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『 『キズナ。』 』
オーマ・シュヴァルツ1953)&シェラ・シュヴァルツ(2080)


 あまりにも近すぎて。
 見えなくなることだってある。


 パチン。


「オーマ!いつまで寝てるんだい!?もう診察の時間だろ!!」
 いつものように響く、妻シェラ・シュヴァルツの声。
「わ、悪ぃ!今起きるから!」
 慌ててベッドから起き上がったオーマ・シュヴァルツは、ぼんやりとした頭で周囲を見回し、思い至る。
(ん……?今日、休診日だったような気が……)
 それに、怒鳴っていたはずのシェラの姿も近くにない。
(空耳……か?)
 いつもシェラには怒られているから、怒鳴られたような気がしただけかもしれない。
 それにしても、目覚める前に聞こえたような気がする、あの妙な音は何だったのだろう。
「まあいっか」
 彼はそう呟くと、とりあえずベッドから降り、服を身に着けて寝室を出た。
「シェラ?」
 キッチンに立っている、見慣れた後ろ姿。
 いつものように、鍋からは恐ろしい臭気が噴き出している。
 何かがおかしい。
 嫌な――予感。
「……シェラ?」
 もう一度呼びかけてみる。
 すると、彼女は振り向きざま、笑顔でこう言った。
「あ、オーマ、お早う。ご飯もうすぐ出来るよ」
「ああ、お早う」
 戸惑いながら、オーマも挨拶を返す。
 これだけであれば、普通の夫婦の会話だ。しかし、シュヴァルツ家では、ありえない。
 手にした調理用の鎌で、野菜をぶつ切りにし、次々と鍋に放り込んでいくシェラの姿を見ながら、オーマは釈然としないものを感じていた。


 そして、食卓につく。
 どろどろになった、料理というよりは、絵の具か何かかと思わせるような代物を、恐る恐る口に運ぼうとしたその時、シェラが口を開いた。
「オーマ、あたし、ここを出て行こうと思ってるんだよ。いつまでも居候してるのも気が引けるしさ」

 時が止まる。
 嫌な予感は、さらに強くなる。

「……シェラ、一体どうしちまったんだ?何かの遊びか?」
「遊び?何で?」
「いや、何か劇団にでも入ったのかと思って」
 訝しげに問うオーマに、シェラも不思議そうな顔をしている。
「だから、いつまでもやっかいになってるのは心苦しいんだって」
「……は?冗談キツイぜ、シェラ。ここはお前の家だろ?」
「何言ってんの、オーマの家じゃないさ」
 どうも話が噛み合わない。オーマは頭を掻きながら、宥めるようにゆっくりと言葉を発する。
「だから、俺様たちは犬も喰っちゃうほどのラブラブ夫婦だろ?俺様の家ってことは、お前の家でもあるってことじゃねぇか」
 シェラが心底分からない、というように目を瞬かせた。
「あんたとあたしが夫婦?……あんたこそ冗談はやめておくれよ。あんたは家主で、あたしは居候だろ?」
「シェラ……お前、一体どうしちまったんだ?」
 オーマの胸に、不安が染みのように拡がってくる。シェラの態度はとても演技には見えないし、そもそも彼女は好んでそのようなことはしない。
 どう考えてもこの事態は尋常ではない。記憶喪失か何かだろうか。しかし、自分のことはきちんと認識しているようだし、オーマのことも知っている。
 抜け落ちているのは、二人の間柄だけ。
「とにかく今日中にさ、家探すから」
 そう言ったシェラの声が、どこか遠くから聞こえて来るような気がした。
「――ま、待てシェラ!とりあえず、診察させてくれ」
 我に返ると、オーマは言葉を搾り出す。
「え?あたし別に悪いとこなんかないよ?……ああ、健康診断か。それなら受けてもいいけど」

 しかし、詳しく調べても、シェラにおかしな点は見当たらなかった。


「あ、そうだ。悪いんだけどさ、診療所は今までどおり手伝わせておくれよ。中々職って見つからないし」
「ああ、それは構わねぇが……」
 シェラはその日の夕方になり、新しい家が見つかった、と報告してきた。そして、自分の荷物を、すぐにそちらへと移してしまった。オーマは、それを止めることが出来なかった。幾ら自分たちが夫婦だと言うことを説明しても、冗談だと思われ、鼻先で笑われる。ついには『しつこい』と怒られてしまった。
「じゃあ、明日からまた来るから」
「ああ……」
 どうしようもないまま、オーマはシェラの背中を見送る。



「はい、次の人!」
 シェラの元気な声が聞こえる。それに導かれ、患者が診察室に入ってきた。
「……胃薬出しとくから飲んどけ」
「ありがとうございます。どうしたんですか?先生、何か元気ないですね」
 胃痛持ちだという男性患者にそう言われ、オーマは無理矢理笑顔を作る。
「何言ってんだよ!俺様はいつも腹黒親父マッスルパワー全開だぜ!」
「それならいいんですが……失礼します」
 豪快に笑うオーマに、男性は微笑むと、診察室を出て行った。
「オーマ、今日はもう終わりの時間だね。明日また来るよ。お疲れさん!」
 シェラが笑顔で声を掛けてくる。

 いつもと同じなのに。
 こんなに近くに居るのに。
 二人の心の距離は、とても遠いものになってしまった。

「……ああ、お疲れさん」
 あれから数日経っても、シェラの態度は変わらない。


 独りがこんなに寂しいものだったとは。
 がらんとした家を見回し、オーマは溜め息をついた。シェラの荷物が無くなった分――いや、シェラが居なくなった分、より一層空虚に見える。
 寂しさを埋めてくれるはずの娘も、今は友人と旅行中で居なかった。
 オーマは、キッチンの椅子に腰掛けると、酒を飲み始める。そういえば、シェラも無類の酒好きだった。いつも一緒に酒を酌み交わしたものだ。
 普段は豪快に振舞っているオーマにも、この状況は酷く堪えた。もう何度ついたか分からない溜め息が零れる。
 その時。
「うふふふふ。中々堪えているようね」
 唐突に、声がした。
 そちらを見遣ると、いつの間にか、赤い色をし、羽を生やした醜い小鬼が空中を舞っていた。手には小さな鋏を持っている。
「何だ?お前は?」
 オーマが訝しげな声を発すると、小鬼はケタケタと耳障りな声で笑う。
「あたしがね、あんたと奥さんを結ぶ、『運命の赤い糸』を切ってあげたの。だから奥さんは、あんたとの間柄を忘れちゃったのよ」
 それを聞き、オーマの頭に一気に血が上る。片手で小鬼を鷲づかみにすると、大声で怒鳴りつけた。
「お前の仕業だったのか!ふざけたことしやがって!早く元に戻せ!!」
 すると、小鬼はオーマの手の中でジタバタもがきながら、悲鳴を上げる。
「く……苦しいわよ!離して頂戴!あたしは糸は切れても、修復の方法は知らないのよ!」
 オーマはその言葉に脱力し、手を離した。
「もう……乱暴なんだから。そんなだから奥さんに愛想をつかされちゃうのよ……って、あんたたち夫婦は二人とも乱暴者だったっけ。まあいいわ。これだけは教えてあげる。『赤い糸』は二本の糸が寄り集まって出来てるの。つまり、二人分ね。あたしが今回切ったのは、奥さんの方の糸。だから、奥さんはあんたを忘れて、あんたは奥さんを覚えてるってわけ。残念なのは、あたしは一本の糸しか切れないってところね。両方切れたほうが面白いのに。それから、あたしは知らないけど、戻す方法はあるみたいよ。じゃあ、頑張ってね。バイバイ♪」
「ちょ――!!」
 オーマが引きとめようとする間もなく、小鬼の姿は掻き消えていた。
 暫しの間、虚空を見つめる。
 オーマはグラスに残っていた酒を一気に煽ると、口元を拭い、ニヤリと笑った。
「だが、これで光明が見えてきたぜ!この俺様の腹黒イロモノパワーをなめるなよ!!」



 次の日から、オーマは診察の合間を縫って、もしくは診療所を閉めてから、情報集めに奔走した。
 あの小鬼のことを人に聞きまわり、図書館で調べ、自分の能力を使い、ありとあらゆる手段を尽くした。
 しかし、成果は一向に上がらない。



「はい、次の人!」
 今日も、シェラの元気な声が響く。
 オーマは、体力には自信があったものの、精神的な疲労感はやはり拭い去れない。
 努力しても報われない、そのやるせなさ。
 溜め息をついたオーマの目の前に現れたのは、百は超えているのではないかと思えるほどの外見をした小柄な老婆と、その付き添いの若い女性だった。
「見ねぇ顔だな」
 オーマがそう言うと、女性が笑顔で答えた。
「はい、私は施設の者なのですが、このおばあちゃん、最近ウチに移ってこられたんですよ。どうも風邪を引かれたみたいで……こちらの先生の評判が良かったものですから、診て頂きたいと思いまして」
「そうか……とりあえず診てみよう」
 すると、それまで黙って微笑んでいた老婆が、急に口を開いた。
「あのね、悪戯好きの小鬼がね、赤い糸を切っちゃうの。でもね、あることをすると、また繋がるの」
 オーマの体に衝撃が走る。
「何!?婆さん、どういうことだ?」
 オーマが老婆に詰め寄ると、付き添いの女性が苦笑しながら言う。
「ごめんなさい……おばあちゃん、ちょっとボケちゃってるんです」
 だが、その言葉もオーマの耳には届かない。
「婆さん、頼む、教えてくれ!」
 すると、オーマの気迫に押されたのか、老婆は怯えたような表情になった。腕で顔を覆いながら、小さく震えている。
「ごめんなさい……お父ちゃん、ぶたないで……ぶたないで……」
 そこで、オーマは我に返ると、老婆の頭を撫でながら、努めて優しく声を出す。
「ごめんな、お父ちゃんはぶったりしねぇぞ。お父ちゃんは小鬼の話が聞きてぇんだ」
「本当に、聞きたいの?」
「ああ、お父ちゃんは聞きてぇ」
 それで老婆は安心したのか、また笑顔になると「秘密だよ」と言って、オーマに小声で耳打ちした。
「ありがとな、婆さん!これ、風邪薬だ!腹黒マッスルパワー内蔵で一気に治る!」
 オーマは呆気にとられている付き添いの女性に薬を渡すと、診察室を飛び出した。


「あれ?オーマ、どうしたんだい?昼休みにはまだ早いよ?」
 きょとんとした表情のシェラに近づくと、オーマは有無を言わさず、彼女の腕を引っ張り、抱き寄せた。
「――ちょ!?何すんだこのエロ親父!ぶっ殺すよ!」
 物騒なことを喚きながら抵抗するシェラに怖気づきそうになるが、今はそんな場合ではない。オーマは彼女の目を真っ直ぐに見つめると、普段は見せないような真剣な顔で、その言葉を口にした。
「シェラ。愛してる」

 一瞬場が静まったかと思うと、診察待ちをしている患者たちから、一斉に拍手と野次が飛んだ。
 そして、その次に飛んできたのはシェラの蹴り。
「――ぐはっ!」
 オーマの体は後方へ吹き飛び、待合室の壁に、派手な音を立ててぶつかる。
「あんた!何恥ずかしいことやってんだ!」
 シェラが、頬を上気させながら怒鳴った。
 その顔を見ながら、オーマは恐る恐る問う。
「……シェラ、俺たちは夫婦だよな?」
「は?何当たり前のこと言ってんだよ!脳でも腐ったかい?このヤブ医者!あんたが医者に見てもらえ!」
「ははははは!そうだよな!俺たちラブラブ夫婦だよな!」
「バカなこと言ってないで、さっさと次の診察に移りな!」



 それから程なくして、シェラは家に戻ってきた。何故自分が家を出たかに関しては、よく覚えていないらしい。


 オーマは、いつも家族に愛情表現していたし、言葉にもしていた。
 だが、あれだけ真面目に伝えたことは、いつ振りだったのだろう。
 彼にとっては、いつでも語る言葉は真剣そのものだったし、例えふざけた素振りを見せていても、冗談で言っている訳ではなかった。
 だが、受け取る側はどうだったのだろうか。
 言葉や想いは、発する者だけではなく、受け取る者の捉え方にもよる。
 オーマの発する言葉や想いは、見えにくくなっていたのかもしれない。
 あまりにも、近すぎて。
 空気のように、身近すぎて。


 そして、再び今まで通りの生活が始まる。
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2005年02月08日

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