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『空の青、月の碧、心の蒼 』
安藤・結世2773

 花を愛で月を愛で雲を愛で、そして歌を愛で舞を愛で。それらはつまりは全て人を愛でる人の心。古から雅な人達の交流の場であったそれらの風習は、形や目的を多少なりと変えはしたが、今の時代にも受け継がれているのだった。

 「ごきげんよう」
 「ごきげんよう、結世さま」
 にこやかな笑顔と共にやり取りされる優雅な挨拶、流れるようにしとやかな礼と洗練された物腰。それらは全て結世にとっては馴染み深いものばかりだ。そのどれでも、結世は完璧にこなす事が出来る。元々の資質もあっただろうが、それ以上に、期待に応えようと密かに努力をした結果だ。紛い物ではない、真の上流階級の娘としての立ち居振る舞い。そんな結世を、彼女の頭上にふんわりと浮き、そっと見詰める何かがあった。
 「ごきげんよう。本日は直々のお招き、誠に有り難う御座います。今宵の月はまた格別ですわね」
 「本当に。ですけれどもそんな月も、今宵の結世さんの前では霞んでしまうようですわね」
 結世が挨拶をしたのは、今夜の観月のパーティの主催者夫人だ。家柄だけ、財産だけ、そのどちらでもなく両方を兼ね揃えた、本当の上流階級の人間と言え、そのオーラは、容姿や物腰からも鋭く伝わって来ていた。そんな相手の前に立っても、結世は物怖じする事も無く堂々と、だが決してでしゃばる事はなく、穏やかに渡り合っている。

 そんな『自分』を身に付けたのは、いつの頃だっただろうか。

 主催者夫人の、結世を称える言葉の全てがありきたりの美辞麗句ではない事は、夫人の結世に寄せる感嘆の眼差しからも見て取れる。まだ届かぬ春の頼りを見据えてか、ふんわりと柔らかい桜色のワンピースに身を包んだ結世は、その賛辞に恥じぬだけのものを、確かに備えていた。男も女も関わらず、招待客の全てが、結世に羨望の眼差しを向けている。そんな視線の数々にも結世は驕る事無く、変わらぬ穏やかな対応を心掛けていた。
 ちゃんと出来てるわね、私。
 大丈夫大丈夫、と結世が心の中で微笑む。安藤家の娘として、特にこのパーティでは自分が安藤家の代表として招かれているから、たった一つのミス、ほんの一瞬の気の緩みも許されない。今のところは我ながら完璧だ。内心ほっとする結世を、その頭上から見下ろしている、何者かの視線。結世はその存在に気付いているのかいないのか、頭上に注意を払う事など全くなく、自分を取り巻く人達に向け、にこやかな笑顔を振りまいている。そんな結世の耳に、小さな声での会話が聞こえた。
 「最近、ますますそっくりになられましたわね?」
 「ええ、全く。目許など、お姉さんに良く似ていらっしゃるわ」
 それを聞いた瞬間、結世の中で、馴れた感情が沸き起こった。

 今の結世が偽りと言う訳ではない。無理をしている訳でもないし、逃げ出したい程厭な訳でもない。それでも、何かがどこか違うような気がする。それはきっと、未だに結世の心の中で大きく存在し続ける、今は亡き姉の所為だった。
 結世の姉は、妹の自分で言うのもなんだが、まさに完璧な淑女だった。何をやらせてもソツなくこなし、尚且つそのどれもが極めて自然体であった。姉のような人の事を、生まれながらのお嬢様、と言うのだろう。結世はずっとそう思ってきたし、その思いは今でも変わらない。姉亡き今、安藤家の娘と言う看板を背負っているのは私ただ一人。その為に一杯努力をしてきたし、周りの人達も結世を頼ってくれるようになった。人の役に立つ事は嬉しい。人から頼られ、その期待通りに振舞えた時も、舞い上がってしまう程嬉しい。その辺りの、人を惹き付ける魅力は、まさにあの姉と同じ血を引く妹なのかもしれないが、それでも自分の立ち居振る舞いは、姉に比べれば、どこか不自然なものを感じてしまうのだ。


 いつしか結世は人の輪の中から抜け、ひとりで屋敷のテラスに出た。まだ夜半の空気は冷たく、長い事そこに居ると風邪でも引きそうだったが、今は暖かな室温に火照った頬に冷えた風が心地良い。風に煽られる長い黒髪を指先で掻き分け、結世はふと視線を足元に落とす。そこには何故か、水仙の花の部分だけがころりと落ちていた。パーティ会場内に、水仙の生け花が飾ってあったのを思い出し、誰かが衣服の端にでも引っ掛け、そのままここまで持って来てしまったのだろう。結世は腰を屈めてしゃがみ込み、水仙の花を拾い上げる。それを手の平の上で何とはなしに転がしていると、結世の脳裏に、何かのワンシーンが色鮮やかに蘇った。

 はい。と少年が少女に向けて水仙の花を一輪、差し出す。それを暫し無言で見詰めていた少女だが、やがて恐る恐る手を伸ばしてそれを受け取ろうと…。

 その少女は、結世だ。年恰好からすると、十二、三歳ぐらいの時だろうか。そんな結世に花を手渡す少年、結世よりはひとつふたつ年長っぽいが、その顔に見覚えはない。
 周囲は、華やかな衣装に身を包んだ紳士淑女達、流れる音楽も何もかもが上質なものばかりで、ここは限られた人だけが訪れる事の出来る空間なのだとすぐに知れる。そんな中にあって一際人目を惹き、輝いている一点がある。そこに居るのは、結世と然程変わらぬような年の少女。だが、その威風堂々たる雰囲気と物腰に、大の大人達も圧倒されているようだ。嫣然たる微笑み、だが須く平等に感じさせる柔らかさ。結世の姉は、この頃から社交界の中心に、当たり前のように佇んでいたのであった。
 そんな姉を、結世は誇らしく思いつつも、どこかでは矢張りコンプレックスを感じていた。あの姉の妹で良かったと思う反面、どうしてあの人が自分の姉なのかと天を呪う時もあった。そして、そんな自分に自己嫌悪を感じ落ち込む。そうしているうちにも、姉の偉大さを感じざるを得ず、更にコンプレックスは深くなって…と、多感な時期の結世は悪循環の真っ只中にあったのだ。

 手の平に乗せた水仙の頭を眺めていると、その頃の自分の想いが、音を立てて蘇ってくる。それは甘いが苦く、どちらかと言うとあまりいい思い出ではない。姉の事は大好きだ、姉が今でも生き続けていてくれたならどんなに良いだろうとも思う。だが、その想いが強ければ強い程、姉に対する劣等感も強くなるのだ。結世は、そんな自分の浅ましい心に痛みにも似た感覚を覚え、そっと下唇を噛み締めた。

 そのパーティでも、結世は姉の存在感に打ちのめされ、居心地の悪さを覚えてそっと会場を抜け出した。人の視線の届かない片隅に身を潜めると、ようやく身体の輪郭がはっきりとしてくるような気がする。ちゃんと私、ここにいるかしら?と結世は両手で自分の顔を撫でてみる。すべらかな肌の感触にほっと吐息を漏らすと、背中のすぐ後ろでくすくすと笑う声がした。驚いた結世が慌てて振り向くと、そこには見た事のない少年がひとり立っていた。
 「どうしたの?そんなびっくりした顔をして」
 不思議そうにそう尋ねる少年に、あなたの存在に驚いたのよと切り返せる機転は、この時の結世にはなかった。ただ戸惑い、目を瞬かせて目の前の少年の顔を見る。そんな結世に、少年はなんの衒いもなくニコリと優しい笑みを浮かべた。
 それから二人は、パーティ会場の隅で並んで壁に凭れ、他愛もない話をした。少年の格好はちゃんとした礼装で、今から思えば、それはシンプルながら、良い生地で良い仕立て人の手により仕上げられた、かなり上質な服だった。それをさり気なく自然に着こなしていたあの少年も、上流階級の出なのかもしれない。その割には大変親しみ易い雰囲気を漂わせており、真っ直ぐ結世を見詰める澄んだその瞳には、草の根のような強くひたむきな意志が感じられた。
 何の話の展開だったかそれは忘れたが、会話を続けるうち、少年も結世の姉の事を良く知っていた。その瞬間、ああやっぱり、との思いが結世を包み込む。それは姉を誇らしく思うのと同時に、諦めと妬ましさがない交ぜになった複雑な感情だった。そんな結世の気持ちを知ってか知らずか、少年は結世の姉について喋り続ける。その話しに、笑顔で答えながらも、結世の心の中は、流れが淀んでいくようだった。

 そのまま何時間か経ち、少年は背を壁から剥がして結世に暇を告げる。頷く結世に少年が差し出したもの、それが水仙の花一輪だ。さっき活けてあるのを見つけて、あんまりにも綺麗だったからこっそり貰ってきた、と、はにかんだように微笑む少年に、結世はつい、『私でいいの?お姉さまじゃなくていいの?』と尋ねてしまう。さっき、目を輝かせて姉の事を尋ねる少年に、もしかしたらこの少年の真の目的は、自分を通じて姉と仲良くなる事なのではないか、とまで勘繰ってしまっていた。そんな自分に自己嫌悪を感じると同時に、もし少年の目的が本当にそれなのだったら、姉に引き合わせるなどして協力しようと考えたのだ。例え、少年の行動に裏があろうとも、何時間か、自分に付き合って楽しい思いをさせてくれた事には違いがなかったので、そのお礼のつもりだったのだ。
 だが、それに対する少年の返答は違っていた。首を横に振り、更に結世の方に水仙を突き出す。そして、笑顔と共にこう言ったのだ。
 「いいんだ。だって、君にあげたかったんだから」
 姉ではなく、結世に。結世だから、花を贈りたかった。少年の瞳が、そう語っていた。
 その瞬間、結世は思った。自分は自分のままで、このままの私でいいのだと。姉の真似をする必要も、姉の影に甘んじる必要もない。姉は確かに素晴らしい人で、それに自分は確かに敵わない。だが、それでもいいのだと。
 水仙の花一輪、受け取った結世の鼻腔に爽やかな香りが届く。それを胸一杯に吸い込むと、見上げた夜空の向こうに広がる、清々しい青空を垣間見たような気がした。


 結世が手の平に乗せた水仙に鼻を近づけると、弱くではあるが確かにその時と同じ香りがした。あの後も、姉へのコンプレックスに落ち込む夜もあったし、涙した日もあった。それでも今、こうしてやってこれるのも、あの時の少年の存在があったからだと、結世は思う。
 「…こんなの、おかしいかしら、ね…でも、私にとっては……」
 『王子様みたいだったの』と続けようとして、慌てて『支えなの』に言い換えた。誰も聞いていないことは分かっていたが、それでもそんな乙女な事を考えていたなんて他人に知られたら。そう思うと、顔から火が出そうだった。
 今でも、結世にとっては姉の存在は大きく圧し掛かり、影響を与え続けている。それでも結世は、姉になりたいとは思わない。例え姉になったとしても、それはただ単に姉の皮を被った結世であり、姉と同じ存在感を周囲に振り撒ける筈がない事など分かり切っている。結世にとって、姉は永遠の憧れであり、ライバルであり。それらの感情は姉の死に寄って、結世の中ではある意味神格化されており、以前よりも厄介なものになっている可能性があった。この複雑な感情はきっと一生続くのだろう、それでもいいと、結世は思う。
 手の平に乗せた、少し萎れた水仙の花をそのまま手の中に握り込み、結世はパーティの輪の中に戻っていく。あの時のあの少年、あなたは今頃どうしているの?どこにいますか?…また、会えますか……?
 彼に伝えたい言葉が一杯ある。今なら、それらを戸惑う事無く告げられる筈だ。そんな自分を想像すると、楽しさで足取りも軽くなるようだ。微笑む結世を上から見守る、何かの視線。それは、結世と同じ姿をしていた。

 姉への羨望と周囲の期待に応えようとする余り、結世が見失ってしまった本当の自分。いつしか、二人の結世が重なりひとつになる時も訪れるだろう。その時まで、もうひとりの結世は、自分自身を優しく見守り続けるのだ。


おわり。


☆ライターより
 このたびはシチュノベのご依頼、誠にありがとうございます!はじめまして、へっぽこライターの碧川桜でございます。お待たせ致しまして、申し訳ありませんでした(謝)
 台詞が殆ど無い結果となってしまい、結世嬢の品の良さ等を表現し切れなかったのではないかと戦々恐々としております(汗) なお、結世嬢のお姉さんの呼び方は、お嬢様と言う事で…と私が勝手に『お姉さま』だと想像してしまいました。ご了承くださいませ。ちなみに、『お姉様』ではなく『お姉さま』であるところに私なりの拘りが…(いりませんからッ)
 ではでは、今回はこの辺で。またお会いできる事を心からお祈りしています(平伏)
PCシチュエーションノベル(シングル) -
碧川桜 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年01月28日

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