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『Stay-at-home 』
藍原・和馬1533


 藍原和馬にとっては当たり前の1日が終わろうとしていた。
 クリスマスに思いがけずもらってしまった鈍色のマフラーに顔を埋めて、膨れた買い物袋を抱え、軽快な足取りで久しぶりの我が家に到着。
 ねぐらとしか言いようのない自分の部屋までカツカツと鉄の階段をのぼっていけば、足元が妙に明るい。
 日は暮れてもまだ夕方と呼べる時間帯。いつもなら薄暗い中を突き進まねばならないのだがどうしたのだろう。
 顔を上げて、ああなるほどと理解するのに掛かった時間は僅か数秒。普段は真夜中近くまで不在の隣人が既に帰宅しているらしい。部屋から洩れてくる明かりが暗い通路を照らしてくれている。
 隣に住んでるのってどんなヤツだっけ。
 思い出そうとしてもいまいち微妙な付き合いしかしていない和馬の頭には、これっぽっちも相手の顔が浮かんでこない。
 きっと向こうが男だからだろう。
 女だったらまず間違いなく覚えている。
 そして、忘れるということはさほど重要な情報ではないということだ。
 そういうことにしておこう。
「う〜さびぃ……」
 早々に思考を切り替えて、冷えきったアパートのドアに鍵を差し入れた。


 マフラーをクローゼットの特等席に片付けて、テーブルに置いていたバイト先のあまりモノ――大量の肉じゃがを適当に皿に移し、今度はシンクタンクでひとり分の米を研ぐ。
 冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをさっと入れてさっと捨てる。それから米を砕かないようにグルグルと掻き混ぜて、水を入れ変えたらまた掻き混ぜる。
 この間料理番組で説明していたことを思い出しながら、和馬は慣れた手つきで夕食の準備を進めていく。
 いつか翠の目の彼女にもこの腕前を披露したいところだが、それ以上に手料理を作ってもらえる幸せを噛み締めたいのも事実だ。
 レパートリーを増やすたびに呼んでもらえたらもっといい。
 なんならレシピを入手する手伝いをしてもいい。
 リクエストに応えてもらえるなら、こちらで材料一式を調達したっていい。
 手掛けたバイトには野菜の卸売りも入っている。折角だからそこで食材を買い込もうか。それを手土産にして………
「うわ〜いいニオイしてますねぇ」
「―――っ!?」
 楽しい空想に耽る和馬の背後から、唐突ににょっきりと顔が生えてきた。
「あ、肉じゃがじゃん。いいねいいね。コレってもしかして駅前のデパートに入ってるヤツじゃないっすか?あ、ほら、やっぱり。肉がそぼろ状態で美味そうなんですよねぇ。うわ〜」
 圧し掛かるような態勢で(重さはまるで感じない)、勝手に人様の夕食のおかずへ手を伸ばして物色し始めた不法侵入者に対し、和馬はうっかり怒るタイミングを逸してなすがままだ。
「あんまりにも美味しそうでついうっかり釣られちゃいましたよ。いやぁ、部屋から出られないと思ってたのに、あっさりあっさり」
 あっはっはと屈託なく笑う青年を、肩越しにひたすらマジマジと見つめる。
「…………お前……」
 年は二十歳程度。このノリと服装からして間違いなく学生だろう。
 そして、この顔。
 どこかで見たような気がする。
 どこだっけ。
 残念ながら男に関する記憶容量は限りなくゼロに近い。それでも懸命に思い出そうとして、コレと似たようなことをついさっき考えていたことに気付く。
「…………あ、お前もしかして」
 隣のヤツか?
 そう問いかけた和馬に、青年はにこ〜っと笑って元気に頷いた。
「大当たり〜!どんどんどんぱふぱふ!さっすがお兄さん!気付いてもらえて嬉しいよ。僕が見込んだ肉じゃがを選ぶだけはあるね」
「大当たりしてもそんな褒め言葉じゃ全然有難みがねえんだけど」
「いやいやいや」
「いやいやいや、じゃねぇって」
 米研ぎ最中でなければ確実に裏拳でツッコミを入れている。
 結局米を炊飯器にセットして、肉じゃがをラップしてレンジへ入れて、ついでに味噌汁も作って。あまりものの惣菜はまだ山ほどある。それら全部を皿にあける。
 その間ずっと、まるでカルガモの親子のごとく和馬の背後にピッタリくっついて青年はひたすら喋り倒した。
 大学のこと。
 バイトのこと。
 最近はまったネットゲームのこと。
 そして、好きな食べ物のこと。
 和馬がこの肉じゃがの店で店頭販売を請け負っていたと聞けば、羨望の眼差しまで向けてきた。
 そこから、いかに自分が肉じゃがを愛しているかの語りが展開される。立て板に水。さすに圧倒される勢いだ。
 これほど陽気で騒々しくて馴れ馴れしいのにはあまりお目にかかったことがない。
 だがまあ、これも何かの縁だろう。たまにはこういうのも悪くない。
 そんな結論に達した和馬は、食器棚から小鉢や茶碗代わりのどんぶりなどを2人分ずつ取り出して、彼を振り返る。
「飯、食ってくか?」
「マジで?」
「マジで」
「僕、食えんの?」
「食わせてやるって言ってるだろ?」
「んじゃ遠慮なくごちになりま〜す」
「おう。しっかり味わってくれ」
「どもども。お兄さん、マジでいいヤツだね」
「はいはい、そいつはどうも。じゃあ、そこ座れ」
「は〜い。って、うわ、これもしかして手作りクッション?彼女?ね、彼女?」
「ああ、もう、落ち着きねえな」
「落ち着いてるって。大丈夫大丈夫」
 白米と味噌汁、温めた肉じゃがをふたつ分テーブルに並べると、赤と緑を張り合わせた2色のクッションを物珍しげにいじくりまわす青年からさりげなく奪い返す。
「おお!すげえですね〜」
「食え。とっとと」
 さっきまで顔さえ思い出せなかった隣人と食卓を囲む不可思議な光景。
 それでも思ったより悪くない。
 出来れば女性の方が有難かったのだが、万が一にもあの彼女にばれたら決まりが悪い。いや、妬いてもらえる訳がないのだが。
 他愛のないやり取りは皿がきれいにカラとなるまで延々続いた。
「ごっそさま〜」
 青年はぱちんと両手を合わせて、満足げに終了を告げた。
「御粗末さまでした」
「いやぁ、幸せな時間を過ごしちゃいました」
「どうも……で、何でそんな姿になっちまったんだ?」
 自分も箸を置くと、改めて和馬は彼の顔をまともに見つめる。
「え?」
「いや。だからなんで幽霊になっちまったんだって聞いてるんだが」
「あ、やっぱ分かるものなんだ?」
「分からないわけねえだろ」
 だから、どこから入ってきたとは聞かなかったのだ。いつのまに、とも。それでも一応聞いておくべきことは聞いておこう。そう思った。それだけだ。
 ただ何となく、あの翠の瞳の相棒ならこういう困ってるヤツをほっとけないんじゃないかなとか、そんなことを考えてしまったのも事実である。
「ソレが丁度2日前にうっかりぽっくり死んじゃって……でも、なんでこんな姿になってんのか自分でも分からないんですねぇ」
 いやぁ、お恥ずかしいと、頭をかしかし掻いて照れ笑いを浮かべている。
 あっけらかんとしていながらもふと過ぎる淋しげな影に、溜息をつくしかなかった。
「で、どうして俺にトコに?」
 何となく理由は分かる。
「どう頑張っても部屋から出られなくて、真っ暗で、もうもう呆然としちゃってたんだけど、なんかお兄さんが帰ってきた途端に世界がぱぁっと明るくなってさ。ついでにすごくいい匂いがして」
 気付いたらこの部屋にいたと言う。
「ホント、マジで途方に暮れちゃって」
 これでもかと言わんばかりの勢いで、気安くヒトの背中をばしばし叩く。
 瞬間。和馬の頭の中に『イメージ』が閃いた。
 彼の記憶。
 彼の死の瞬間の記憶。
 助けを求める微かな声。
 最近自分は随分お人よしになったんじゃないか、とひとりごちつつ、和馬は青年の目をまっすぐに見つめ直す。
「逃げんなよ」
「お?お?なに?」
「いいからちょっと黙ってろよ。サービスしてやるから」
 ゆっくりと深呼吸をして、チカラを指先に収束させて彼に手を伸ばす。
 ぶぅうんと鈍い羽音を発しながら僅かに燐光を纏った手が青年の額につぷりと差し込まれる。
 目を閉じて、もう一度深呼吸。
 魂に問いかける。
 彼の記憶。
 生命の糸が途切れたその記憶に、文字通り手を触れる。

 自分とまったく同じ間取り。煌々と明かりのついた部屋。騒がしいバラエティ番組。小さなテーブルの脇に積まれた参考書。整理整頓が苦手なのか雑多なもので散らかっている。
 そこに彼がいた。
 締め切り間近のレポートに頭を悩ませながら、現実逃避にテレビを眺める。
 なんの変哲もない日常の光景。
 けれど彼の時間は唐突に塞き止められる。
 短い呻き。
 目を見開き、胸を掻き掴み、そのまま机代わりのテーブルに突っ伏した。
 それきり、彼は動かない。
 レポートの心配ももうしなくていいのだ。
 永久に。
 魂の抜けた身体は暖かな部屋の中で2日を過ごす。
 
「………心臓麻痺ってトコか」
 正確には心筋梗塞とか呼ばれるものだろう。突然死としてよく聞く症例だ。
「そっか。あっけなかったなぁ、僕の人生……まぁだ21年しか生きてねえってのにさ」
 そう言う割りに、彼の顔には困惑めいたものがほとんど見当たらない。
「でもお兄さんに会えて良かったよ。ホント、誰にも気付いてもらえねえし、マジで困ってたからさ」
 もしも誰かが傍にいれば……いや、傍にいなくても、もっと早くに誰かが異変に気付いたものがいたら、彼はこんな姿にならなかったかもしれない。
「お前さ」
 誰か電話をくれる奴はいなかったのか。
 そんな問いを投げ掛けようとして、やめた。
「なんすか?」
 彼の淋しそうな顔が、指先から伝わる記憶が、寸でのところでその言葉を押し止めたのだ。
 携帯電話とネット、端末で繋がるコミュニケーション。学校の中だけの付き合い。予定調和で交わされる会話。浅く広く出来る限りの距離を取って、誰にも自分のテリトリーに踏み込ませない。
 ソレが今の人間たちの付き合い方だ。
 彼には学校を数日休んでしまった自分に電話を掛けてきてくれる親しい人間は居なかったのだ。
 知っている。
 この感覚を自分は少なからず理解できる気がした。
 彼女に出会わなければ、彼女と関わらなければ、彼女に惹かれなければ、多分似たような末路が自分にも待っている。
「暗い顔しないでよ、お兄さん。なっちゃったモンは仕方ないって。未練がないっちゃウソになるけどね」
 へらへらと彼は笑っている。ほんの僅か顔を覗かせた孤独も、今はすっかりなりを潜めていた。諦めていると言うよりも、本当に自身の生死に頓着していないような執着のなさが気に掛かる。
 だが、それすらも現代(いま)を生きる人間特有のものだとすれば、それはもう自分にどうこう出来るレベルじゃない。
「さてと。じゃあ、そろそろ管理人に話しつけてくっか」
「あれ、お兄さんが来てくれるんじゃないの?」
「あのなぁ……一応、コレでも俺は善良な一般市民で通してるんだよ。幽霊に頼まれました〜なんつう言い訳が通用するわけねえだろ」
「そういうもん?」
「そういうもん」
「そっか。じゃあ頼んだ!」
「おうよ」
 対応としては随分悠長だったかもしれない。
 それでも出来るだけ急いで、和馬は管理人に電話をした。
 隣から変な匂いがするとか、隣の様子がおかしい気がするとか、とにかくそれっぽいことを言うために。
 不審がる相手を説き伏せて何とか無事に電話を置くと、大役を終えたように彼を振り返る。
「すぐに来るってさ」
「ん、有難う」
「おい」
 最後の最後でお兄さんみたいな人と話せて良かったと、そんな呟きを残して、21才の幽霊はいともあっさりと空間に融けて消えた。
 もうこの部屋には自分以外誰もいない。
 彼の気配はどこにもない。
 隣の部屋に戻ったわけでもないと言うことは、たぶん、成仏してしまったんだろう。
「ま、こんな日もあるか……」
 どうせなら皿洗いくらい手伝わせてからにすれば良かったと呟きつつ、和馬は食器を流しに下ろす。
 明日は久々の休みだ。
 今夜は思う存分ネットの世界で冒険を繰り広げよう。ついでに明日、彼女と、もしいるなら彼女の家の居候を誘ってドライブに行くのも悪くない。あの緑の少年は持ち主以上にストレートな感情をぶつけてきてくれるから気持ちがいい。
 いつもと変わらない夜が戻ってきた部屋で、和馬はアレコレと楽しい計画を立てながら、相棒の待つネットの海に旅立つ準備を開始した。




END
PCシチュエーションノベル(シングル) -
高槻ひかる クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年01月19日

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