獅子の足で地面を踏みしめて空を仰いだ。
 厚く覆われた雲が、強い風に流されていくのが見える。その風が、彼女の艶やかな赤紫の長い髪をなびかせた。
 日本海側にすべからく大雪を降らせた寒波が、この東京まで覆っている。今日の天気予報では雨が予想されていたが、彼女―――ラクス・コスミオンの予想では日が暮れてから雪が振る、というもので。見事に当たった予想に満足げに微笑んだのだった。
 予報が外れても倒産しない気象庁のお陰で、人々は驚いたように空を見上げる。その中に、人ならざるものたちが身を潜ませる、あるいは混ぜ込んでいるこの街では、ラクスの異形すら大した事ではないかのように、受け入れられてしまった。あるいは、黙認されているのか。
 笑みをしまいこんで、ラクスは小さく溜息をついた。
 夜とは思えない明るさで街灯が輝き、ネオンが華々しく街を飾る。どこかのゲームセンターから途切れなく賑やかな音楽と人の賑わいが聞こえ、この街が眠る姿など予想すら出来ない。
 日々地球が熱くなる。それは、世界中の科学者が唱える所だ。地球温暖化や、エルニーニョ現象などは、ニュースや新聞などのメディアが豊富なこの国にいれば、一度は耳にした事のある言葉だろう。
 それは別に正体不明の病原菌の所為ではなく、二酸化炭素、亜硫酸ガス、窒素酸化物などの温室ガスと呼ばれるものの過剰な増加が原因だと、人間たちは知っている。
 中でも、とりわけ二酸化炭素の増加が問題視される昨今、この国の人々は、そんな事歯牙にもかけない様子だ。
 自分たちが暮らす地球という媒体が、やがて滅びるだろうと間違いなく断言されても、この街の人間はまるで焦った風もない。
 いまや日本は「先進国」という肩書きの為に、この二酸化炭素を減らすよう努力しているはずだが、この様子を見る限りその努力が実る日は遠いようだ。
 ラクスには不思議でならない。そんなに二酸化炭素を減らしたいなら、とりあえず夜間外出禁止にして、国中夜は電気を落とせばいい。それだけで、電気の消費量は半分以下に減るだろうから、発電所から発生する温室ガスも単純に考えて半分に減らせる。
 世界中がそうすれば、問題など起こりようもない。
 そこまで考えてから、ラクスは、一つ唸った。
 もっと手っ取り早く、電気を必要とする人間自体を減らせば良いのではないか、と。そうすれば二酸化炭素を吐く生物も減るし、需要が減れば畑を作るために熱帯雨林を切り倒す必要もなくなる。砂漠化も防げて、あらかた問題は解決する。
 更に、その処分対象を一定年齢以上にすれば、現在の福祉問題や、年金、保険の問題もすべからくなくなるはずだ。
「無理でしょうけど」
 人間には無理だ。そういいきって、やはり、彼女は小さく笑う。そんな事が出来るような生き物であれば、ラクスはこうして彼らの社会を見て回る必要などないのだから。
 そんな事が出来ないからこそ、時々、好きで堪らなくなるのだから。

「なによっ!!」

 彼女の穏やかな思考を切り伏せるようにして、鋭い声が響いた。
 街中を徘徊していた足を止めて、ラクスは視線を巡らせる。その間にも「ほっといてっ!!」「煩いわねっ!!」「馬鹿にしてっ!!」と、声は耐えない。お陰で、ラクスはあっさりとその声の所有者を発見できた。
 所々ペンキの剥げた薄緑色の歩道橋。『命より 大切ですか その電話』とドライバーたちに呼びかける言葉が張られており、その看板に足をかけた少女が、酷い薄着で声を荒げていた。周りには人垣が出来ており、濃紺の制服姿の男性の姿も見える。どうにも、手を焼いてるらしかった。
「皆してあたしを馬鹿にしてっ!! 解ってるんだからっ!!」
 どこをどうしてそんな結論が出るのか、ぼろぼろと涙を流し、歯の根も合わぬほどに震え上がりながらも少女は小さな体を夜風にさらし続ける。ラクスは興味を引かれて、野次馬に加わるべく歩道橋に足を向けた。
「死んでやるんだからっ!! もうイヤっ!! どうしてあたしばっかりこんな目に遭うのっ!?」
 世の不条理を呪うその声は、かな切りになってくる。長身を生かして人垣の上から少女を覗き込む、と、ぱっちり目が合った。
 少しだけ黙ってから、少女は徐にラクスを睨みつけてくる。
「何よっ!! 同情なんか要らないわよっ!! 死ぬんだからっ!!」
「待ちなさい! そう早まる事もないだろう。ゆっくり話をしてからでもいいんじゃないか?」
 壮年の、人のよさそうな警察官が、必死で少女を宥めにかかる。
「あんたなんかに、何が解るって言うのっ!!」
「解るわけないですよ」
 ラクスは、静かに口を開いた。低い声だったが、通りは良い。ざわめきを制して、少女の耳までその声は届いてしまう。不意に静まり返り、足元を行く車のエンジン音ばかりが耳についた。
「どうせそうよっ!! 誰も解ってなんかくれなんだからっ!! あたしがどれだけ不幸なのかっ!! 苦しんでるのかっ!! 誰も解らないくせにっ!! 偉そうなことばっかり言ってっ!!」
 涙が散って、少女が喚く。背に雪が舞う街中のネオンを背負って、それでもラクスは、その少女が美しいとは欠片も思わなかった。
「自分が世界中で一番不幸だと思っているような人間に、誰が同情などすると思いますか?」
 静かな声だが、その瞳から放たれる覇気は本物。
「地球上のどこかで、名前さえ付けられずに死んでいく乳児がいます。罪の意味すら解らないまま、飢えを満たす為に盗みをする子供がいます。誰かを守るために、闘わなければならない人がいます。その人たちより、どうして自分が不幸だなんて思えますか」
 見れば少女は肉付きよく、飢えたことなどなさそうだ。纏う服は薄着だが、どれも上質なもの。背中まで伸ばされた髪は茶色に脱色されており、艶やかだった。
「煩いわねっ!!」
 ラクスの言葉などまるで届かないかのような剣幕で、少女は叫ぶ。
「両親は互いに愛人を作って勝手に死んだわっ! 残された家は使用人が掠め取ったっ! 預けられた先の施設には遺産を奪われたっ! 婚約者は別の女と駆け落ちしてっ! 継ぐはずだった会社は信頼していた部下に乗っ取られたのよっ!! もう、何も信じないんだからっ!!」
 優しいはずの人々が牙をむく。それは、驚くほどありふれた風景。
「あたしは何も悪くないのにっ!! どうして、あたしばっかりっ!!」
 悲鳴のような慟哭。けれどその声に応えるのは、優しい同情の声ではない。
「死ぬと騒いだ次は、不幸自慢ですか。その性格相応の生き様ですね」
 冷たい、というよりも淡々と事実を確認するようなラクスの声に、少女が目をむき、辺りがささやきを交わす。壮年の警察官がラクスを困ったように見やった。それを黙殺して。
「いっそ本当に死んでみてはいかがです? それならば踏み切りをお勧めしますね。社会に迷惑がかけたいなら丁度良いでしょう」
 顔色を失った警察官に一礼して、ラクスは踵を返す。この場に留まっても、得られるものはなさそうだった。
「ま、待ちなさいっ!」
 命令に慣れた声で、少女はラクスを呼び止める。無視しても良かったが、興味本位で振り返ると、少女は涙を拭いもせずに彼女を睨みつけてきた。係わり合いにならないほうが得策、と判断した懸命な野次馬たちが、バラバラと散っていく。
 二人の間に、道が出来た。
 少女は看板から飛び降りて、ラクスの方へと向かってくる。その細い手を振り上げて平手が放たれた。あっけなくひょい、と彼女が避けると、少女は見苦しいまでに体制を崩してその場に膝を着く。
 薄着で、しかも叫び倒していれば、体力が根こそぎ奪われていても仕方ない。
「どうして避けるのよっ!!」
「何でも思い通りになるなんて、考えないほうがいいですね」
 少女は悔しそうに、地面を見据えながら首を振った。
「ないわよっ!!」
 高慢な、叫び。
「思い通りになったことなんて、ただの一度もないっ!!」
 項垂れて、立ち上がる気力ももう涌かないようだ。恨み辛みを叫ぶことで、何とか自分を鼓舞していたのだろう。その姿を見て、ラクスはようやく同情心が涌いた。
 畳んでいた翼で、その頭を小突く。
「そんな事、言うものではありません。本当に、何一つ思い通りになったことのない人に申し訳ないと、思うべきです」
「だって……」
 少女の甘えた声に、ラクスは殊更に冷たく言い募る。けれど、両の翼で少女の体をそっと夜風から守った。
「木の根を食べて生き延びた事がありますか? 目の前で愛した相手を殺された事がありますか? 無理矢理に知らない男に犯された事がありますか? 幸せになりたいと、願う事すらできない人たちが世界には溢れています。その人たちは、思い通りにならない事があまりにも当たり前すぎて、嘆く事すら忘れてしまっているのです。そうして嘆く事が出来るのは、まだ、幸せな証拠です」
「あたしは幸せなんかじゃないっ!!」
 言葉を拒否するように、少女は叫んだ。そうしている間に、ラクスは少女の因果の縁を探ってみる。本人が言うとおり、血の繋がるものも探すものも、いない。完全に社会的孤独状態にあった。
「幸せになろうと、努力した事がありますか?」
 ラクスは、それだけ問いかけた。少女は言葉に詰まる。
 それに、小さく笑いかけて。
 何が何でも自分が不幸だと言い続けるというなら。
 ラクスの笑みが、不穏なものになる。少女は、気づいただろうか。
 今までの幸せを、思い知らせてやる、と。
「死にたいというのなら、その命、ラクスにくださいませんか? 地面に叩きつけられるよりも有意義に、実験台にして差し上げます」
 雪が、一瞬だけやんで。
 刹那の時、空に光が差した。
 今日は目を覆いたくなるほどに青い光に満ちた、満月。







 驚くべき事に、少女はあっさりとラクスについてきた。本当に行き先がないらしい。確かに、こんな性格の厄介な少女を、わざわざ引き取りたいという奇特な人間はいないに違いない。
 ラクスはその思考をおくびにも出さず、幸いにも「実験台」云々が聞こえていなかった警察官に、この少女を一端引き取ることを説明し、半ば無理矢理納得させた。
 その様子を見ていた少女が、あっさりと引いた警察官を見て「何よ、やっぱりあたしのことなんてどうでも良いんじゃない」と呟いたのは、いっそさすがといえる。
 どうやったらここまで性格の悪い人間が育つのか。様々な家族を研究対象にどういった教育が、子供のすさんだ心を最大限にまで引き出すのかを、レポートにまとめてみたくなった。今は、そんな場合ではないが。
「少し歩きますよ」
 背に乗せて飛んでも良かったが、それほどに遠い距離でもない。
「えー? いやよ。あたし、疲れたもの。足もくたくた。どうして歩かなくちゃならないの?」
 とまで言われると、逆に歩かせなくなる今日のラクス。この少女には、殊更に冷たく当たってしまう。しかも悪い事に、それに罪悪感を感じない。
「大した距離でもありませんから」
「車は? あ、言っておくけど安い国産車はイヤ。暖かいものも飲みたいし。ねぇ、途中で行きつけの店に寄っていい? コートを買いたいわ。あの店の趣味は嫌いだけど、ないよりはましよね」
 口を開けば不満ばかり言う少女に、どこか感心しながら、ラクスは背を向ける。
「行きますよ」
 遠慮なしに歩を進めていると、少女がついてくる気配はない。
「ちょっと、どうして置いていくの? 車は?」
 それがさも当たり前のように、言っている。いっそ置いて行ってもいい、とラクスは振り返りもしない。曲がり角を曲がって、いよいよお別れですね、短いお付き合いでした、と彼女が思っていると、後ろから軽い足音が追いかけてきた。
「何よ? どうして置いていくの? あたし、歩けないって言ったじゃない」
 自分が言う事が正しいと、疑った事すらない口調。その頬を涙が伝った。口にはしないが、自分が一番不幸だ、とかみ締めているに違いない。
 ラクスの嘆息。
「走る元気はあるみたいですね」
 それならば、実験にも耐えられるだろうと彼女は楽観視する。ただの一度も人に礼を尽くした事もなさそうなこの高慢な少女。彼女がこの人生が嫌だというなら、別の人生を与えてやろう。
 それを、後悔しても知ったことではない。ラクスは実験台が欲しい。少女は別の人生が欲しい。完全な利害一致。それだけの関係。
 このやり取りを何度か繰り返して、ようやくラクスは家に着く。時間は深夜。日付けが変わったばかりだ。こんな時間に少女を連れ込むところは見られないほうがいい。
 少女に厳重に口止めし、足音を忍ばせて自室に入った頃には、ラクスの方が後悔を始めた。
 何せ、この少女口数が多い。何かあれば口を開き、それを反省もしない。よって注意すれば反発し、反発すれば声を荒げる。結局、無理矢理翼で口を塞いで、引きずるように自室に連れ込んだ。
 すぐさま防音の結界を巡らし、憤慨している少女を開放する。
「何するのよっ! 窒息するかと思ったじゃないっ!!」
「飛び降り自殺も窒息死も似たようなものです」
 キャンキャンと言い募る少女を軽くいなしながら、すぐさま実験の準備にかかる。幸い、つい最近実験に使った水槽がそのままになっているので、大した時間もかからなかった。
「最初に、静かにしてくださいといいました。それを無視するから仕方なくこの方法を取ったまでです」
「何? 私が悪いって言うの?」
 はっきりそう言っているが、通じないらしい。
「はい」
 頷いてやると、少女は眉尻を吊り上げた。
「大体ね、車を用意してって言ってるのに、歩かせた方が悪いんだからっ! こんな貧相な小屋の板張りなんて、気をつけたって軋むし、防音処理をしてない廊下が悪いんでしょっ!」
 応える気も失せて、ラクスは実験装置に向きなおる。
「服を脱いで水槽に入ってください」
「イヤ」
 少女は即答した。
「水死は死に方が汚いからイヤ」
「では、この話はなかった事にしましょう。出口は解っていらっしゃるでしょう?」
 視線だけでドアを示すと、少女はカチン、と来た様子で「何よ!?」とまた声を荒げる。
「貴方が来いって言うから来てやったのに、何よ? その言い方! 人にものを頼む態度じゃないわ! あたしが孤児だからって馬鹿にしてるのっ!?」
 少女の言い分には一理あるが、それは取り合わない事にして。
「あまり騒がないでください」
 それだけ言う。
 鼻を啜る音が聞こえる。また泣き出したようだ。
「やっぱり、あたしが一番不幸じゃない……」
 放り出そうか、と後ろを振り返ると、少女はスカートのホックに手をかけたところだった。薄手のカーディガンと丸首のシャツも脱ぐ。ラクスは視線を外して水槽のチェックをした。かけてあった梯子を恥ずかしげに上っていく少女を黙殺。
 怖々と足先をつけて、少女はその深さに息を呑んだようだった。
「大丈夫です。中で息は出来ますから」
 ラクスの言葉が届いたか届かなかったか、のタイミングで少女はバランスを崩して水槽の中に飛び込む形になった。慌てて水をかき、直ぐにただの水ではない事に気がつく。
 きょとん、と目をむいた少女に、ラクスは錬金術師としての冷たい視線を向けた。それは、ただの実験対象を見る、凍てついた瞳。実験に私情を介入させる事は何より愚かしい。正しいデータが取れないだけでなく、成否にもかかわってくるからだ。
 その目を見て、少女が動きを止める。
「死ぬより、辛い激痛を与える事になるかもしれません」
 淡々と、言い放った。
「今なら、引き返せます。今なら、幸せになる努力が出来ます」
 少女は首を振った。
 唇が『そんな事できっこない』と言葉を綴る。やってみた事もないだろうに、そういいきる高慢な少女。
 ならば、とラクスは覚悟を決めた。
 この手の人間は往々にして精神が脆弱に出来ている。もし拒否反応が出れば、そのまま”壊れ”かねない。けれどそれを後悔しない。
 ラクスは、そう決めて。
 瞳を、閉ざした。


 少女の体を作り変えるのは、ゴーレムだ。それも、『図書館』で倉庫整理兼メイドとしても使われる彼らは、私心がなく、他人に誠心誠意仕える性質である事が望ましい。
 ある意味この少女は最も遠い存在である。それを会えて選んだのは、ラクスの挑戦であり、この少女へのラクスなりの思いやりでもあった。
 誰かに跪かれる人間は、仕えてくれる相手を失った瞬間に存在意義を失う。けれど、他者に仕える事が出来る人間は、どこに行っても重宝されるものだ。それが、有能であればなおの事。
 この少女、口を開けば不満を言うが、その不満の種を見つけてくるところが頭の回転が速い証拠と言えなくもない。他人に跪き誠心誠意仕える事が出来るようになれば、少女の人生はもっと広がるはずだ。そして、視野も広がるに違いない。
 そうなれば、自分が世界で一番不幸ではないと気がつくかもしれない。
 そう思って、ラクスはメイドゴーレムへの練成を決めた。丁度『図書館』で足りないという話でもある。
 体長は二メートルを越え、高いところの物も簡単に取る事が出来、重いものも苦もなく運べる豪腕。けれど、掃除やお茶酌みなど、細かい作業も出来る手先の器用さ。
 有機物ではなく、岩から創られるメイドゴーレムは人間からの練成には向いていないが、向いているものを創っていても腕試しにはならない。
 よって、ラクスはその無茶にあえて挑むのだった。
 圧倒的な質量不足から、ラクスは少女の細胞の増殖からかかった。増やすだけ増やし、質量が同じになってから、炭素へと変換していく。炭素はその密度次第で石炭のようなやわいものから、ダイヤモンドの硬度まで、様々に応用が利く。とりあえずそれに変換してから、形を作り、密度を変えていこう、とラクスは神経を集中した。
 一つ一つの細胞が活発化し、それぞれが増殖を繰り返す。表面的にも変化は現れた。
 全体の質量が増えていくのだ。少女の体が、じわじわと大きくなってゆく。内蔵などは使わず、とりあえず質量だけを同じにするために、増やしやすい細胞ばかりを増やしている。よって、爪がどんどんと伸び、髪が足につくほどに増えた。脂肪が増え、皮膚細胞がたるむ為に少女の体は酷く肥満した熟女の様になってゆく。
 伸び止まない爪を見た少女が、初めて自分に何が起きているのか気がついた。
 ―――イヤっ!!
 その悲鳴を無視して、ラクスは質量を増やしていく。増やしすぎて制御できなくならないように、慎重に、けれど素早く。ある程度増えてくると、先に増やしたほうから分解して、炭素へと無理矢理に変換していく。
 有機物を無機物に作り変えてゆき、そこに魂を融合する。元は自身の体のため、馴染むはずだが、精神が悲鳴を上げればその限りではない。
 イメージは出来ている。『図書館』に幾たびに彼らには世話になるし、懇意もしているのだから。わざわざ細かく考える必要もなかった。
 視界を空ければ、大よそ表面は思ったとおり。内蔵が存在しない彼らは当然飲食もしない。排泄も無用。
 その辺の無用な機能を消してゆく。そして、精神からそれらへの必要性を消去するべく、ラクスは一際魔力を放出し、精神への干渉を始めた。
 人間ではなくなった手を、少女は水中でぼんやりと見ている。それを睨みつけるように見ながら。
 どこまで少女が耐えられるか。
 全てはそれにかかっている。








 ―――どうして、あたしばっかり
 そう一人ごちた。それを叫ぶ事は、疲れてしまった。生まれたときから、両親の仲は兼悪だったらしい。物心つく頃には、ベビーシッターに預けられ、何ヶ月も一人で過ごした。私立の幼稚園に入れられたが、直ぐに行くのは嫌になった。親が迎えに来るほかの園児に、憎しみすら抱いた。自分がどうやっても手に入らないものを、無条件で持っている相手が、何故だか無性に憎かった。一人に親が迎えに来ないことをからかわれて、酷い喧嘩をした事もある。それいらい、保父、保母はまるで腫れ物を扱うかのように対応し、一人でいる事が当たり前になった。
 小学校に上る頃には、もうそれが当たり前で。友達なんて出来ないし、教師も誰も彼もが鬱陶しかった。たまに顔を合わせる両親は、中学受験の話題以外何も話さない。時々家に来る父の部下は、とても笑顔の優しい人で、その人が自分の父だったら良かったのに、と思ったこともあった。けれど直ぐに、それは思い返した。父のような男に仕える相手は、信用できない。それは、屋敷中の人間にも思えることだった。誰も彼も、信じられなかった。一人として、自分の心をわかってくれる相手なんていなかった。「解ってる」と、さも同情めかして言ってくる相手が大嫌いだった。
 何時の頃からか、自分ばかりがどうしてこんなに不幸なんだろうと思うようになった。
 やがて、不倫関係にあった男と母が駆け落ちすると言い出し、父はそれを車で追った。二人の車はスピードの出しすぎで事故にあい、関係ない人間五人を巻き込んで事故死した。その後はめまぐるしく不幸になった。葬儀が済み、屋敷に帰ると、トランク一つを渡され、出て行けといわれた。何が何だか解らないまま、施設に送り込まれ、そこでの暮らしになどなれるはずもなく、屋敷に帰った。そこの表札が、長年仕えてくれた乳母のものだったのは、酷いショックで。慌てて会社に連絡を取ると、社長の名前は、何度となく家に出入りしていた父の部下。藁にも縋る思いで、何度となく求婚され、仕方なく合意した婚約者に連絡を取った。相手は、どこの馬の骨とも知らぬ女と駆け落ちしたらしい。
 これ以上の不幸が、あるだろうか。
 ―――あたしは、世界中で一番不幸なのに
 だれも、それを解ってはくれない。
 そして、この仕打ち。
 一体自分が何をしたのか。
 視界にうつるのは、細い自分の指ではなく、ごつごつとした男のような、否、岩のような手。その手で顔に触れてみた瞬間、悲鳴が喉を滑った。
 水中では、凝った音にしかならなかったけれど。
 ―――どうして、あたしばっかりっ!!
 怒りばかりが、心を占める。水槽の外にいる相手を見た。死ぬくらいなら、実験台にしてやると。まさか、それが本当だとは思わなかったのだ。
 何故、と少女は戦慄した。
 まるで、考えていなかった事に。
 実験台という言葉の意味すら、考えなかった。自分に手を差し伸べるのは、当たり前のことだと思って。誰かが自分を救うのだ。それが、当たり前。
 誰もそれをしないから、不満で仕方なかった。誰もが、思うように動かなくてはならない。それが、当然。何もしなくても、回りがしてくれるはずなのだ。
 誰も彼もが、自分を尊重し、大切にし、不幸を解ってくれ、手を差し伸べて幸せにしてくれる。
 そう、信じて疑わなかった。
 そうならないなら、社会が、周りが悪いのだと。
 そう、信じて疑わなかった。
『幸せになる努力を、した事がありますか?』
 唐突に、その言葉が閃いた。
 思考が、綻びる。
 少女を支えていた何かが、音を立てて崩れてゆく。
 もし、すべての不幸の原因が自分にもあったとしたら?
 少女はそれを認められずに、頭抱えて激しく首を振った。
 悲鳴ではなく、慟哭ではなく、咆哮が水中を激しく叩く。
 ――-どうして、あたしばっかり…!
 記憶が消されていく。心が消えていく。体が激しく痛んだ。頭が痛み、喉が張り裂け、耳が貫かれるようだ。全身の間接が軋み、ねじ切られるように痛む。
 もうそれに、抗う事は出来なかった。









 もう殆んどをメイドゴーレムに体を作り変えられた少女は、顔に触れた瞬間ぴたりと動きを止めた。かと思えば水中で悲鳴をあげ、やがて咆哮を上げた。
 ゴーレムの体で放たれた咆哮は水槽を波立たせ、その後の頭を抱えての悶絶は水槽が割れるかと思ったほどだ。
 精神に干渉して、何とか異物を受け入れさせようとするが、どうしても出来ない。そもそも、順応しようという意思がまるで感じられないのだ。今、自分に起こっていることをまったく理解していない。理解しようともしていない。
 ラクスは唇を噛んだ。
 このままでは、どうしようもない。
 そう思ったとき、目が、合った。
 岩肌になったそのほおの奥から、烈火のような怒りを込めた視線が、放たれる。その視線を見上げて、ラクスは挑むように睨み返した。
 ―――どうして、あたしばっかり
 そう、聞こえたように思う。それだけ。
 それだけが、最後だった。
 ぷつん。
 そんな音が、確かに彼女の心に届いた。
 ゴーレムは急に動きを止め、頭を抱えた腕から力が抜ける。弛緩しきったその体は、ゆっくりと水中を漂い、ラクスの目の前の水槽に内側からぶつかって、そこで一切の動きを止めた。
 水槽越しに、ラクスはそこに触れる。
 少しだけ魔力を送り込んでから、直ぐに手を下ろした。
 嘆息一つ。
「”壊れ”てしまいました」
 魂の崩壊。それは、練成の失敗を意味する。今から別の魂を練成してもいいが、今その体力はないし、何より、あの少女の魂に馴染むように創った為、他の魂を練成するのは気がひける。
 水槽内の温度を記録していた装置を止め、ラクスはふと外に目をやった。
 気がつけば、雪は止んでいる。
 青い光が、ラクスと、そして、水中で”壊れ”てしまったゴーレムを照らし出す。
 何も隠すことなど出来ない光の前で、ラクスは小さく「残念です」と呟く。
 失敗例の記録を余す事無くとりながら、何故失敗したかを考え、やがて、一つの結論に辿りついた。
「人選に問題があったかもしれません」
 と。
 人間たちの魂は、常に摩訶不思議。威勢良く強く見せかけているものこそ、脆弱であったり。黙りこくって儚く見えるものこそ、秘める魂は強靭であったり。
 まったくもって、興味が尽きない。
 一筋だけ、涙を流して、少女の存在を、唯一惜しむものとして。
 それから。
 ラクスは、その緑の瞳を好奇心と知識欲に煌めかせて。
「次は、きっと上手くやって見せます」
 そう、宣言するのだった。失敗しても、社会への問題はない。少女も死ぬつもりであったのだから、方法は変わっても目的は果たせた事になるだろう。
 ラクスはもう、動く事も、意思を持つ事もないゴーレム型をした”お人形さん”を見上げて。小さく笑って。
「ありがとうございます。いい失敗例の記録が取れました」
 心の底から、感謝したのだった。
 満月だけが見ていた。










 翌日、『図書館』に連絡するとたまには失敗もあるが落ち込まないように、という叱咤激励の言葉と、引き取りに行くからそれまでにまとめて置くように、というありがたい連絡が来た。
 ラクスは、レポートにまとめながらふと窓から外を見る。
 この世界から、一人の少女が消えた。
 けれど、何も変わらないまま今日は始まっていく。やがて終っていくのだろう。
 薄情な、世界のサイクル。
 しかし、何者をも縛らない自由な街で。
 ラクスはまだ、本を探し続ける。





END
PCシチュエーションノベル(シングル) -
泉河沙奈 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年02月14日

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