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『白い手 』
狩野・宴4648

「なんて冷たい手をしているんだ」
自分の頬に触れている、真っ白な手の温度に狩野宴は胸を絞られる。その手はとても小さく、指は細く爪は可愛らしい。顔を見なくても、手を見るだけで持ち主は絶世の美女であることが知れる。ただ、その手がひどく冷たいのだ。
「お嬢さん、私が温めてさしあげましょう」
そう言って、宴は自分の大きな手で白い手を包んでやろうとした。
 だが、そのときになって初めて、宴は自分の手が動かないことに気づいた。手だけではない、足も、首も、視線さえ白い手に据えられたままぴくりともしないのだ。力ずくで動かそうにも、どこに力を入れていいのかさえわからない。
 比喩的な意味ではなく、宴の体は石だった。真っ白な石像だった。
「一体、どういうことだろう」
心の中で宴は呟いた。普通の人間ならうろたえてしまうものだが、こんなときであっても宴は自分に起きていることを対岸の火事のように感じていた。
 自分が石像だとわかると、自分の頬に触れている白い手の持ち主もやはり石像だと知れた。よく見てみれば大理石の、滑らかな光沢が浮かんでいる。多分、彼女と宴とは二人で飾られるために作られた石像なのだ。そうでなければ、彼女の手が宴の頬に触れているわけがない。
「これはこれで、本望だね」
こんなに美しい手を持つ女性と一蓮托生ならば、石像の運命も悪くない。
 ただ、体がまったく動かないので酒を飲めないこと、これだけが残念でならなかった。自分の右手には相変わらずワイングラスを握っている感触があるのに、その器を唇まで運ぶことさえままならないのである。

 そこは、ある島の中にそびえたつ巨大な神殿の一室だった。真っ白な石だけを使い建設された、西洋の神々を祭る神殿。建物の中はいくつもの細かい部屋に分かれており、それぞれに神を模した石像が飾られている。
 入口を入ってすぐ右手には、太陽神の間があった。青年神が火の車に乗っている姿を、美しい彫刻で表現している。また、その隣には彼の双子の妹である月の女神が、凛々しい横顔で今にも狩りへ飛び出さんとしていた。足元をはねる兎さえ、実は生きているのではないかと触れてみたくなるほどリアルだった。
 もちろん、石像は躍動感溢れるものばかりではない。水仙へ身を変じる寸前の美少年が、泉に己の姿を映し見惚れている様もあったし、泡から生まれた麗しい女神が長い髪の毛を梳いている姿も並んでいた。三つ頭の犬を従えた冥界の王の冷徹な眼差しなど、石像とわかっていても身の奥を震わせる威圧感が込められている。
 宴と白い手の持ち主は、これらの石像に混じって神殿で何百年を過ごしていた。ひょっとすると宴以外の石像にも意識があり、なにごとか考えているのかもしれないけれど、石像には意思伝達の術がないので、彼らはみな孤独だった。
 宴の視界に入ってくるのは美しい白い手と、神殿へ礼拝に訪れる信心深い人間たちだけだった。人間たちは低い声音で石像を指さしながらあれはなんの神だ、なんの場面だと喋っていく。そんな他愛ない会話が身動きできない宴の慰めになるのだけれど、そんな人間たちも日が沈む頃にはいなくなってしまう。月に照らされながら宴は、ただじっと美しい白い手を見つめることしかできないのだった。
「死んだ人に愚痴は、よくないけどね」
宴たち石像を制作した石工は、すでにこの世の人ではない。けれど宴は、彼がもう少し自分の目線を上に彫ってくれればよかったのにと何度も考えてしまう。
 せめて白い手に頬擦りだけでもと試みるのだが、やはりそれもどこへ力を入れていいものかわからないので実現しなかった。白い手の中にはなにか握られているようなのに、そんなものも見えないのである。
「彼女はどんな顔をしているんだろう」
その日神殿に訪れた美しい娘の顔を白い手の持ち主に重ねあわせること、それがいつしか宴の日課になっていた。

 白い手を見つめたまま、さらに時は流れた。時間の経過によって宴は、今まで石でしかなかった自分の体の中に、わずかだが血の通っている感覚が芽生えていることに気づいた。体の芯がほのかに暖かく、その温度が感じられるのだ。まだ身動きはかなわないけれど、あと少し辛抱すれば視線くらい動かせるようになるのかもしれない。そうすれば、この白い手の持ち主を見つめられる。
 同様の兆候は、他の石像にも現れているようだった。人間たちのいない真夜中、神殿は静寂に包まれているはずなのに、時折どこかで石の砕けるような音が響いた。あれはきっと、誰かが自由になりたくてもがいている音なのだ。
 当時、人間たちの間では神殿がなにやら怪しいという噂が流れていた。
「神殿の石像が、知らない間に違うほうを向いているらしい」
「夜中に誰かが来て、動かしていくんだよ」
「いや、あれは石像自身が動いているんだ」
臆病な子供を泣かせるこの怪談話を宴が聞いたなら、どんなに励まされたことだろう。石像の中に自分の向きを変えられるほど力を持った者がいるのなら、宴もせめて顎くらい傾けられるはずである。
 しかし古来、人形の髪が伸びただの仏像が涙を流したなどと無機物が異変を示すのは不吉の兆候といわれている。神殿のそばに暮らす人間たちは、その真面目に伝説を信じていた。近いうちに必ず災いが起こると、土地を離れる者さえ少なくなかった。
「最近、あの女性を見ないな」
と、宴が気にした信心深い美女もまた、土地を離れた一人だった。美しい女性が減っていくことで、宴は前触れを感じ取っていた。
 それでも異変が全ての終わりであり、新たな始まりだということは、まだ宴にはわかっていなかった。

 人間たちを恐れさせた不吉の正体とは、大地震だった。ある日激しい縦揺れがニ、三度、続いて激しい平手打ちを食らわせるような横揺れが神殿と、人間の暮らす都市全体そして島全体を襲った。石造りの建物はことごとく柱にひびが入り、天井は割れ落ち、跡形もなく崩壊した。
 島の、高い崖近くに建てられていた神殿は最初の揺れで大きく海へ向かって傾いた。さらに横へ揺れたことで地すべりが起き、神殿は全ての石像をその体内に収めたまま、海中へ放り出された。とん、とん、どんと、矢継ぎ早に胸を突かれ弾き飛ばされたようであった。
 神殿の中にいた石像たち、勿論宴も含む、彼らには、一体なにが起きたのかわからなかった。なにしろ彼らは人間のように逃げ出すことはおろか、首を回して周囲の様子を窺うこともできないのだ。彼らにできることといえば、頭上から降ってくる神殿の破片が、己に当たらないよう祈ることだけだった。
 宴たちのいた部屋は、神殿の中でもかなり崖に近かったので、他の石像より早く海中へ落ちた。さらに宴よりも、白い手の彼女のほうが一瞬早く、海へ沈んでいった。宴の目の前を白い手がかすめ、落下していった。瞬間、宴は彼女の手の中にあったものが、愛を象徴するリンゴの実であったことを知った。
 咄嗟に白い手を掴もうと、宴は右腕を伸ばそうとしたのだが、大理石の手はワイングラスを握ったままどうにもならなかった。左腕も、ひざまずいた自分の膝に置かれたままだった。
「そんな・・・・・・!」
どうしてこの手が動かない、体が動かない、宴は悔やんだ。どうして自分は石像なのだろうか、もしも今自分が人間のように動けたなら、彼女を救えるはずなのに。
「人間のように、動ければ」
宴は強く念じた。心の奥のほうで、自分を固めていたなにかがぴしりと音を立て粉々に砕け散るのを感じた。

 そこで、宴は目が覚めた。瞼を開くのと、握っていたワインの瓶が左手から滑り落ちて床に赤い染みを作るのとは同時だった。焦茶色の長椅子の上で、宴は緩慢に身を起こす。
「・・・・・・あれ?」
今までずっと、夢を見ていた気がする。だが、起きてみるとその内容をすっかり忘れていた。なにか、ひどく辛い夢だった気がするのに、体の奥が痺れているだけで頭の中にはなにも残っていない。
「・・・・・・多分、また酒が切れたんだね」
眠っている最中に酒の酔いが切れると、宴は辛い夢を見るのだ。
 だから宴は、片時もワイングラスを手放すことができない。その手が握れなかったものを思い出すと、生きていられないほど辛いから、だから自然に夢の内容は、過去の記憶は忘れるという形で無意識に封じ込めてしまう。
「なんだか、今夜の酒はちょっと苦いね」
リンゴの酒なのにね、と宴は呟いた。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
明神公平 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年02月01日

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