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『 チョコレートの病 』
光月・羽澄1282)&葛城・伊織(1779)


 Lirvaの弱々しい咳は、ネットの海に届かない。プログラムには一糸の乱れもない。今日も彼女の仕事は完璧なのだ。たとえ彼女が、疲れていて、風邪を引いていて、咳をしていたとしても。
 ――どうしてこんな日に、ネットテロなんて考えるのよ。
 はあ、と熱もった溜息をついてから、彼女は考えをすぐに改めた。
 ――こんな日だから、なのかな。2月14日に何の予定もない人が、きっとこんなことやってるのよ。私もそういう天才に妬まれるのかも。今日私、予定あるんだもの……。
2月14日18時に起動するウイルス・プログラムがネット上で発見されたのは、つい3日前のことだった。すでにウイルスは日本語圏の流れに乗っていた。2月14日の18時がはじまったとき、OSの終わりが来る可能性があると、光月羽澄(いや、Lirva)に話が持ちかけられたのは、昨日のことだった。あまりにも大きな口からの依頼だった。依頼人はLirvaの他にも、腕利きのハッカーに声をかけていたらしく、すぐに業界での話は広まっていった(それこそ、ウイルスのようだった)。
 たとえ体調が万全ではなかったとしても、羽澄はその依頼を断ることが出来なかった。スケールの大きい話であったから、不謹慎とは知りつつも、うきうきしてしまったのだ。
『仕方ない。17時までに終わらせましょう』
『余裕だとは思うけど、なんで17時?』
『予定があるので……』
『あーうらやましいなーLirvaさんはオレたちみたいなデブヲタじゃないってことかー』
『勝手に俺をデブヲタにすんな!』
『はいはい、時間ないんですから! やりましょう!』
 全国に――或いは世界中に散らばったハッカーたちとの、それは共同戦線だ。短い打ち合わせの間中、羽澄はずっと咳をしていた。その咳はやはり、ネットに伝わってはいない。Lirvaはいちいち『ゴホ×2』などと打ち込みはしない。
 ふと羽澄が孤独を感じ、すぐにそれを否定するのは、こういった瞬間なのだった。
 ――私は、ひとりなんかじゃない。私は、寂しくなんかない。だって私は、今こうして、人に頼まれて仕事をしてる。それに……6時から、伊織と約束だって……。
 かぶりを振って雑念を追い払うと、彼女はマイクを引き寄せた。
 彼女は声で、プログラムを駆る。


 18時。


「遅エのう」
 街角で唇を尖らせて、背を丸めている青年がひとり。葛城伊織だ。その場所では、他に何人も、待ち人を持つ人間が立っていた。やはり、「○○時きっかり」という約束は多いもので、18時を過ぎて伊織が待ち続ける中、巡り合う恋人たちは次々にその場を離れていった。
「……遅エ、なァ」
 彼が待っている光月羽澄という少女は、仕事柄(18歳だが、彼女は実にさまざまな仕事を持っていた)時間には几帳面なたちで、約束の時間に遅れることはめったになかった。遅れるときは遅れるときで、必ず事前に連絡を入れてくるものだが――
「あッ」
 己の失態に気づいた伊織は、思わず声を上げて頭を抱えた。……携帯電話を、家に忘れてきた。普段あまり使っていないせいだろう。
「……ふん、何年か前まで、遅刻する前にその場で連絡入れるなんて真似ァ、出来やしなかったんだ。何がケータイだ。そんなもんなくたって俺はなァんにも困らん!」
 大物俳優のような台詞を残しつつも、伊織は慌てて、困り果てながら、羽澄がいるはずの『胡弓堂』まで走っていた。


 ネット依存症の人間たちすら知らないうちに、作戦は終わり、Lirvaのその日の役目も終わった。
 羽澄は、ブルーバックの警告画面の中にいるような意識の中、身体を失って浮かび上がっている。たゆたうばかりだ――言葉も、振動さえもそこにはない。
 ――私は今日……伊織のために生きて……伊織のために歌うの。姿もないクラッカーなんかに、何も捧げたくなんかなかった。今日は特別な日なのよ。きっと、意味のある日になるの。
 最後に見た時計は、何時を示していただろう。
 ――17時。あと1時間だった。仕事はジャストに終わったんだもの、間違いない……17時。私は……約束が……あるの……。
 ブルーバックが点滅している。それは、ひとつのプログラムの断末魔のようだ。Lirvaが駆るプログラムがとどめを刺していた。彼女はそれを見届け、時計を確認し、

「羽澄!」

 不愉快なブルーが弾けた。羽澄の視界に飛び込んできたのは、今日18時に会う予定の、葛城伊織の顔だった。涼やかで強い黒い瞳の、日本人らしい造りの顔だ。
「あれ……伊織……?」
「なァにが『あれ』だ! 熱あるぞ! こんな寒いとこで倒れやがって……!」
 伊織はがみがみと怒鳴りながらも、ひょいと羽澄を抱きかかえて、住居に入った。伊織の腕の中、茫漠とした意識の中で、羽澄は自分が住居と店をつなぐ廊下で倒れてしまっていたことを知り、今が18時30分であることを知った。熱があることに気づいたのも、伊織に言われてからのことだ。彼女は仕事に夢中だったし、熱は徐々に上がっていくものだ。彼女は、ただ、疲れを感じていただけだった。
「……ごめんね、伊織」
 布団の中で、ようやく羽澄は伊織にまともに声をかけた。
「特別な日なのに」
「あのなァ」
 古い湯たんぽを抱えてきた伊織は、呆れ顔で肩を落とす。
「クリスマスと同じだ。2月14日に何の意味があるんだ。俺たちゃ、日本人だぞ。幕府はバレンタインデー知ってたか?」
「伊織……時代は変わってるんだよ。2月14日には、女のひとがチョコを男の人に贈って……誰かがテロを起こす日なの。私たちはそんな時代に生きてるんだから、少しは――」
「だったら」
 伊織は、少し、怒っていた。羽澄は彼の目を見て、口をつぐむ。
「特別な日なんだったら、なんで、仕事なんかしてたンだよ」
「……え……どうして、わかったの……?」
 羽澄の問いに、伊織は、部屋の片隅のノートブックを顎で指した。仕事を終えて羽澄が終了処理をしたはずのノートブックは、ブルーバックの警告画面のまま、空しくフリーズしていた。
「Lirva専用機、エラって電源落ちてないぞ」
「あ、あれっ」
「長い間、重いソフト使ってたんだろ。たまにそういうことがあるって、おまえが前、俺に話してた」
「……伊織、あのね……」
「いいから寝てろ」
「その湯たんぽ、売り物……」
「な、なにー!」
 古びた湯たんぽから、伊織は思わず手を離す。湯たんぽはぼふりと羽澄の足元に落下した。確かに、黄変した値札シールが、湯たんぽの裏に貼りつけてあった。
「3980円……」
「お湯入れちゃったなら、仕方ないよ。店長には私から言っとく」
「すまん、物置から持ってきたつもりだったんだ」
「……散らかってる店で悪かったわ」
「そんなこた言ってねエだろ。……とにかく、もう寝ろよ。病人なんだから」
「病気じゃないよ……疲れただけだってば」
「だったらなおさら休んどけ。ああ、待ってろ。台所借りるからな、何か作ってきてやるよ」
 腕まくりをしながら立ち上がる伊織を見て、羽澄は思わず笑ってしまった。張り切っているように見えなくもない伊織を、嗤ったわけではない――嬉しくなってしまっただけだ。いま、羽澄の世話を焼いてくれるのはこの伊織だけ。親代わりの『胡弓堂』店長もいなければ、親友も、プロデューサーも、彼女のそばには今はいない。孤独なようで、羽澄は少しも寂しくはなかった。ただひとりだけでも――伊織がただひとり居るだけで、今は充分であったから。
 羽澄の熱はそれほど高いものでもなかったが、倦怠感はひどかった。横になったきり、身体を起こすこともままならない。伊織はそんな羽澄を甲斐甲斐しく看病した。梅粥やすったリンゴを運び、額のタオルと足元の湯たんぽはまめに替えていた。羽澄はそれを純粋に有り難がったが、同時に見ていて妙に可笑しくもなっていた。
 ――たまには、病気もいいかもね……。
 そう、お互いになかなか見られない一面がさらけ出される。
「ねえ、いおりん」
「な、やめろ、何だその呼び方ァ!」
「のどいたい。あたまいたい。ねえ、鍼うって」
「お安い御用だ! ……って言いたいトコだがなァ、今日は出かける予定だったんだから、鍼なんか持ってねエのよ」
「じゃ、指圧でいい」
「……おまえなー。……わかったよ。ほら、うつ伏せになれ」
「ねえ、いおりーん」
「だァからその呼び方ァやめろオイ!」
「冷蔵庫の中に、いいもの入ってるよ。一段目。伊織にあげる」
 伊織は、束の間、指圧と冷蔵庫のどちらを優先すべきか迷った。
 しかし結局、先に冷蔵庫に向かっていた。熱に浮かされた彼女であるから、自分が1分前に要求したことも、頭の中ではうやむやになってしまっているのかもしれないと思ったのだ。
 冷蔵庫に入っていたのは、ラッピング待ちだったらしい、手作りのチョコレートだった。

「随分たくさん作ったんだな」
「調子に乗っちゃって」
「もっと食えよ。疲れたときは甘いモンだ」
「でもこれ、伊織にあげるものだったんだし……」
「俺のものはおまえのもの。おまえのものはおまえのもの」
 小さなハートを、伊織は笑いながら、羽澄の口の中に放り込んだ。


 病人は、眠ってしまった。
 それがいちばんだ。
 しかし眠るまでに、伊織は何度、「寝ろ」と叱りつけただろう。羽澄はなかなか寝ようとしなかった。まるで明日にでも死ぬ予定であるかのように、時間を惜しみ、少しでも多くの時間を、伊織と過ごそうとしていた。
 ――俺と過ごせる時間なんて、これからいくらでもあるってのに。
 だが彼は、そうは思いつつも、わかっているのだ。
 多くの恋人たちと――羽澄にとって、今日は特別な日。今日という日は、二度と戻らない。『今日の時間』を、出来るだけ多く、彼女は伊織と過ごしたかったのだ。
「チョコ口につけたまんま……歯も磨かねエで、寝ちまって……」
 羽澄の唇のチョコレートを、伊織はそっと拭い取る。
「おまえ、子供かよ――」
 彼はそのまま、彼女のそばにいた。
 無邪気な寝顔は、その夜、伊織だけのものだった。




<了>
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2005年02月14日

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