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『雨が降っていた 』
四宮・灯火3041



 切れかかった電灯の淡い光が、路を闇の中からぼんやりと浮かび上がらせている。
 細く、細く、長く続く路――。
 歩けば、湿った音が響いた。
 ぴちゃり、ぴちゃり、からり、ころり――……ゆらり。
 夕方まで降り続いた雨の残ったアスファルトに、小さな影が一つ。右へ、左へ、幻影のように揺れている。
 まるで幻のような自身の影を、灯火は青い瞳で見つめていた。
 彼女の両手に抱かれているのは、古びた木箱である。この中には木箱と同じく古びた壺が入っていて、それは灯火の雇い主の望みの品でもあった。

 ふと、足を止める。
 黙って見つめる先にあるのは、古びたビルだった。裏側だからかもしれない――もう長いこと手入れがされていないようである。
 使われなくなったのは半年程前。元はデパートだった筈である。
 灯火は袖口からハンカチを出してアスファルトに敷き、その上に木箱を置いた。
「………………」
 ビルの壁を、指でなぞる。電灯の下で、ヌラヌラと光っている雨の粒を指でどかしていく――夜の空気を含んでいるせいか、コンクリートの壁と雨の組み合わせは、まるで粗目雪のようだ。
 沈黙を破ったのは、ビルだった。
『構わないでくれ。どうせもう、壊される』
「……――」
 灯火は眼を細め、わずかに首をかしげてみせた。話を聴こうという合図である。
 本当はビルに聞くまでもなく、灯火自身、このビルが取り壊されることは知っていた。雇い主から、ちらりとそのような話を聞いたのである。
 ビルを取り壊した後に出来るものは、やはりデパートだそうだ。古びた耐震性の低いこのビルで再び客を呼び戻そうとするよりは、いっそ壊して一から造りなおそうという考えなのだろう。
 けれども、ビルに“一から”はない。いくらこの後に出来るものがデパートであろうとも、ビルにすれば命を絶たれることに変わりはないのだ。
『自分が壊されて、そこに、また新たに自分と似たような建物が建てられるのだ』
 それはきっと、悲しいことだ。
「昔の……ことを……思い出しますか……?」
 夜に呑まれるようなか細い灯火の声に、ビルは『ああ』と答えた。
『思い出すさ。といっても、そんなに昔のことじゃない。私からすればだが。ところで君は――そう、こんな建物が人間の女性に憧れていたことを知れば、笑うかい? 私はあの頃のことをよく思い出すのだ』
 雨が喉を濡らしているような、湿った声で“彼”が問うてくる。
 灯火は静かに首を横に振った。手を伸ばして、ビルの壁に触る。
 むしろ、思い出を甦らせるつもりだった。

『あの日も、雨が降っていた』
 “彼”はゆっくりと想起する――“彼女がここへ来るときは、いつも雨が降っていた”。
 彼の身体はだんだんと濡れ始め、垂れ落ちた雨水がアスファルトの上に水溜りを作る。
「その方は……何処に……?」
『七階だよ。七階のレストランの……窓際…………ほぅら、あそこだ』
 暗い夜の中に佇む、真っ暗なビル。
 だが唯一、蜜柑色に照らし出された窓がある。そこに映っている細い影。あれがそうなのだと灯火は思う。
 ビルの言葉で表すなら、その女性は当時の流行とは無縁の清楚なブラウスを着て、わたあめのように柔らかな髪をおろしていた。長い足にハイヒールがよく似合った。
 どこからかオルゴールの旋律が聞こえてくる。ドビュッシーを知っているかい、とビルは訊いた。他に客がいないとき、彼女はオルゴールを流していたのだ。
 そして、牛乳をたっぷり入れたホットココア。
 ほらほらあそこだ、とビルの声にあわせて上を見れば、開いていない筈の窓から湯気が出ていた。夜の空気と戯れて、数秒程で消えていく。夜空には、湯気の白色がよく映えた。
 ――甘い匂いさえ、する。
 嗚呼。
 コンクリートの隙間から、ひどく捩じれた声がする。ビルは――彼は、泣いているのだ。
 貴方に会いたかった。最期に貴方に会いたいと願っていたのだ。
『貴方が来るのを待っていた』
 自分では捜していけないから、ここでずっと待っていた。
 震えた低い声で、ビルは喋り続けた。
 次第に灯火には聞き取れない言葉となり、ビルを濡らしていた雨粒も消えていった。
 灯火は喋れなくなったビルを見上げた。そこには影も、湯気もなかった。
 ――爪先程の明かりさえ、ないのだ。

 建物が壊される音というのは、とてつもなく五月蝿いものだ。
「本当に迷惑だな」
 そう言いながら急いで通り過ぎていく人もいる。
 夜になると、これほど寂しい場所はない。
 あっけない程に、何もないのだ。
「…………」
 灯火は眼を瞑った。眼前に広がる真の暗闇の中で、蜜柑色の明かりが灯った気がした。
 いや、灯らなかったかもしれない。次の瞬間には元の暗闇に戻っていたのだから。

 灯火はあてもなく彷徨い始める。

『貴方に会いたいと願っていた』
 壊される前、確かにビルはそう言っていた。
(そう、会いたいから)
 だから今宵も歩くのだ。
 数え切れない程の夜毎――繰り返してきたように。



終。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
佐野麻雪 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年02月07日

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