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『東風待つ片空 』
丘星・斗子2726)&東雲・飛鳥(2736)


 見上げた空は遠い。
 雲ひとつの気配もない空の青に、漠然と、落ち着かぬ色を読み取りて、不安げな己の心持ちを確かめては、吐息を揺らす。堤を上がる短い石段を、一歩ずつ、強く踏み締めるようにして昇り乍ら、丘星斗子はまた視線を持ち上げた。一段上がるに連れて、堤の向こうに見ゆる景が露になってゆく。特別、其処に感動を伴うような景色が広がっているわけではない。今も斗子の澄んだ黒眸に、徐々にはっきりしてゆくのは、無機質なビルヂングの高きである。肩に掛けた鞄を負い直し、間もなく段を昇り切る。水の匂いがした。

 空を見ていた。
 葉のひとつも見えぬ枝先を通り越し、唯、川をゆく水流に沿って、色をなくした風の匂い。風は遮るもののないので、ひどくつまらなそうに高く茫々とした空へ駆けゆくばかりである。冬の色彩は乏しく、花を葉を奪われた木々の途方に暮れた、細々とした線の姿が、川沿いの道、ずっと続いている。等しく間を置いて植えられた幹から伸びる枝の不秩序だけが、整えられ過ぎた景色に抗うようでもある。
 歩く速さは常の半分ほどで。右手に深い色の川を見乍ら、東雲飛鳥は古い土瀝青の上を往く。小高い遊歩道はサイクリングコオスを兼ねていて、時折飛鳥の脇を自転車はスピードを緩めることもせず追い越してゆき、その度に、鮮やかな金糸の髪が目許にそよめく。
 歩は次第に更に速度を落とし重くなって、やがて止まる。この国の生まれにしては薄い蒼眸が、僅か下方へ向けられて、空の下、此方へ進み来るひとの姿を捉えていた。
 そしてまた、空を見た。

 目的の古書肆に、店主の姿はなかった。
 シャッターは上げられていたが、店の扉は締まっていて、普段は表に出されている棚も、店内の通路に押し込まれているのがガラス越しに見えた。眼を凝らしてみると、その奥の店主の定位置は、やはり空である。約束の時間は五分前。伝言を添えた貼り紙の類もないことから、すぐに戻るだろうと考えて、斗子は其処で店主を待つことにした。午后の白い陽光が、廂の向こうにぼんやりしている。店のガラス戸に背を預けて、道の左右を見渡した。人影はない。
 暫くそうしていたが、近くを通る車の音が途絶えたのを合図に、背を離す。映る景色は霞懸かるように惚けているのに、渡る風はちりりと冷ややかである。風の流れに逆らう気にはなれなかった。大学へ向かう道とは真逆へ。やがて道を折れて、路地に入る。風が強くなった。風に呼ばれた。

 約束と、告げた時間は疾うに過ぎている。
 直前に仕入れの電話があって、話し合いを持ちたい、すぐに此方へ来れないか、と懇意にしている協会の、同じく古書店を営む知人からだった。その時点で、既に約束の時間まで三十分を切っていた、断るべき電話だった。併し今こうして、時計が頭に浮かぶ時刻を半周ばかり通り越していると云うに、飛鳥は馴染んだ川沿いの道にゆうるり歩を遊ばせている。
 ――大学の図書館にも、置いていなくて。
 甘い風が飛鳥の耳許にそっと。胸裡に声。やわらかな、内面に熱を秘めた、想うひとの声音が去来する。
 ――他の大学の図書館で見付けたものの、貸出手続きに時間が掛かるようなんです。それに、今後も使えそうな資料ですし……何より気に入ってしまって。
 常はそう多くを表情では語らぬ女性だ。無表情とは違う。唇を結び、合わされば射られるような、深い黒の眸は、揺るぎなき色を湛えて。口数も、決して多い方ではないだろう。要点を明確に、順序立てて、すっきりとした話し方を得意とするように思える。澄み切った気を纏いて凜と咲き誇る――そのような。けれど飛鳥の裡に響く声が持つのは、折々に変化する豊かな、心地好き声である。彼女の外身は冬の、春隣の気配を伝えるが、裡より発せらるる声音は四季を想わせる。彼女の、斗子の最たる表情の移りを伝えるのはその声こそなのではと、感じるほどである。そうして、その移りをいつしか、愉しむようになっては、飛鳥は斗子に逢う度に、尚惹かれていった。……
(惹かれた――何に?)
 その声に。
 その髪に。その頸筋に。その肩に。その指先に。その眸に眼差しに。そのすべてを随わせる身の運びに。
(それから……)
 乾いた口縁を舐む。僅かに開いた口中には、ちらり覗く牙があった。
(その、魂こそに――?)

 彼は、飛鳥は遠目にもそれと分かる外見の持ち主である。日本の生まれ、とは聞いていたが、頸の後ろでひとつに結った長い金の髪も、穏やかな蒼眸も、彼に異国の血が流れていることを知らせていた。国際化の進んだこの地でも、未だ、それが古書肆を営む身と云うのも手伝ってか、やはり、目立つのだ。――今も。
 逢える、と分かっていたわけでも、見当がついていたわけでも、ない。唯、風に促されるように、水の匂いを追うように、道を進んで堤を上がった。そして開けた視界に、対岸に無機質な建造物を見て、川に視線添えて辿り、一番手前の、橋まで歩いてみようか、と唯足を止めたくないような心持ちに、此処まで来たのである。
 同じく堤の上道、此方へ来るひとりの、風の度に肩で金糸が舞うその姿。
 斗子の唇は顫えて、微かな吐息が洩れる。名を、紡いだのかもしれない。声にはならなかった。何と声を掛けたら良いのか、迷ったのである。否、云うべきことも訊くべきことも、分かっていた。その上で迷いがある。
 本日「しののめ書店」を訪ねたのは、いつもの、そういつもの通り、大学の講義のレジュメ作りに、必要な資料を頼んでおいたのを、受け取りにゆく約束をしていたのだ。書店の前で、店主を待ち乍ら、日時を間違えたかと手帳を確認したが、日にちにも時刻にも誤りはなかった。急用ができたのかもしれぬし、飛鳥の方で約束の日時を誤って憶えていた可能性もある。斗子の手帳のメモが違っていたのやもしれない。
 併し問題は、そこではなかった。それならば、このまま進みゆけば交わる互いの道、挨拶の言葉の後に、時間を誤ったか、と訊けば良い。だがやはり、そうではないのだ。
 不安なのだ、と斗子はまず思う。
 そして、何が不安なのか、と不思議に思う。今まで約束を違えたことが一度もなかったからか。それにしては不安が、動揺が過ぎるような気もする。胸騒ぎ。今までと違うことが、些細なことでも怖いと、そんな、理由のないものがずっと、斗子の身を包んで、呼吸をも、それと意識できるほどには、乱れた。
 風に黒髪がさっと拡がり、口許を撫でる。軽く耳に髪を掛け乍ら、いつの間にかまた沈んでいた眼に金色を追わせた。彼は道の中途立ち止まり、空を仰いでいた。空を見ているのか、或いはその手前、葉の落ち切った木々の枝を眺めているのかもしれない。釣られるように歩を止めて、斗子も同じ空を見上げた。互いの距離は、並ぶ木の間ひとつ分。節の多い枝々に、細かく区分された向こうには、果ての知れぬ遠い蒼天が澄ましている。

「――こんにちは」
 常と変わらぬ飛鳥の声が、斗子に届く。
 斗子は咄嗟に同じ言葉を返して、そこで漸く、ふたりの視線は交わった。徒風横方に、飛鳥の目許、眼差しをちらちら蔽いもする。空色より透明な、と思うていた蒼眸が閃いて、見知らぬもののような深さを映していた。
 続く言葉は、暫くなかった。沈黙は場を占めず、それぞれ口を開かずとも、風に、近い人の気配。静寂には遠い場処。それに、斗子はどこかで安堵している。
「……今日も、黒なんですね」
 次の言葉も飛鳥の方からだった。
 意が知れず、斗子が頸を傾けると、飛鳥は微笑を布いて「服」と言い添えた。斗子は常に、黒色の衣を纏う。今日も、ロングスカートの上に羽織ったコート、いずれも、完全な黒と云えないまでも、やはりそれに近い暗い色合いで纏められていた。それを指摘されて、そういえば、服のことを話したことはないのだと、斗子は思い乍ら、とりあえずは「おかしいですか?」とできるだけ自然に問い返す。
「いいえ。――あなたによく似合う色だと、思っていました」
 日頃から、何でもないような顔をして、この男はこうして斗子を……驚かせる。そして、斗子の余り大きくは表情を違えぬ面に、ふっと過ぎるその動きを、見逃すまいとするように、失礼にならぬ程度に、斗子を見詰めているのだった。今も、何と応えて良いか困惑した様子の斗子を窺うと、数歩の離れを縮めて、斗子の肩に手を遣る。コートの釦に絡んだ黒髪が、はらりと解ける。それもすぐに風が二度肩口へ運んだ。
「東雲さん?」
 戸惑いの声。表情は、硬質ささえ覗く整いだが、飛鳥が思うように、声はずっと素直に飛鳥へ返ってくる。
「今日は、すみませんでした。直前に、急な呼び出しがあって」
「あ……いいんです。私の方こそ、いつも無理なお願いをしてしまっていますし。――約束の期日、間違えたのかと思って心配していました」
 そう言って、斗子はやっと、普段の飛鳥へ接するのと同じに、口許に微笑を含ませた。
「ご依頼の本は、店の方に届いています。この後予定がなければ――取りに来ますか?」
「はい。今日中に、参照したいとも、思っていましたし。宜しくお願いします」
 飛鳥はもう一度詫びの言葉を口にして、踵をめぐらした斗子と連れ立ち、古書肆への道を戻ることにする。春の遠き、冷た風、斗子の髪に戯れ戯れ。さすがに、些か煩わしく思ったのであろう。斗子は髪を押さえて。
「……纏めてくれば、良かったわ」呟き。
「お貸ししましょうか?」
 これ、と飛鳥は己の頸裏で結んだ髪を指す。斗子は「いいえ」と遠慮して、川風に乱された髪を、後ろへ払った。刹那露になる頸筋は、寒気に晒されたせいであろうか、白さ益したように見える。ふと、斗子と飛鳥の視線が搗ち合う。
 その時に、飛鳥は斗子の咽喉に、己が本性の囁きを聞いた気がする。
 その時に、斗子は飛鳥の眼差しに、先程の閃きに似た、違う色合いと共に、またあの不安が過ぎったような心地がした。

「さっき、何を見ていらしたんですか?」
「え?」
「上を、見て。空ですか?」
「ああ。――空ではなくて、木の方です。枝を。前に、一緒に見たでしょう。一本だけ、狂い咲きの花があったと。あれはどの木だったかを、探していたんです」
「見付かりましたか?」
「――いいえ」

 折しも一際強く吹き来たる。
 風に迷いが生じている。


 <了>
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
香方瑛里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年01月27日

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