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『みかん箱ふたつ分の愛情持って 』
藤井・百合枝1873)&藤井・雄一郎(2072)


 頭が痛い。どこからどこまで痛いのか分からないくらいズキンズキンと重く苛んでくる。咳をすれば更に響く。
 目を閉じていても目が回る。しかも瞼の奥がとても熱い。関節が痛い。体中がだるくて喉も痛い。息も苦しい。暑い。寒い。動けない。
 水曜日の午前9時。藤井百合枝は同僚からもらってしまったらしい風邪のせいで、病欠の電話を職場に入れた後はずっと布団にもぐっている。
 こんなふうに寝込むような風邪を引いたのは久しぶりかもしれない。
 先程測った体温は37.6℃――微熱と高熱の丁度真ん中、自分にとっては一番キツイ温度だった。
 薬は丁度切らしている。食べた方がいいとは分かっていても買いに出る気力がない。何もする気になれないけれど自分で何かしなければどうにもならない辺りが、いわゆる一人暮らしの切なさだろうか。
 こんなとき、家族のありがたみをひしひしと感じる。
 ほんのちょっと、実家にいた頃が懐かしい。
 例えこの世の終わりかという勢いで父親が取り乱し、それを母親が諌めるという一連のお約束があったとしても……いや、やはり出来ればあの心配性すぎる父には知られたくない。
 そういえば、明後日には職場で会議がある。作成しなくてはいけない書類がまだ出来ていない。どうしよう。ああ、でもどうしようもないではないか。
 早く良くなればいいのに。
 熱で朦朧としつつ、百合枝はまどろむ。
 うとうとと、どれくらいそうしていただろうか。
 しんと静まり返った部屋の中で電話が鳴っている。
 誰からだろうか。
 平日の昼日中に掛かってくるような電話は、重要か否か。
 迷っているうちに呼び出し音が切れた。
 そしてまた鳴る。
 とても遠くから聞こえている気がするけれど、違う。テーブルに置いたままのケイタイが自分を呼んでいるのだ。
 しかもこの着メロは―――
 重たい身体を引き摺って布団から這い出てると、辛うじてまだ鳴り続けている電話を手に取った。
「……もしもし?お父さん?」
 喉に違和感を覚えながら掠れた声で応じると、案の定、向こう側からはアイサツでも用件でもなく、声がひどいんじゃないかとか、そんな心配事が真っ先に発せられた。
 心配性だ。分かっている。父は自分を気遣ってくれているのだ。
 だが。
 頭に響く。本当に響く。それでもなんとか相手の言葉を遮って大丈夫、気にしないでと言い募ろうとする。
「……ああ、なんでもない。今日は休みだっただけ。ん、いや、ほんとに――」
 しかし、最後で迂闊にも咳き込んでしまった。
 言い逃れが出来ないほどの風邪特有のあの激しい咳を、だ。
 その後、筆舌に尽くしがたい程に慌てふためいた何事かを喚きたて父親は、こちらの返答も待たずに一方的に電話を切った。
「…………まずかったかも」
 通話終了を告げる電子音を聞きながら、百合枝はちょっとだけ後悔する。
 父はおそらく、きっと、間違いなく、文字通り飛んでくるだろう。今日が平日で、しかもフラワーショップがわりと混み合う日だとしても。

 そして百合枝の勘は、こと、肉親に関してはけして外れることがなかった。

 彼女の危惧どおり、色とりどりの植物達で溢れたフラワーショップの店先では既にひと騒動起きていた。
「ちょっとあなた!?どうしたの、突然」
「ゆ、百合枝が風邪を引いている!俺は行くぞ!かわいい娘が苦しんでいるのにどうしてここに居られるんだ!?と言うわけで店は頼む!じゃ!」
 フラワーショップの店長であるはずの雄一郎は、エプロンを脱ぎ捨て、ものすごい形相で妻の制止を振り切った。
「あなた……いくらなんでもこの時間からアパートに行くのはどうかと思うわよ?あの子だってもう子供じゃないんだし」
「いや!いやいやいや!それで大事になったらどうするんだ!俺は行く!」
「だから、電話に出られるくらいなら大丈夫じゃないかしらって言ってるのよ?」
「そのあと悪化して帰らぬ人になったらどうするんだ!ああ、百合枝が俺を呼ぶ声がする!待っていろ、百合枝!俺は後悔したくない!後悔したくなんかないんだぁ!」
 四十路も半ばを過ぎた男がまるで駄々っ子のように喚き、何もかもをかなぐり捨てて仕事用のバンに乗り込んだ。


 女性のひとり暮らしとしては完璧とは言い難いセキュリティ・システムだったが、それでもこれまで特に不都合を感じたことはない。
 オートロックじゃなくても、管理人が常勤しているという今時少々珍しい形態が安心感を与えてくれていた。
 ただ、不審者ではない、けれど出来れば回避したい人物の進入を妨げることは出来ないのだ。ウィルスに侵されたパソコンのようだ――ああ、違う。ウィルスに侵された人間から例えを引っ張ってきたんだ。逆だ。
 百合枝は気だるい身体を持て余し、寝返りを打つ。
 どうして、こんなことを考えているのだろう。
 相変わらず頭が痛い。思考が上手く定まらない。風邪というのは本当に厄介だ。
 チャイムが鳴る。
 電話ではなく今度は来客を知らせるチャイムだ。
 誰だろうか――なんて考える必要もないかもしれない。
 歩くのも重労働になりつつある状態で、百合枝は出来る限り身体に振動を与えないように、痛む関節と頭を抱えてそろそろと玄関へ向かう。
「百合枝!百合枝、助けに来たぞ、百合枝!!」
 ドア越しにもはっきりと声が届く。
「………近所迷惑だよ、父さん」
 しかも頭に響きすぎだ。
 そうごちつつ扉を押し開ければ、今にも死にそうなほど心配の色を濃くした父親がダンボールを両手にふたつ抱えて立っていた。
 チャイムはどうやって押したのだろうかという疑問はとりあえず横に置いておく。
 だが、箱の存在は非常に気になるところだ。
「……何、持って来たの?」
 雄一郎を家に入れてドアを閉めつつ、ほんの少し不審そうに首を傾げる。
「ん?これか?みかんだ。お前はみかんが好きだからな。それに風邪にはやはりビタミンCが必要不可欠だ。いっぱい食えるようにいっぱい持ってきたぞ!そういやお前はちっこい頃からみかんが好きで好きで」
 靴を脱いで居間に上がって、ダンボールふたつをキッチンの冷蔵庫横に置くまでの間、彼は延々と『百合枝とみかん・幼少時の思い出』を語り続けた。
「覚えてるかぁ、百合枝?お前、食べすぎで身体がみかんの香りになっちまってたんだぞ?しかも手がまっ黄色になってな、消えない消えないって泣いたっけなぁ。姉妹揃ってそりゃぁもう大騒ぎになって」
「…………父さん……」
 頭痛がひどくなったような気がする。
 心なしか気力も減退したような。
 いよいよ立っているのも話を聞いているのも限界だ。百合枝は黙って布団の中に戻った。
 ところで自分はさっき何を考えていたんだっけ?
「おお、そうだ。お前、何にも喰ってないだろ?腹、減ってるだろ?風邪の時ほど上手いもん喰わないとな。あと水分。ちゃんと水分取らないとな!」
 スポーツドリンクでもあればいいのだが、あいにく冷蔵庫には何も入っていない。
 だが、雄一郎はさっさとレモン絞りをキッチンの棚から探し出し、手土産のダンボールからみかんを数個取り出して生ジュースを手際よく作成。
「寝てても飲めるようにストロー付きだぞ」
 グラスいっぱいのミカンジュースは喉に心地よかった。少しだけ酸味がしみたけれど、乾いた身体は喜んでいる。
「……有難う、父さん」
「なんのなんの!父さんはお前の父さんだからな!」
 こちらが恥ずかしくなるくらい満面の笑みを浮かべて、雄一郎は百合枝の頭を撫でた。
「さて、あとちょっと待ってろよ?今から風邪の時の定番モノを作ってやるから」
 そうして張り切ってキッチンに戻っていく後ろ姿を目で追いながら、ちょっとだけ邪険に思ってしまったことを反省してみる。
 そういえば電話が来る前まで自分はひとり暮らしを憂い、実家暮らしを懐かしく思い出していたではないか。
 家族が傍にいてくれる安心感。
 これに感謝するべきかもしれない。
 両手で包み込んだ冷たいグラスを見つめながら、百合枝はボンヤリとそんなことを考えていた。
 ほどなくして、キッチンから美味しそうな匂いが漂ってくる。
 反射的に、くぅっと腹の虫が鳴いた。
 さっきまでは食欲すら全然感じていなかったのに。
「さあ、お待ちかね!お前の好きなタマゴ粥だぞ」
 トレイに乗せられた土鍋。ふわふわと湯気が立ち上る優しい色の粥が心地よく鼻を刺激してくれる。
 また、腹が鳴った。
「熱いからな。気をつけなくちゃいけないぞ」
 甲斐甲斐しいとはこういうことを言うのかも知れない。
 タマゴ粥をレンゲで茶碗によそい、食事介助までしてくれそうな勢いだ。
 だが、ソレはこの年齢で父親にしてもらうにはかなり気恥ずかしい。
「いいよ、自分で食べられる」
「そっか?」
「そんな残念そうな顔しないで」
「そうか……」
「父さんも何か食べたら?と言っても何にもないんだけど……」
「ん?俺はいい。百合枝が美味しく食ってくれて、それを見てるだけで充分だしな」
 変わらないな、とふと思う。
 自分達が大人と呼ばれる年齢になっても、父にとってはやはり子供で、ソレは多分ずっと変わることがないのだ。
 これからどんなに年月を重ねても、自分も妹もずっと父と母の子供であり続ける。
 今更のように思い至ったこの事が妙にくすぐったい。けれど、たまにはこんなふうに子供時代に戻ってみるのも悪くないかもしれないと素直に思えた。
 土鍋の中身をキレイに空にして、勧められるままに薬も飲んで、横になってゆったりと会話を続けるうちに、百合枝は自分の身体がかなり楽になっている事に気付く。
 軽い頭痛はまだ続いているし、目蓋の裏もまだ熱い。ふわふわした感じも残っている。それでもなんとなく、よく分からないけれど楽なのだ。風邪薬だってすぐに効果が出るわけではないのに。
 看病されるというのは、こういうことなのかもしれない。
「なあ、父さん思うんだけどな。お前にもアイツみたいに同居人つけてやった方がいいか?こういう時にヒトリじゃ大変だろ?いや、父さんはお前達に何かあればどんなことをしてでも必ず駆けつけるが、それでもやっぱり、誰かいるのと居ないのとじゃ全然違うというかなんというか」
 食器を流しに下げて洗い物まで始めた雄一郎が、ふと思いついたように、声を掛けてきた。
 妹の家にはオリヅルランの少年が住んでいる。父のチカラを与えられた緑の子。彼と、そしてあの狼男と出会って行動を共にするうちに、妹は随分と変化した。
 あの子にとってソレはとても必要だったことだ。
 だが、自分はどうだろう。
 振り返ってみる。
 考えてみる。
 これまでと、これからと、今この瞬間の自分について考える。
「なあ、百合枝?」
 片付けを終えて、タオルで手を拭きながら戻ってきた父に、百合枝はゆっくりと答えを返した。
「私には……必要ないよ」
 そうして笑う。
 そう、自分には必要ない。
 何かあれば父が、あるいは呼ぼうと思えば妹達がここに来てくれる。その安心感だけで十分なのだ。
「そっか?」
「そうだよ」
「………そうか……」
「でもそう言ってくれるのは嬉しかったよ、お父さん」
「そうか!」
 なんて分かりやすいんだろう。
 思わず笑みをこぼしながら百合枝は頷き、
「今日は有難う」
 雄一郎の目をまっすぐ見つめて、しっかりと感謝の言葉を告げた。
「また来るからな。何かあったらすぐに飛んでくるしな。父さんがついてるから安心しろ?」
 百合枝の髪を先程と同じように優しく撫でて、雄一郎は何度もまた来ると繰り返す。
 そして、幾分顔色の良くなった娘に安堵し、彼は日の暮れ掛けた東京から妻の待つフラワーショップへと戻っていった。
 自分ひとりだけがいる部屋。
 他の誰もない部屋。
 けれど、
「お父さん、有難う……」
 みかん箱のふたつ分の愛情とぬくもりが、百合枝の部屋には残されている。



END
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2005年02月10日

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