▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『With All My Heart , Honey. 』
セレスティ・カーニンガム1883

 カチリ、と硬質な音が部屋に響く。
 セレスティ・カーニンガムは銀のティースプーンをソーサーの上に置くと、手を組み直しながらふうと一片を溜息をついた。
 年も明け、早一月が経とうとする冬の日の午後である。自室の窓辺に愛用の車椅子を寄せ、純白のクロスを敷いた丸テーブルの上にやはり気に入りのカップで紅茶を用意させたセレスティは、彼是数時間もの長い間物憂い表情で思案に暮れていた。
 多忙を極めるリンスター財閥総帥が斯くも悩ましげに柳眉をそばめているとは、果たして如何様の重大事か。肩書きのみでしか彼を知らぬ者が一見したならば、経済新聞と株式市場の速報を片手に上へ下への大騒ぎになることだろう。だが、例えばこの紅茶を供した者辺りが主人の様子をちらとでも見た場合、きっと一目で一切合財を承知し、壁に掛けられたカレンダーに視線を遣りながらこう呟きを漏らすに違いない。────ああそういえばもうすぐ恋人達の祝祭日ではないか、と。
 ふう。セレスティは再び(というか、既に両手でも数え切れない程の回数になっているのだが)憂いを帯びた吐息をはらりと零す。そして、ゆるゆると首を横に振ると。
「……困りましたねえ」
 それはそれは悲しそうに天井を仰ぎ、愛しい恋人の名をぽつりと呼んだ。

 陸に上がった美しき人魚が運命の人に出逢ったのは、その長き生に照らし合わせてみればほんの少しだけ前のこと。しかしそれより過ごした二人の日々は、セレスティの北海に似た心を根本から染め直すには十分すぎるほどの密度と、また清らかさで織り成されている。。
 彼女と巡り逢えてからこちら、恋人達が祝うべき華やかなイベントや密やかな秘め事を大事に重ね、身も心も蕩ける様な睦言を幾つも幾つも交わし合い。それはもう、世界中のどの恋人にだって負けないほど彼女を慈しみ、また彼女から愛されて。織り成したこの想い出は壁に掛けきれぬほどのタペストリー。だのに未だ、この恋は原初の熱と彩りを失うことがない。
 際限がないのだ。彼女に関することだけは。
 尽きないのだ。この心をきゅうと締め上げる甘い疼きは。

 長考により冷め切ってしまった紅茶が取り替えられる。香り立つ湯気のゆらりと弧を描く様を一瞥し、セレスティは窓の外、冬の青空を眺め遣った。どこまでも伸び上がるように広がるその蒼い光は、水底より波打つ天井を、その先にある天空を見上げていた太古を思い出させるようだ。
 あの頃自分は、果たしてどのように生きていたのだろう。セレスティはふと首を傾ぐ。忘れたわけではない、だが上手く思い出せない。いや、思い出そうとする意志がないだけか。どちらにしても今の自分にとっては不必要なものだろう。きっと今よりずっと、つまらない命で永らえていただけだから。

 独りでいた自分は、何もかもを手にしながらも、彼女を知らないでいた。
 二人で在れる自分は、何もかもを手にしたまま、彼女と手を取り合い指を絡めることが出来る。
 その、決定的な隔絶。

 彼女を思う故に生まれる一喜一憂と言う痛みは──例えば嫉妬とか期待とか寂しさとか愛しさというものは──宛ら薔薇色の棘を胸に受ける様なもの、それか紅茶に溶かした角砂糖の様なもの。それは進んで甘受したい傷であり、また愛に溺れた末の甘い悦びであり。
 知らなければ、心の水面が波立つこともなかった。だが、知らなければ心の水面が波立つことすらなかった。
 悦びも、痛みも。どちらももう、手放せない。あの紅玉の瞳が自分を見詰めてくれなくなるなんて、考えられない。
 あれは至上の宝石。宿る光は何時でも、喜びの楽しみの、そして幸福の色だけを帯びていれば良い。その為に自分は力を尽くすのだろうし────そして今、こうして頭を悩ませて考え倦ねているのではないか。
「……ですから、問題は、そこですよ」
 最初の問題に立ち戻ったセレスティは、自らに確認するように一句ずつ区切って言う。淹れ直された紅茶を一口含み、嚥下すると同時に重々しく自問した。
「早来月に迫った聖ヴァレンタインデイに、果たして、何を、贈るべきか」

 そう、今は睦月も下旬。祝いの日まで、あと、二週間ほど。
 昨年のその佳き日には、彼女の銀髪に似合うよう設えたピンクダイアモンドのアクセサリを捧げた。
 彼女は涙を流すほどに喜んでくれて(その涙のまた美しいこと!)、しかも手製のチョコレートを渡してくれた。
 その時の彼女の、恥らう表情、微笑を満開に咲かせた様。口許は薄紅色に彩られ目元は上品に赤味が差していて、そのほっそりとした指先を握り締め柔らかな頬にくちづけた。ただの記憶は思い出として昇華し、何時までもこの胸に煌く恒星として生まれ変わる。彼女との、忘れられない奇跡と成る。
 それが、ヴァレンタインデイなのだ。なのに、今年の贈り物が決まらない。
 ────実に、由々しき問題。

「……困りましたねえ」
 繰り返すのはそんな言葉ばかり。空となったカップを下げさせたセレスティは毛織の膝掛けを暖のためにと掛け直し、再度窓の外に視線を転じる。
 冬枯れを感じさせない、常に整えられた庭を一望する主の部屋の窓。その眺めからの連想のためであろうか。花は、と不意に言葉が口をつく。
「花は、当然ですからね」
 うん、と一つ力強く頷きながら掌をぽむと合わせ打つ。
 そもそもチョコレートを贈るのはこの国の風習であって、セレスティが元より備える考えでは男性が女性に花を贈るのが普通の行い。なので今年も彼女へはまず花を手渡そうと思う。昨年は赤き一輪の火だったが、今年は抱えきれぬ程の花束がいいだろう。いやそれか、愛らしい彼女に合わせた小振りのブーケ。それとも……。
「いえいえ、それは後回し。今は、その次なのです」
 脇道に逸れかけた思考を頭を振ることで矯正する。ぐぐっ、と眉間に力を入れると自然皺が深まった。
 セレスティが心尽くしの贈り物をするのは、ひとえにその人が自分の手によって喜ぶ様を見たいが為だ。
 手づから水を遣り育てた蕾が綻ぶ様に、自分の選りすぐった贈り物で相手が笑顔を花を咲かせる。その充足感はとろりとした上質の蜜の如く胸を満たしていき、セレスティの口許を甘く綻ばせる。近しい知人相手ですらそうだというのに、まして捧げる対象が最愛の彼女であったならば、そして彼女が自分の前で頬を薔薇色に染めてくれたとしたら。その幸福の程は、尚更のこと。
 だからこそ、セレスティは頭を悩ませる。いつの間にやら、堂々巡りのラビリンスの様相を呈すまでに。
 いけませんねえ。呟いたセレスティはまた嘆息を漏らし、ついでうーんと上目遣いで唸った。
「気分でも、変えてみましょうか」


 人を呼び、外套と杖を取らせたセレスティは、先ほど窓より望んだ庭へと降り立った。場所を変え、頭と思考を切り替えてみようというわけだ。
 不自由な歩みでベンチまで歩き、杖に凭れながらそこへと腰を下ろす。一年で最も寒い時期の風はセレスティの白磁の頬をちりちりと針で刺すかのような吹き方をするが、今はその刺激が何とは無く心地良い。うん……と上半身を空へ伸び上がらせる。まるで水面に揺れる銀色の月を水底から見上げて恋う魚の様に。
「………ん」
 不意にデジャビュ。上昇の浮遊感。上向きに突き抜けていく気流が、海底から巻き起こる潮の奔流の様に思えて。その幾筋もがセレスティの感覚を攫う。思わず、目を瞑った。

『セレ様っ!』

 と、不意に声が聞こえた。驚きに慌てて目を開き辺りを見回すが、当然人影などない自宅の庭。
 一瞬の黙考。つまり今のは、実際に鼓膜を震わせた音ではなかったらしく、どうやら募る愛しさが記憶の内より呼び寄せた甘い幻聴、だったらしい。
 何てことだろう。セレスティはさすがに苦笑する。
 自分はもう、そんなにも。
 けれど、そう。そうか、これが、恋なのか。
「……堪りませんね」
 くすり、と自嘲ではない笑みを漏らしたセレスティは蒼穹の青を瞼の裏に残しながら再び目を閉じる。そして問い返す。内より自分を呼ぶ、彼女の愛らしい微笑みに。

 ────何か私に御用ですか、愛しい人。
『はい。セレ様はぁ、どーしてそんなに、難しい困った顔をしてるんですか?』
 ────それはね、あなたへの贈り物を考えていたからですよ。迷って悩んで、いつの間にやら困り果てていました。
『そんなあ! あたしは、セレ様がくださるものなら、なーんだって嬉しいんだしぃ!』
 ────ええ、知っていますよ。優しいあなたは、そして私を心より好いてくださっているあなたは、きっとそう言ってくれるのでしょうね。
『はいっ!』
 ────衒いも計算も何も無く、真心を容易く両手で差し出してくれる。それはあなたにとっては息をするよりも簡単なことなのでしょうけれど、私にとっては息をするよりもずっと大切で有難いことなのです。

 美しいものに惹かれる本能をセレスティは否定しない。故に、自分に心奪われるもの達の激情を決して愚かだとは嘲笑わない。
 だがそれに、果たして自分の心が動いたことがあっただろうか。とてもとても目も眩むほどの長き命を生きてきてしまった自分の琴線を細く清らな指で弾いてくれたものなんて、寒くて眠れない夜の底で自分が凍えている時に大事に大事に暖かな羽毛で心ごと包んでくれたものなんて、いたのだろうか。少なくともこの記憶に、残ってくれただろうか。

 真実、恋を、したことなんて。
 ねえ愛しい人、あなた以外に、いたでしょうか?

「かけがえのない、という言葉を私が今まで使わなかったのは、あなたに巡り逢える時まで取って置きたかったからなのでしょうね。……いえ、どうかそう、信じさせてください」
 ゆっくりと双眸を開けていく。空は、世界はどこまでも美しい。そう思うのは、この世界が彼女を孕んでいるからだ。
 杖に置いていた手を握り、そして開く。この掌で沢山のものが掴める。そう思うのは、この手で彼女の為に成せることがあるからだ。
「あなたに、幸せを差し上げたいのです。そしてね、私のことを幸せにしてほしいのです。そういう我侭とも思える願いを、一つずつ、あなたと素敵な形で叶えていきたいのですよ」

 ────こんな男でもいいですか?
『あたし、セレ様のことが大好きですしぃ!』
 ────……ありがとう。

 ふう。セレスティはまた息を吐き出した。
 しかし、白く煙ってすぐ消えるその行く末を、見遣る瞳はいつの間にやら凪いで平穏と安息に満ち満ちている。
 結局のところ問題は解決せず、贈り物は決まらず終いとなったわけだが────しかし無理に、自分だけで迷うこともないのかもしれない。
「そうですね……花を贈る時に、彼女と共に選ぶのも良いのかもしれません。ええ、そうしましょうか」
 あなたと一緒に過ごせる時間が少しでも長くなるように、ね。
 頷いて、私も結構調子がいいですね、と一人笑いを零す様にまた微笑う。

 水を隔ててではなく直接見上げた空の光はやはり蒼。
 祝いの佳き日まであと少しと迫った、冬のある日のことだった。


 了

PCシチュエーションノベル(シングル) -
辻内弥里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年01月31日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.