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『朧月の夜 』
ラクス・コスミオン1963




 酷く冷えた夜だった。深夜の帳が下りたその街は、しかし、活気に満ちて、ネオンの光が絶える事はない。
 穏やかな朧月が掲げられた空から、ちらりちらりと姿を見せる淡雪は、街を行く人々のマフラーやコートの前を合わせさせるのに十分なもの。
 吐き出した白い息が、歩調に合わせて背後に消えてゆく。
 新春の為に硬い新芽を宿した街路樹の間から、薄い曇天が見えた。
 それだけみると、街は普段どおりの姿だ。ただ、その当たり前な景色の中に、紫に近い艶やかな赤色が、独自の歩調でもって揺れている。
 強靭な獅子の体躯。その背から雅な曲線で描かれる鷲の翼。胸元は豊満な女性の体つきで、そのどこか艶めかしい姿を清廉潔白に見せるのは、彼女の瞳。母なるナイルの鮮やかな緑色をはめ込んだ双眸は、理知的で穏やかだ。
 知識の番人を異名とするアンドロスフィンクス。それが、彼女、ラクス・コスミオンを示す上で最も簡単な言葉となる。
 活動的な深夜の街並みを、ラクスは散策中であった。特に目的があるわけでもなく、ふらふらと歩き回っていたのだ。市場調査、というよりは『人間』を観察する事が目的だ。
 哺乳類ヒト科の人間と呼ばれる生き物は、本来夜行性ではない。有史以前から夜目の利かない種族として、暗闇を天敵とすえていた。
 しかし、この街では固体によって夜行性に変じたりもする。当然、種族としての柵を越えるわけだから、無理が生じる。進化と呼べるものでもなく、生態系からみると、酷く歪なものに映る。
 その『人間』という生き物が、ラクスは嫌いではなかった。
 街にはとかく年若い生態が多い。生誕より二十年前後が、最も体力的に充実しているからだろうか。
 そんな想いを抱きながら歩んでいたラクスは、ふと、足を止めた。
 ―――助けて……っ!
 酷く切実な声が、聞こえた気がしたのだ。辺りを一通り見てみるが、争いごとに気配はなく誰かが暗い路地で追い詰められている雰囲気もない。
 気のせいだったか、とラクスが思いかけたその時。
「あれ、危ないんじゃない?」
 隣の男女の連れ合いが、そう囁いた。二人の視線の先は片道三車線の道路にかけられた歩道橋だった。車の流れを第一に考えるその道路設備は、体力のないものにはあまり好評ではない。では、何故作るのか。ラクスの疑問の一つでもある。それはさておき、歩道橋の中ほどに、少女がいた。
 ざんばらに切り捨てられた黒髪。どこか汚れた感のあるホワイト・ジーンズに、紺色のコートを羽織っている。日本人特有の茶色と黒の色彩を持つ瞳は、真っ直ぐ眼下を見詰めていた。
 そして、躊躇いなど欠片もなく、自然な動作で手すりに足をかける。
 頬を斬るような冷たい風に眉をしかめる事もせず。
 少女は翼のない体を、重力の干渉に任せた。
「危ない!」
「自殺!?」
「きゃぁあぁぁぁぁぁっ!!」
 本人よりも、周りのほうが騒がしいが、それを背にラクスは地を蹴っていた。羽ばたいた翼で街路樹を引っ掛けたが、そんな事はお構いなく。
 あの声が、少女の悲鳴に聞こえたから。
 ラクスは、故意に手折られようとした花を、助ける選択を選んだ。









「どうして、自殺を?」
 穏やかに尋ねたラクスに、しかし、少女は目を向けない。
 ラクスは、大通りの歩道橋から身を投げた少女を空中で救い上げると、そのまま騒ぎが大きくなる前に姿を消した。人通りが少ない深夜の公園で、ようやく事情を聞ける体制になった。
「もう、生きていても仕方がないから」
 少女の返答は簡潔なもの。だが、死を覚悟させるには足るもの。
「どうして、そう?」
 問わねば何も語ろうとしない少女の瞳を覗き込み、ラクスは戦慄する。少女には、生きようとする意志がまるでないようだった。絶望のその先に、たどり着いてしまったような、抑揚のない声。涙すら涸れてしまった、悲しい瞳。
「誰も、信じられないから」
 悲しい言葉を、そうと知らずに呟く少女は、ラクスにはあまりに痛々しい。鷲の翼を広げて、その庇護下に少女を置いた。淡雪と朧月の光から突如遮られた少女は、はっと顔を上げた。その頬を深夜の寒風から守るように、ラクスは優しく微笑む。
「あなたは、だれ?」
 ようやく最もな質問が出たが、ラクスはそれに答える事はできなかった。
 少女に触れて、因果の縁を探ってみているのだ。世界のどこかに少女を待っていたり、呼ぶ声があれば直ぐに解るはずだ。普通は、それがあまりに煩い為にあまり探るような真似はしないのだが。どうしようもなく淋しそうな少女の姿に、救いを与える事が出来れば言いと思ってした行動だった。が、結果に彼女は落胆する。
「だれも、探していないのですね」
 どこか呆然としたラクスの言葉に、少女は直ぐ自分のことだと解ったらしい。
「探す人なんて、いるわけない」
 言い切った。
 双眸は揺れる事をせず、何度となくその結論を自分に言い聞かせてきたのだと容易に想像できる。
 泣く事すらやめて、絶望に抗う事もせず、少女は死を選んだ。全てを、終らせる選択を。
 自殺の方法が回りに迷惑をかける方法なのは、少女なりの小さな復讐なのかもしれなかった。少女を必要としない、必要とされない少女を生み出した、社会への。
 この少女は、行く場所も帰る場所もない。もし今ここで少女が通り魔に殺されたとしても、泣く人間すらいないのだ。
 それは途方もなく悲しい事に感じられた。
 そして。
 途方もなく開放的にも感じられた。
 何の柵もないその命は、自由極まりない。
 どくん、とラクスの心臓が音を立てる。自身の想像に緊張したのだ。この少女は、とてもきれいな瞳をしている。無垢で、無欲で、無気力な。
 そんな瞳が、知識への欲求がないラクスとは正反対の瞳が。
 必要と、される場所もある。
「もう、死んでしまおうかと思っていたに。どうして助けたりしたの」
 詰問のように淡々と尋ねてくる少女に、ラクスは花が咲いたような笑みを向けた。
 場違いなその笑みに見せられるようにして、目を見開いた少女に。
「どうせ死ぬなら、その命、ラクスの実験材料にしてくださいませんか?」
 ラクスは期待を込めた眼差しで問うた。
 良識のある人間であれば、「生きていたらいい事もある」といって諭したり、「甘えるな! お前より不幸な人間なんて幾らでもいる」と激昂したりする場面である。しかし、ラクスはそんな事は考えない。
 この世界に不要な身なら、自分が貰い受けても何の不自由もない。
 思った事はその一点。
「実験材料?」
 聞きなれない言葉に少女が首を傾げた。ラクスは言いくるめるように言葉を選んだ。
「この社会とは関係ない世界に、必要とされる場所があったとしたら?」
 無気力な瞳に、微かに光が灯った。
「死ぬより辛い苦痛を与えられても構わないと仰るなら、存在意義を作ってあげます」
 人道も道徳も、法律も教義も、全てが関係なかった。
 ただ、そこにある現実だけが全て。
 躊躇いもせずに、少女は頷く。
「この命が、少しでも役に立つのなら」
 ラクスは微笑んだ。
「はい。ただ死ぬより、ずっと有意義だと思います」









 大家に見つからないようにそっと少女を部屋に連れ込む事は、意外と簡単だった。今回も実験施設の整った自室を使う事にしたのだが、如何せん時間は深夜。そろそろ明け方に向かう、最も冷える時間だ。そんな時間に、少女を連れ込む場面は、極力見られないほうが良い。
 ラクスの部屋をどこか興味深そうに観察する少女を、全裸になって水槽に身を沈めるように促した。前の実験で使ったどでかい水槽がそのままになっていたので、実に都合が良かった。酸素吸入できる特殊な水溶液で満たされたその水槽は、ラクスのイメージを補助する。魔術自体を伝わりやすくしている為、生命体製作にはもってこいだ。世界に二つとない、彼女のオリジナルである。
「うん」
 全裸になるように促され、挙句水に沈めといわれたにもかかわらず、少女の瞳はどこか投げやりだった。そのまま窒息死するのも悪くない、とその表情に書いてある。
 すとん、とコートが足元に落ちた。それに続いて少女が纏っていた衣服は全て床に落ち、白いすべらかな肢体をさらけ出す。
「この傷は、困る?」
 少女は、腹部に手をやる。良く見れば全身に打撲の後があり、腹部には特に大きな痣が出来ていた。もしかしたら、内蔵を傷めているかもしれない。
「大丈夫ですよ。今の肉体は全て作り変えますから。関係ありません」
 問題ないだろうと結論を下すラクスに、少女が始めて小さく笑った。
「あなたは、だれ?」
 もう一度、小さく問われる。ラクスは笑って。
「ラクス・コスミオン。しがないスフィンクスです」
 そう名乗ったラクスの名前を、刻み付けるようにして覚えたようだった。体のどこも隠さずに、少女は躊躇いなく水槽に身を沈める。息が出来る事が、不思議そうな表情をしていた。
「では、はじめましょうか」
 意気揚々と腕まくりまでしそうな雰囲気で。
 ラクスは少女が沈んだ水槽に手を突いた。
 『図書館』は、知識の番人たるスフィンクスが主に守っているが、世界中から集められた希少な宝物を収める棟もある。そこにはグリフォンが配置される。常に宝物を守護し、図書館という場所に興味を覚えない者。つまり、知識欲がない事が前提であるグリフォンは、近年不足しがちだ。その話を思い出したため、ラクスは少女を誘ったのだ。
 その話を聞いていなかったとしても、実験に誘ったのは間違いないが。
 今回は大義名分があるため、データの記録も堂々と行う。
「相当な苦痛を伴います。よろしいですか?」
 最後の確認を、行った。
 少女は、間髪いれずに頷く。酷く、真摯な瞳で。
 不要とされた自分を、必要としてくれと。それは、人間のありようにも似て。
「では、はじめます」
 ラクスは、穏やかな緑の双眸を閉ざし、宣言した。

 鷲の上半身、獅子の下半身をもち、尾は蛇であるというグリフォン。伝説の獣。それはスフィンクスも同じであり、キメラと呼ばれる合成獣の一種だ。鷲は空を飛ぶ生き物であり、獅子は大地を踏みしめる生き物、更に、蛇は哺乳類ですらない。その違いは生活環境から体を維持する為の食料、睡眠時間や方法、繁殖方法まで。何もかもが違う。そんな生き物を無理矢理一まとめにしようというのだから無茶な話だ。
 その存在すら無茶だというのに、ラクスはそれを、人間から作ろうというのだ。無論、生物が構成される原子はそう違わないので、不可能とはいえない。しかし、限りなく不可能に近い。材料として鷲、ライオン、蛇を用意できれば、一概に不可能とはいいきれないかもしれない。
 が、不可能をするからこそ錬金術。まるで違う物質であるFe(鉄)からAu(金)を作ろうというのが源流であるからこそ「金を練る術」と呼ばれるのである。これこそ無茶な話だ。
 そして、ラクスはその錬金術を極めつつある稀な術者であった。スフィンクスとしての長寿の賜物である知識、そして強い魔術。何よりその貪欲なまでな向上心が、彼女に無茶を可能と変えさせるのだ。
 今回とて、例外ではない。
 長い理論武装を纏い、ラクスはゆっくりと呼吸を繰り返す。
 図書館であった事のあるグリフォンを仔細に思い描いた。陽光を穏やかに受け止めるこげ茶色の羽毛。それが、腰の辺りからラクスと同じ獅子の毛皮に入れ替わる。鋭い嘴に使命感を宿す黒い瞳。二本だけでどんな強風にも飛ばされないように体を固定できる、鷲の足が前足で、鋭い爪が備わっている。地面を蹴り疾駆する後ろ足は、獅子のもの。十分に強大であるその体を、宙に浮かせる力強い翼。
 その姿に、本日であった少女の姿を重ねた。生きていても仕方がないと、そう呟いた少女。悲しみの瞳で、絶望すら超えてしまった声を紡ぐ。
 悲しかった。
 閉じた瞳から一筋、涙が伝う。
 そんな生き方は、あまりに悲しい。
 羨ましかった。
 口の端に小さく笑みを刻んで。
 何者にも縛られることのない、自由。
 その魂に、力強いグリフォンの肢体は良く似合う。

 目を、開いた。
 少女の分子を解体していく。手足の指の先から、少しずつ。唖然としていた少女が、慌てて手の指を握ったり開いたりしてみる。その表情に驚愕が閃いた。
 ―――イヤ……っ!!
 本能からの叫びだった。水溶液と分厚い強化ガラスを隔てていても、その声は届く。けれど、ラクスは止めない。
 一度全てを分解し、再構築しなければ完全にグリフォンに作り変える事が出来ないのだ。内蔵や、血管の張り巡らし方すら違うのだから。
 少女の姿を記憶に刻み付けるようにしてみながら、ラクスは解体を進めた。
 少女の魂が耐えられるかどうか。
 全てはそれにかかっている。






 自分が溶けて行くようだった。この摩訶不思議な水溶液に。
 合ったはずの指先を動かそうとすると、喪失感が激痛となって前身を走る。その痛みにすくんだ体が、更に溶けて行く。
 ―――イヤ……っ!!
 咄嗟に叫んだ言葉は、声にすらならず。
 一筋だけ涙を流した、ラクスと名乗った女性を見た。決意に満ちた表情。存在意義を作ってくれるとい言った、真摯な瞳で。
 初めから彼女は言っていた。死ぬよりも辛い苦痛を与える事になると。承諾したのは、少女自信。
 歯を食いしばった。
 負けてたまるか、と思って。
 やがて、融解が全てを包んでしまっても。
 不思議と、想いだけは消えなかった。
 両親が死んだ。
 どうしようもない人間だったと、想う。母は身を売って生きていて、父は借金の取立てで憂さを晴らしていた。家には酒瓶とクスリの臭いが立ち込めて。高架下のいつもじめついた路地で、何度も泣いた。
 その両親が死んで、叔父に引き取られた。役立たずと、何度も酷い暴行を受けて。
 殺されそうになって逃げた。
 それが、今朝のこと。
 蹂躙されつくした体で、生きていく事があまりに苦痛だった。
 終らせようとして、そして、出会った。
 傷だらけの体が必要ないと想っていたら、作り変えてしまうから問題ないと言われて。
 初めて、笑えた。
 自分を哀れんでいるのかと想っていれば、その知的な緑の瞳に宿るのは、純粋な好奇心。自分の実力を試してみたいと、純然たる知識欲。
 ラクスには、少女が必要で。そして、ある意味終らせてくれる。そう想ったら酷く安堵した。
 だから、この苦痛は耐えられる。
 ただ、そこにあるから蹂躙されるわけではない。ラクスは、ほかでもない少女自身を必要とする。だから、耐えてみせる。
 いつの間にか、また、視界が広がっていた。
 痛みに硬直していた体からは、不思議な違和感。途端に別の思考が入り込んできた。
 ―――護らなければ
 何からか、と問うと、全てから、と返事。
 何故か、と問うと、必要だから、と返事。
 何の事かまるで解らず、なのに、心のどこかが納得している。
 けれど、納得しきれない思考が悲鳴を上げた。
 途端に、全身が軋む。
 特に、胸の下辺りから、引きちぎられるような激痛が襲う。
 歯を食いしばり、耐えようとして。
 それでも、全身が悲鳴を上げた。




「拒否反応ですか」
 冷淡なまでに冷静に呟き、ラクスは更に精神への干渉を始めた。異能適性がない場合、肉体と精神が両方崩れる場合さえある。今回はその上、無理に別々のパーツを作って組み合わせた形になる。それらの融合が危ぶまれ、相当な激痛が走るはずだ。
 それでも、まだ、少女は耐えていた。
 黒い瞳は、まだ、諦めていない。
 全身を捩り、痛みから逃れようとする。少女の体には広かった水槽も、グリフォンには狭かった。まだ一度も空を跳んだことのない翼をばたつかせ、しきりに頭をガラスに打ち付ける。蛇の尾が悲鳴を上げた。
「もう少し……」
 ラクスはまだ少女の精神に干渉する。異物を、異能を拒絶しようとする通常の神経を、書き換えていく。無理矢理。
 その拒否反応で、少女が悲鳴を上げた。ラクスは黒瞳を見やる。まだ、諦めていない。
 ならば、
「まだ……」
 拒否反応を示し、尚且つ乗り越えようとする強い精神。強固な魂。これは早々あるものではない。その上、たとえ失敗したとしても社会に損害はない。
 素晴しい実験材料だと、ラクスは想わずにはいられない。
 多分に、少女の激痛は続いているだろう。
 痛みに悶え、体を水槽に打ち付けて精神の崩壊に抗うその姿は何故かとても。
 美しく、神聖に見えた。
 しらずに、ラクスは笑みを漏らす。
「綺麗です……」
 恍惚とすら見える笑みで、彼女は更に少女の精神を上書きしていく。より、都合よく。
 より、合理的に。
 けれど、少女の強い魂だけは傷つけないように。
 ひときわ大きな痙攣を終えた後、グリフォンの体は動かなくなった。息絶えたわけではないことは、ラクスには伝わっている。
 少女は勝利した。
 少女の魂は、拒絶反応を乗り越え、肉体も精神も崩壊する事無く、生まれ変わる事に成功したのだ。
 それは、勝利と呼ぶに相応しい。
 魔力を使い切ったラクスは、水槽の前に崩れ落ちる。魂練成ではなかったが、それでも拒絶反応が出た為に、余計に精神も魔力も消費したのだ。だが、その面持ちは晴れ晴れとしている。
 やり遂げたという達成感が、ラクスに充実感を与えた。
 やがて立ち上がる事が出来るようになってから、少女だったグリフォンを、水槽から引き上げる。宝物守護者として戦闘を生業とするグリフォンは、案外重い。何より、大きな物音を立てて家主を起こすのも不味い。
 ラクスは細心の注意を払い、結構な労力を使って、少女を自身の寝台へと運んだのだった。最後の魔力で水分を取り除き、大気中でも呼吸が可能なようにしてから、その隣で毛布を被って丸くなったラクスは、すぐさま眠りに落ちた。
 もう、夜は白んでいる。
 深夜のあの冷たい風は、ここには吹き込んでこなかった。
 朧月だけが、見ている。












 図書館に連絡すると、非常に助かるという感謝の言葉と、直ぐにでも引き取りに行くという旨が伝えられた。少女は、この社会から消える事になる。本人に尋ねると、
「何を今更な事を。私自身が、この生を望んだのです」
 そう、反してきた。ラクスはしらずに微笑み、そうですか、とだけ答えた。
 一度は死を選んだ少女が、生を望む。それは、とても素晴しい事に思える。
 それを、現実逃避と罵る者もあるだろう。けれどそれは、何もしらない外部者の無責任な言葉であって、彼女等には関係なかった。
 やがて迎えが来て、少女は旅立つ事になった。スフィンクスと同じく、グリフォンも長命だ。行く場所もラクスの良く知る図書館で、別に永遠の別れというわけではない。
 それでもラクスは、目尻に涙が浮かんだ事を自覚した。
「体調に気をつけてください。もし、何か異変があれば、直ぐに連絡してくださいね」
 ラクスの言葉は、微かな不安と、それから絶対的な自負。どこか不調があるかもしれないというものと、何があっても、自分が何とかできるという。
 その言葉に、少女は黒い瞳だけで笑って。
「はい」
 そう、答えた。
 そして、真摯な瞳でラクスを見詰める。
「お願いが、ございます」
「なんでしょうか? ラクスに出来ることだといいのですが」
「あなた様にしか、出来ないのです」
 首を傾げたラクスに、少女は凛と言った。
「名を、頂けないでしょうか」
 スフィンクスとして精神を上書きされ、大分精神年齢が上っている少女は、まさしく生まれ変わったと行って過言ではない。だからその言葉は、不自然ではなかった。
「この世界で不要だった名ではなく、あなた様に必要とされた者として、名が欲しいのです」
 名は体を現す。
 重大なものだ。おいそれと、つけれるものではない。けれど、少女の覚悟と、その想いと。
 何より、ラクスからの祝福を込めて。
「では―――」
 春の訪れを感じさせる、陽光の下、まだ冷たい風に乗せて。
 ラクスは、その言葉を贈った。






END
PCシチュエーションノベル(シングル) -
泉河沙奈 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年01月24日

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