『残された刻限 』

ジュダ（2086）

　異変は、突然だった。
　遭遇した魔物の鉤爪が身体に掠る事など無かった筈なのに、不意に喉元にこみ上げてきたものを耐え切れず吐き出すと、一瞬目の前が真赤に染まり。
　それと同時に激しい目眩を感じて立ち続ける事も叶わないまま、よろめいた先には地面が無かった。
　鉄の味が口の中いっぱいに広がり、そして――

　――待っている。
　手の中にある『宝』を、大事な人たちに手渡したくて。
　この空中庭園は随分高いところにあるから、耳元で鳴る風の音が凄い。
　とはいえ、それすら気にならない程、気分は高揚している。心音だけで風の音を掻き消してしまう位だ。
　受け取ってくれるだろうか…いや、大事にしてくれるだろうか。
　喜んでくれるだろうか。
　…ルベリア。
　想いを乗せる花…それを凝縮し、結晶化させるのにどれだけ苦労したのか、語っても多分相手は笑うだけだろう。このペンダントの元になった、真っ白い花のように。…自分はその笑顔を見たくて、何日も徹夜してまで作り上げたのだけれど。
　だから、待っている。あの笑顔を見たくて。声を聞きたくて。そわそわしている間にも、口元が緩むのを押えられないけれど、そんな事構わない。
　約束の時間まで、あと――――――

「気分はどう？」

　ひなたのにおい。
　干したシーツのにおい。
　…甘い、ミルクのにおい。

　目覚めた時、目の前に居た女性からは、そんな匂いがした。

*****

「…ここは」
「エルザードの一角にある孤児院です。あなたがあそこで何をしていたのかは分からないけれど、もう大丈夫ですよ」
　落ち着いた物腰の女性は、そう言って微笑んできた。…いまいち、状況が良く分からない。軽い怪我をして、手当てを受けたらしいと言う事は、身体を見ればよく分かるのだが。
　ゆっくりと身を起こすと、切っていたのか口の中が血の味でいっぱいになる。
「気がついたようで良かったわ。最初…倒れているのを見た時には――いえ、そんな事はどうでもいいですね。どうぞ、落ち着きますよ」
　暖かいお湯に、ごく薄くハチミツを落とした飲み物を手渡され、それをゆっくり、ゆっくりと喉に流し込む。
　そうしているうちに、男――ジュダは、静かに目の前の女性から自分の今の状況を確認していた。
　彼女によれば、ジュダはエルザードに程近い河原に引っかかっていたらしい。川に魚を取りに来ていた子供たちが見つけ、彼女たち――この孤児院を経営している女性たちが、ここまで運んで来たのだと言う。
　それで、ようやく自分が山へ行った際、足を踏み外して落ちたのだと言う事が分かった。
「…世話になった。では、これで」
　自分が着ていた筈の軍服は脱がされ、少し離れた位置に畳まれており、首から下げている２つのペンダントをちらと確認すると、ベッドから降りようとし――だが、その両肩がぐいと掴まれ、強引にベッドへと戻されてしまう。
「どこへ行くつもりですか？その身体で」
　見れば、穏やかな表情をしていた女性が険しく目を吊り上げてジュダを見詰めていた。
「…いや…身体はもう、大丈夫…」
「いけません。まだ休まなければ」
　油断して落ちたくらいで、ジュダの身体に深刻な怪我は無いし異常も見当たらない。それなのに、どうしてこうまで押しとどめようとするのかが分からなかった。だが、その女性の迫力に押されて、無言のままベッドへと戻っていく。
「そう、いい子ですね。…あなたの名は？家はどこにありますか？」
　ジュダよりは見た目年上だろうが、子ども扱いするような年に見えないその女性。ほんの一瞬何とも言えない表情を浮かべかけたジュダが、相手に分からないよう小さく息を付いて、
「…名は、ジュダと言う。…家も、家族も、無い。だからあまり気にしないで欲しい」
　待つものも、守る者も、いないのだから、と続けるジュダ。
「そう――それなら、もう少しゆっくりと養生してもらいましょうか」
　だが、期待に反して、戻ってきた答えは、その女性の母性愛溢れる笑顔だった。

*****

「せんせいー、ほら、木の実がこんなに」
「あらあ、凄いわねぇ。それじゃあ、後でこの木の実を使っておやつを作りましょうね」
「うんっ」
　孤児院は、１０人程の子供と、様々な事情で孤児院を訪れた女性たちによって運営されていた。そして今日は、小春日和だった事もあり、子供たち全員と大人数人で森へと遊びに繰り出していた。…何故か誘われたジュダも。
　小さな子供は相手と絡み合って遊び、少し大きな子供たちは年少の子らを見ながら、のんびりと暖かな日差しを浴びている。
　その様子を少し離れた位置から見ているジュダの目に、在りし日の思い出が浮かぶ。
　空中庭園で自分をも含めて遊び戯れる子供の事を。大きな目を輝かせながら、ジュダに様々な事を訊ね、笑い、駆け回る小さな姿を――あの幸せはもう手に入る事が無いと嘆いた、再び目覚める事の無い眠りに付いた子供の横たわった姿を。
「………すから、それは…」
「……んたがうんといえば済む事…」
　きゅっ、と自分の服の裾を急に引張られて、ジュダが顔を上げた。見れば、いつの間に来たのか、女性たちの周りに数人の柄の悪い男たちが立ち、見下ろしている。
「…せんせい」
　ジュダの裾に隠れ、不安故か服を掴んで向こうを見ている子供の頭に、ジュダがぽん、と軽く手を置いた。他の子供たちももう遊んでいる者はおらず、皆どこか硬い表情で男たちを見詰めている。
「必ず出て行ってもらうからな。大人しくしてるうちに言う事を聞いておいた方が身の為だぜ」
　女子供ばかりと思っていたその場にジュダが居た事に気付いたか、ほんの少しだけ言葉を緩め、男たちがジュダを一瞥するとにやりと笑ってその場を立ち去って行った。
「せんせい、だいじょうぶー？」
　わらわらと駆け寄る子供たちに、ええ、と力なく笑う女性。
「さあ、今日はこの辺にして帰りましょう。戻ったら、暖かいおやつが待っていますよ」
「わあい」
　お互いがお互いを思いやり、相手に心配をかけまいと笑顔になりながら。
　…それでも、不安が彼女たちに重く圧し掛かっているのが良く分かった。

*****

「この辺り一帯を歓楽街にしてしまおうと言う計画があるらしいんです。それで、この建物が邪魔らしくて…。そんな事を言われても、この土地は代々のものですし、子供たちにも良い環境ですから…。――あ、こんな事、お客様に言う事じゃありませんでしたね」
　夕食を過ごし、子供たちが寝入ってから、ぽつぽつとそんな事を話す女性。
「買収と言っても、ほとんど只同然で追い出されてしまうだけですし…私たちにもっと力があれば、あんな人たちに大きな顔をさせないんですけど」
　普段、こうした相談をする相手がいなかったせいもあるのだろう。何人かが顔を見合わせながらジュダへとそんな事を言うのを、ジュダは黙ったまま聞いていた。
　――自分に何が出来る訳でもない事を、何よりも彼自身が良く知っていたから。
　彼女たちにしてみても、何を期待していた訳ではない。ただ、こうして聞いてもらえるだけでもストレスの解消になったらしく、最後には少し笑みを浮かべつつ、各々の寝室へと消えて行った。

　――それから暫く経った、真夜中の事。
　ことり、と言う音にゆっくりと目を開いたジュダが、闇の中煌くナイフの一振りをあっさりと交わして逆に得物を奪い取り、後ろ手に取った腕をぎりぎりと締め上げつつひたりとナイフを首筋に当てる。
「…何の用だ」
「な、なんだ、貴様…寝てたんじゃねえのか」
「……用は何かと、聞いている」
　すっ、とナイフが一筋の線を描き、筆でさっと刷いたような血の線が浮かび上がった。
「邪魔する奴を始末して来いって言われたんだよ！ここの女どもも一緒に、貴様もだ。丁度犯人役も現れた事だし、な！」
　言いざま、ジュダの手を離そうとして、逆に完全に囚われた男が組み敷かれ、シーツで拘束してから部屋を飛び出した途端、
「きゃああああああっっっ！？！？」
　激しい悲鳴が、外から飛び込んで来た。
「……」
　無言のまま、女性たちの寝室へ飛び込み、真赤に染まった各々のベッドとそこに黙ったまま横たわる彼女らを見つけ、その怜悧な表情にほんの僅か殺気のようなものを迸らせると、そのまま外へと飛び出した。
「あっ、出て来たぞ！」
　足元に転がるのは、目を覚ましたジュダに声をかけた年長の女性。手に消えた灯りを持っている所を見ると、置きだし、外に出たところを襲われたのだろう。悲鳴は彼女を見つけた近所の女性だったらしい。
　そして――
「お、お前がこの人を手にかけたのか！？」
　血塗れになってぴくりとも動かないその女性と、奪ったナイフもそのままに外へ飛び出して来たジュダとをひとつに繋げたのだろう、怒りに任せて飛び出して来た１人の刃物が、ジュダの腹に勢い良く突き刺さった。

　――その、途端。

　周囲が…建物が、ぱあああっ、と一瞬輝きを見せ、

「あ…あれ？え？」
　眩しさにぱちぱちと瞬いた男が、刺した筈の男が消えている事、めり込んだ刃物に血が付いていないことに驚いて頓狂な声をあげ、周囲をきょろきょろと見回す。
「お、おい、見ろ」
　倒れていた彼女に駆け寄っていた男が、その光を浴びてから急に微かな鼓動を感じ、そしてまた小さく呼吸を繰り返し始めるに至って、慌てて抱き起こして中へ運び込む。
「おいっっ！！誰か手伝ってくれ、それと新しいシーツ、出来れば寝巻きも大量に！彼女たち、全員が同じ状態だ！」
　ほどなくして、そんな叫びと共に、血塗れのベッドを見たせいか青ざめた男が外へ飛び出して来た。
「怪我は！？切られてたんでしょ！？」
「そ、それが…見あたらないんだ、服は切れてる、血も出てる、でも――塞がってる」
　ざわざわ、と近所に集まって来た人々が話し出す。話題になるのは、あの、ジュダが刺された瞬間、辺りに満ち溢れた輝きの事。
「――おい…こいつが、縛られてたぞ」
　やがて、良くこの建物に来ては彼女たちを脅かしていた男たちの１人が、ジュダが居た部屋から連れ出され、事の次第が明らかになるにつれ、
「あれは、奇跡だった。彼女はどう見ても死んでいたんだから」
　まだ意識は戻らないものの、緩やかに呼吸を繰り返す彼女たちのベッドを整え、血塗れの寝具を洗いなおすために外へどんどんと持ち出しながら、そんな会話がひそやかに流れて行った。
「お、俺…間違って、あのひとを、刺してしまったのに」
　ジュダへ刃物を突きつけた事自体が間違いだったと知った男は、それでもどういう技を使ってか彼女たちに命を吹き込んだジュダを、神の化身と信じて疑わず、その奇跡を守るためにとジュダを刺した事の償いにその後孤児院で働くこととなったが、それは余談である。

*****

「…奪うのか？」
　彼女たちから、家を。子供たちから、あの場所を。
「…なんだ、お前？」
　突然この場に現れた男、ジュダに怪訝な表情を浮かべながらも、咄嗟に近くにあった武器を構えつつ立ち上がる男たち。
「…彼女たちから、あの家を奪うのか、と聞いている」
「っ、お、おい、兄貴、あいつあの孤児院に居た変な奴じゃ」
「んだと」
　あの場の状況を見れば、誰もが見ず知らずのこの青年に疑いをかけるだろう。街の警備兵にでも捕まれば上々、そうでなくともあの近辺の者たちに疑われれば、自分たちにまで探索の手が伸びる筈もない、そう思った仕掛けだったのだが、この男はあっさりとあの場から逃げ出し、その上自分たちの住み処まで突き止めて来たらしい。
「――人殺し野郎が何の用だ？ここで妙な真似しやがったら、あの家の女を殺したのはお前だって警備兵に突き出してやるぞ」
「……」
　ジュダはまるで聞いていないかのような涼しい顔をし、ちらと数を確かめるように男たちそれぞれに視線を注ぐ。
　その、何を考えているのか分からない様子に少し腰が引けながらも、
「もう逃げる気力もねえってのか？さっさと逃げりゃ、命だけは助かったかもしれなかったのによ」
　その手に短剣を握り締め、じりじりと近寄って行く。
「…いのち、か」
　ぼそりと呟いたのもつかの間、
「……やはり…おまえたちは、奪う者のようだ」
　見る者を飲み込んでしまいそうな深い色の瞳が、男たちを射た。
「彼女らには…あの場所しか無いと言うのに」
「ああ？そんなもの、関係ねえよ。あそこにいつまでも居るのが悪いんだろ？」
　立ち退きを要求していた彼らは、彼女たちがあの場所から次の場所へ簡単に移動出来ない事も知っていた筈だ。だが、だからといって手加減するつもりははじめから無い。寧ろ、孤児院の子供たちすら巻き添えにしても問題は無いと考えていた節がある。現に、他に身寄りの無い子らを守る立場にある彼女をあっさりと手に掛けたのだから。
「……そうか」
　男たちの答えは、ジュダの予想の範疇を越える事は無かったらしい。
　ごく静かな声――それが、男たちの聞く最後の音となった。

*****

「あっ、せんせい起きたよ」
「おはよー」
「だいじょぶ？」
「いたいの、なくなった？」
　深いまどろみから目覚めてみれば、ベッドに鈴なりに子供たちが集まっていた。その心配そうな目に微笑んで、
「大丈夫よ」
　そう言いながら、手前の子の頭をゆっくりと撫でる。
「心配かけてごめんね」
「ううん」
　ぷるぷると首を振るのは、比較的年上の少年たち。
「せんせいは大丈夫だから、って教えてくれた人がいたから、心配してなかったよ」
「そうなの？…その人は？」
　顔を見合わせる子供たち、そして、皆一様に首を振った。
「いなくなっちゃったの。まだ寝てなきゃ駄目って言ったのに」
「そう…」
　子供たちの言葉からして、瀕死の状態に見えたあの男のことだろう、と思い浮かべる。どこか超然としていながら、今にも消えてしまいそうに見えた男の事を。
「他の人たちも大丈夫？」
「うん、みんな寝てるけどへいき。あ、あのね、今日はあたしたちでごはんつくったの」
　だからゆっくり寝ていて、そう言われて起き上がろうとした身体を戻され、ゆっくりと苦笑を浮かべた。
　――昨夜。
　確かに、誰かに刺され意識が飛んだ後、何かが身体の中に入って来る感覚をずっと感じていた。
　それが何なのかは分からないが、その事を思い浮かべる度に甦るのは、倒れていたジュダを見つけた瞬間の事。まるで彼が今回の事と繋がっているように、…確証は無かったけれど、そう感じる心は、嘘ではないと思う。

　不思議な事に、あれから立ち退き要求の男たちが現れる事は無くなった。不安はまだ残っているが、噂に聞いた所では彼らはこの辺り一帯を縄張りにしていた男もろとも、一夜にして消えてしまったと言う話で…それを信じれば、今しばらくは彼らに怯える事も無さそうだった。
　尤も、居なくなった彼らの代わりがまたいつ現れないとも限らないが…それでも、今育ってくれているこの子たちが大きくなるまで問題が起きなければ、それで良いとも思う。
　ジュダと名乗ったあの男は、一体何者だったのだろうか。あまり人と馴れ合うような様子は見せず、どこか儚げに見えた彼は…。
「――また、来てくれると良いのだけれど」
　家も無く、家族もいないと言い切ったジュダの、仮の宿にでもなれればと。
　…今も無事であれば良いと、祈りに近い思いを抱きながら、子供たちが運んで来た食事の匂いに頬を綻ばせた。

*****

「………」
　身体の芯まで凍えそうな寒風に身体を竦ませる事無く、男は路地にもたれかかっている。
　軍服は落ちた時の衝撃でか、あちこちに破れや裂けた跡があったが、それらは彼女たちがやってくれていたのか、綺麗に繕われている。それを肩から羽織ったまま。
　その手には、２つのペンダントがあった。
「……」
　震える手で、２つのうちひとつを手に取り、長い時間をかけてゆっくりと口付ける。その後で目を閉じて額へ押し当てた。
　――２つのペンダント…その石が、ジュダの何かに呼応するかのようにゆっくりと淡い光を放ち始める。
　その輝きは、緩やかな点滅を繰り返し――不意に、ぱぁっ、と闇色の光に取って代わり、そして唐突に消えた。

　それは――何かを暗示し。

　ジュダは、もたれかかったそのまま、身動き一つせずにいた。
　まるで、何かを待ち望むように。


-END-

PCシチュエーションノベル（シングル）

間垣久実

聖獣界ソーン

2005年01月05日