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『 3分間のブラック・アウト 』
紅・蘇蘭0908)&荒祇・天禪(0284)


 待っているぞ、とだけ、式神は伝えにやってきた。命をまっとうした小さな鬼は、核である呪符を紅蘇蘭に見せたあと、完全に消滅していた。
「場所も教えやしない」
 蘇蘭はしゅうと紫煙を吐いた。その、有無を言わせぬ高圧的な『誘い』の主は、すぐに察しがついていた。
 荒祇天禪……彼女の伴。まれに顔を合わせては、話なり酒なりを交わす間柄であったが、その日の誘いはいささか唐突すぎた。蘇蘭は赤眼をツイと動かし、普段はあまり目に留めることもない、人界の暦を見たのだった。
 2月14日。
「何かと思えば……私やあなたに、何の関わりも有りはしないじゃないの。普通の日よ……第一、チョコレートなんてご面相でもなかろうに……」
 蘇蘭とて、バレンタインデーの何たるか(特に、今日の風習)を知らぬわけではない。しかし、彼女にとっては、日本の菓子業界が広めただけの記念日にすぎなかった。人によって踊らされる人を見るのは、少し面白かったが。
 今日では、バレンタインデーというものは、女性が想い人にチョコレートを贈り、想いを打ち明ける日のはずだ。
「あァ……そうか。そういうことね」
 ふふん、と不意に蘇蘭は笑い、椅子から立ち上がった。蘇蘭の店には、骨董品こそあれど、チョコレートはない。だが、古い酒なら置いてある。蘇蘭は棚から数十年もののチョコレート・リキュールを取り、ふうっ、と埃を吹き払った。
 荒祇天禪という男は、もてるのだ。仕事もでき、頭もきれ、金も権力もある上に、男前だった。それでいて薬指に指輪がはまっていることもないのだから、2月14日は引く手数多にきまっている。
 先約がある、悪いな――そう言ってしまえば、群がる蟻を払い落とすのは容易なはずだ。天禪という男は、しかし、そういった建前を建前のままにしておけない、頑固で義理堅い一面もある。蘇蘭に急に話がまわってきたのは、その性分のためなのだ。絶対に。
「貸しは高くつくよ」
 リキュールのボトルを抱え、彼女は笑みを残して店を出て行く。あとに、赤い軌跡を引きながら。


「あら……待たせた?」
「俺は『待っている』といった」
 涼やかで冷めた女の声に、地の底から響くような低い男の声が応える。
 ほとんど『暗がり』と言えるほど、照明の落ち着いたバーだった。
 闇の中に浮かぶ広い背に、蘇蘭は歩み寄り、その隣の席に腰を下ろした。いちいち顔を覗きこまずとも、男が荒祇天禪であることはわかっている。彼がどんな表情で、何を飲んでいるか。彼女にはお見通しだ。
「借りは返してもらうよ、必ずね」
「面倒な女を誘ったものだ」
 ふん、と天禪は鼻で笑い、タンブラーを手に取った。
「今年の節分はどうやって過ごしたの」
「休みを取った」
「あなたが休み、ねえ」
「豆を撒く音が煩わしい」
 タンブラーの中身を飲み干した天禪が、バーテンに向けて空になったそれを押し出そうとした。蘇蘭が、す、と音もなく手を伸ばす。銀の煙管が、天禪の手の甲に触れた。それだけで、天禪はタンブラーから手を離し、ようやく蘇蘭の白面を見たのだった。
「何だ」
「たまには甘口も呑みなさい」
 蘇蘭は、カウンターにチョコレート・リキュールのボトルを置いた。
「気取った酒だな。俺には似合うまい」
 ボトルを取った天禪は、難しい顔をしていた。しかし、ラベルに『CHOCOLATE』のスペルを見出した途端、彼は表情を変えずに掌を返した。
「……いや、今日の俺に相応しい」
「どっちなのよ」
 蘇蘭は笑った。呆れたときの笑みではあるが、どこか虚ろなものでもある――紫煙を吐くと、彼女は天禪に詰め寄った。
「どっちが建前かしら。あなたの嫌いな建前は」
「おまえは建前を望むか」
「べつに、私は嘘も真実もどうでもいいの」
「……」
「ただ、嘘をつかない男も、嘘をつくのが下手な男も、嫌いじゃないわね」
「そうか」
天禪はかすかな笑みやチョコレート・リキュールのボトルを連れて、席を立つ。彼は変わらず大きく、蘇蘭は見上げていた。
「出るぞ」
「どこに連れてく気?」
「とって喰いはしない」
「どうだろうねぇ」
 言いながらも、蘇蘭は天禪のあとについていく。
郊外のバーの前に停まっていたのは、高級車にはちがいないが、運転手のない黒塗りのセダンだった。天禪がその車の鍵を開けるのを見て、蘇蘭は肩をすくめる。
「めずらしい。あなたが自分で運転?」
「何か問題か?」
「馬鹿力の鬼王に出来るの? 車というのは、加減の難しいカラクリよ。もともと人間用なんだしねぇ――いえ、そもそもあなた、免許は?」
 蘇蘭が横目で見つめた天禪は、地を揺るがしているような低い笑い声を上げた。
「おまえがそんな細かいことを気にするとは、それこそめずらしい。案ずるな、免許は手配してある」
「……手配、ね……」
 天禪はそれ以上何も言わず、助手席のドアを開けた。
 笑っている。
 蘇蘭は端から心配などしていなかった。彼女もまた、それ以上何も言わず、助手席に座った。


 車は、蘇蘭の店に向かっている。
 回り道をしている。
 時間を持て余している。
 いつもの二人のように。
 ハンドル横のホルダーに収められている天禪の携帯電話は、何度も何度も着信していた。音もバイブも切ってあるようだ。ただ無言で、赤色のランプがはげしく点滅していた。蘇蘭の赤い目は、飽かずそのランプを見つめていた。このランプのいくつが、女が発したものなのだろう。中には大事な商談もあるかもしれない。いまの天禪はそのすべてを排している。
 不思議と――蘇蘭も天禪もそう思っていた、不思議なものだ、と――久し振りに会ったというのに、会話はなかった。
 いや、もとより、ふたりはそういった間柄であったか。言霊は意味を成さない。ふたりをかどわかすものなど、この世に何もない。
 車が止まった。
 どことも知れぬ、緑の多い高台だ。東京の灯という灯を一望できた。空にはよく晴れた夜が広がり、満ちかけた月と、くすんだ星の光がある。ふたりは無言で車を降りていた。
「特等席だね」
 十数分ぶりに、蘇蘭が口を開く。
「うむ」
 天禪が口元をゆるめた。
 光はまたたいている。眼下でも、頭上でも。
「邪魔な灯だ」
 天禪が呟いた。
「美しいが」
 彼は、すうぅと大きく息を吸い込んだ。そうして、東京の夜景に、ふうと吐息をついたのだ。
 ふう、と――たちまち、東京の灯という灯が消え失せた。漆黒の闇が広がり、汚れた海さえ見え、星と月の輝きは増したようで――何も、変わらない。
「久し振りに見たよ」
 蘇蘭が囁いた。
「灯のない東京なんて」
 そこに有るべきものは囁きのみか。
 また、沈黙が訪れた。
 きっと、『下界』では人間たちが右往左往している。いまや電気に頼りきりの、人間たちのざわめきが聞こえてくるようだった。
「灯を消しただけだ。コンピュータは動き続けているし、生命維持装置も動いている」
「私が何か案じていると思ったの?」
「蘇蘭」
 天禪が、だしぬけに、蘇蘭の顔を見つめた。
 浅黒い肌は、闇の中にある。東京の灯がない今、天禪の金の瞳と、頭上の星々だけが、蘇蘭にとっての頼りだ。そして、天禪の目にうつるのは、蘇蘭の鈍く光る赤い瞳と、闇ににじむ白い肌だけだった。
「俺もおまえも、息をつくだけで、何人殺せる? 俺たちはすべてを手の内におさめているようなもの。しかし、何故だ? 何故俺たちは、こうしてただ眺めているだけなのだろうな?」
「そうねえ。結局、何も手に入れていないのと同じなのよ」
「少し力を加えてやるだけで、2月14日にチョコレートを想い人に贈るなどという、戯けた風習も消えるというのにな」
「あら、戯けた風習だなんて」
「戯けているとも。何故、2月14日だ。想い人に想いを打ち明けるのにも、ものを贈るのにも、誰かが日付を決めてやらねばならんのか。気の向いたときに囁き、気の向いたときに与えれば良いのだ。おまえすら、この俗習に囚われるか。まあ、わざと囚われたのだろうが」
 ふん、と天禪はうなじを揉んだ。
 しかし俺は、囚われてはいないのだぞ――天禪の沈黙は、そう続けている。彼の恨み節じみた言い分を聞いていて、蘇蘭は苦笑していた。今日、彼は相当な苦労をしたらしい。
「人間なぞ、どうせ死んでしまうのだから……好きにさせておやりなさいな。思い通りにならないものごとがあった方が、毎日にめりはりがつくわ」
「それがおまえの答えか」
「どうかしら」
「……ふむ」
「私たちはいつだって、何でも、手に入れることができる。あえて手に入れないという選択肢は、なかなか贅沢なものなのよ。私たちの手に入らないものがあって?」
「ある」
 蘇蘭にとっては少しばかり意外な答えがあった。天禪は真顔で闇をにらんでいるばかり。
「あるの?」
「あるとも。たとえば」
 天禪は笑みを浮かべて、巨躯をわずかに屈め、蘇蘭に耳打ちした。彼の息が、蘇蘭の白い耳を、紅い髪をくすぐった。
 そして、答えは、

「    」

 蘇蘭は声を上げて笑ってしまっていた。静寂の中に、笑い声は凛と響く。
「天禪! 相変わらず冗句が好きね。それでさえ、あなたなら、すぐにでも手に入りそうなものだというのに」
「果たして、そうか?」
 ずい、と身を屈め、天禪は蘇蘭の耳元に目をやった。金眼は細められ、いつになく、彼は無邪気であるようだ。蘇蘭は天禪に顔を向けた。お互いの視界に飛び込むのは、お互いの双眸だけだった。
「どうかしら」
「おまえは、つくづく、こまった女だ」
 天禪の囁きに、蘇蘭は喉の奥で笑みを転がす。
 そうして、ふっ、と吐息をついた。
 ふっ、
満点の星と月が消え失せた。


 よいやみ、ここにあり。




<了>

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2005年02月14日

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