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『魔法の書 -Your Eyes Only- 』
セレスティ・カーニンガム1883)&モーリス・ラジアル(2318)&マリオン・バーガンディ(4164)


 書物の価値は一言では語れない。
 色褪せた頁の中で語られるものは壮大な物語のみに非ず。時には謎めいた暗号を、黄金の分割を、人類の命題を――数千年の時を経たあらゆる叡智が、そこには結集している。
 書物そのものが億単位の価値を有している場合もあるだろう。初版本や限定本、激動の時代を生き抜いた禁忌の書など、真に価値ある書物は、宝物と等しく高額で取引される。
 セレスティ・カーニンガムが手に入れたのは、そういった稀覯本の一冊だった。
 書架にただ並べておくだけでは勿体無い、一つの芸術作品とも呼ぶべき美しい本である。表紙には何かの術を思わせる精緻な文様が描かれ、その上に金箔が押されている。取り立てて関心のない者が見ても惹きつけられるであろうその本には、まるで魔法がかけられているようだった。
 案外本当に、魔法使いの術が込められているかもしれませんね、とセレスティ・カーニンガムは思う。数あるオークションの品の中から彼に見出された時点で、既に一種の奇跡が働いているとも言える。
 そんな稀覯本を手に屋敷の居室を訪れたのが、師走にしては珍しく麗らかなある午後のこと。これまた珍しく一緒にいる部下のモーリス・ラジアルとマリオン・ガーガンディに、
「修繕をお願いしますね」
 と、セレスティは問題の稀覯本を手渡した。
「わぁ、素晴らしい本ですね。どこで手に入れたんですか?」
 真っ先に反応を示したのは、三時のおやつと称してベルギー王室御用達のチョコレートを食していたマリオンだった。自分のおやつと、モーリスの飲みかけの珈琲を断り無しにテーブルの上から退避させて、マリオンは古い書物を受け取る。
「まだ飲みかけなのですがね」
 腕を組んで、モーリスは不機嫌そうに緑色の瞳を細めた。一見人当たりは良さそうだが、冷たい目つきに本来の突き放した性格が滲み出ている。
「貴重な本なんですから。液体は禁止です!」
 マリオンはモーリスの態度に物怖じするでもなく、唇を尖らせて彼を睨み返した。さすがは元学芸員だけあって、美術品や古い書物の扱いには厳しいようだ。
「貴重かどうかは内容を読んでからでないとわからないと思いますが……、実際、価値のある書物なんですか?」
 モーリスは彼らの横に立っている主に訊ねる。セレスティは、ええ、と頷いた。「歴史のある本ですよ。この傷み具合が長い年月を物語っているでしょう?」
「そのまま読むには、いささか……」モーリスはマリオンの手から本を取り上げた。「心許ないですね」
「ああっ、駄目ですよ、雑に扱っちゃ! 頁が抜けてしまいます!」
 床に落としでもしたらばらばらになってしまいそうだ。
「そんなわけですので、修繕をお願いできますか?」
 セレスティは微笑を零しつつ、穏やかな調子で二人に問う。
「では私の能力で手っ取り早く直してしまいましょうか」
 宣言すると、モーリスは右手を翳した。
 彼の能力、すなわちあらゆるものを本来あるべき姿に戻す調和の能力だ。彼が軽く手を触れさえすれば、数十年、あるいは数百年前の美しい姿を、その書物は取り戻すことができる。
「何を言ってるんですか」モーリスの申し出を断固として拒否したのは、セレスティではなくマリオンだ。「元通りにすれば良いというものではないです。積み重ねてきた年月もこの本の価値に含まれるんですから、使用に耐えられる最適な状態を維持するのが良いんですよ」
「本はアンティーク品ではありませんよ。読まれてこそでしょう」
 懐古趣味のないモーリスは、極めて現実的な意見をマリオンに返した。
「だから使用に耐えられる状態、と言ったんです」
 負けじと言い返すマリオン。
「…………」
「…………」
 無言の睨み合い。
 こうなったら結果は目に見えている。
 お互い、『修繕』や『修復』といった似たような特技を持ちながら考え方は微妙に異なるとなると、どちらが我を通すかが勝負の分かれ目だ。変に強情なところのある二人の部下の、こうした些細なぶつかり合いは珍しいことではない(つまり、たまに一緒にいると思うと何かしら議論を交わしている)。放っておけば、決着がつくまで口論しているだろう。
 彼らのやり取りを眺めるのもまた一興。セレスティはソファに腰を落ち着けて、成り行きを見守ることにした。
「――しかしどうせなら、本来の姿を見てみたいとは思いませんか? ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』だって、修復なしで置いておいてはただの古ぼけた壁画でしょう」
「もうっ、夢がないんだから! 浮き出た錆とか、剥がれかけた油絵の具とか、そういうところから年月を感じ取れるのが骨董品の良さなんですよ!」
 ふむ、とモーリスは腕を組んだ。
「仮に損傷甚だしい彫刻があったとして。――その完全な形を見たいとは思いませんか?」
「む」
「ミロのヴィーナスにサモトラケのニケですよ」
「むむ」
「この本だって損傷している部分があるでしょう。ところどころ金箔が剥げているし、表紙の文様が欠けています。この分では頁も数枚欠けているかもしれませんね」
「むー」
「気になりませんか?」
「それは気になりますけど……」
「ほら、私の能力で直したほうが良いでしょう?」
「……でもやっぱり! 新品の状態に戻すなんて、悠久の年月と、本の状態を維持するのに労苦してきた人々への冒涜ですよ!」
「強情ですね」
「一言で片づけないで下さい!」
 ばちばち。二人の間で火花が散る。
 セレスティは苦笑を浮かべた。どうも決着はつきそうにない。
「仕方ありませんね。二人とも強情なんですから」
 セレスティはモーリスから本を受け取ると、慎重に損傷の具合を確かめた。
「そうですね……では、表紙等の部分はマリオンに修繕していただきましょうか。頁の欠如や印字が薄れている部分は、モーリスにお願いしましょう」
「さすがご主人様、冴えてますね。ナイスアイディアです」
 マリオンはぱちーんと指を鳴らす。外見相応の子供っぽい仕種に、苦笑を隠せないモーリスとセレスティだ。彼らの中では一番若いマリオンでも、通常の人間の倍以上は生きているはずなのだが。
「それでは早速、本をお借りしますね」マリオンはいそいそと本を受け取ると、「ええと、仕事場は自宅なので、今日はこれで失礼します。明日にはお持ちしますから!」
「急がなくとも良いですよ――」
「ではまた明日!」
 セレスティの台詞をろくに聞かず、マリオンは居間を飛び出していった。
「まったく、慌しいですね」モーリスはすっかり冷めてしまった珈琲のカップを手に取り、溜息混じりにつぶやいた。「……真っ先に読みたいんでしょうね、多分」
「彼も学者の端くれですからね」
 セレスティは先ほどまでマリオンが座っていた席に腰を降ろした。皿の上にゴディバのチョコレートがちょこんと載せられている。
「ああ、どうぞ。処分してしまって下さい、セレスティ様」
 モーリスは片手でチョコレートの皿を指し示した。
「では遠慮なくいただきます。後でマリオンに怒られそうですが」
 モーリスはおどけたような調子で肩を竦めた。

    *

 翌日。
 予告通り、マリオン・バーガンディが修繕の終わった本を携えてカーニンガム邸へやって来た。
「どうです、セレス様」
 本を顔の前に掲げて、にこにこと満足そうな笑顔でセレスティに本を差し出すマリオン。
「キュレーターの肩書きは伊達ではありませんね。見事ですよ」
 骨董品としての価値は損なわれないよう、しかしきちんと使用に耐えられる状態にきちんと繕われた本は、セレスティがオークションで引き取ってきた当事よりも美しく見えた。
「ふふふ、私の仕事はいつも完璧なのです」
 マリオンはえへん、と胸を張る。
「それで、内容はいかがでしたか? 君のことですから、当然読んだのでしょう?」
「あは、バレてましたか? 全部通読まではさすがに無理でしたけど、興味深い項目は目を通しました。……後でお借りしても良いですか?」
 上目遣いで伺ってくるマリオンに、セレスティは微笑を返す。
「もちろんですとも。まずはモーリスに文章の部分を修繕していただきましょう」
 モーリスがいるはずの居間に向かってゆったりと歩き始める。数歩遅れてマリオンがついてきた。
「あのー、セレス様」
「なんでしょう?」
「セレス様のご判断は正しかったと思うのです」
「はい?」
「……モーリスさんの能力を使ってその本を『元に』戻したら……あの、色々と、怖いことになっちゃう気が」
「怖いこと、ですか?」
 セレスティに先回り、マリオンは居間の扉を開ける。
 モーリスが、昨日と同じ位置に腰を降ろし、珈琲片手に横文字の新聞を流し読んでいた。二人に気づいて顔を上げる。
「おはようございます、セレスティ様。問題の本はどうなさいましたか」
「それなら、ここに」
 セレスティから本を受け取り、マリオンの手によって繕われた部分をしげしげと眺め回す。
「確かにこの程度なら使用には問題なさそうですね。それで、中身は私が直してよろしいのですか」
「ええ、お願いしますね」
「あのー」とマリオンが挙手。「くれぐれも、中身だけ、にしておいて下さいね? モーリスさん」
「マリオンが手を入れた部分まで直す気はありませんよ。疑り深いですね」
「そういうんじゃなくて、あの。……セレス様、当然、本の内容を知って落札されたのですよ、ね?」
 マリオンはおずおずとセレスティの顔を伺う。それからそわそわと本へ目をやった。
「本の内容に何か問題がありましたか?」
「ええと。……本物っぽいので、気をつけて下さい」
「本物?」
 モーリスは怪訝そうな顔で訊き返す。
「なるほど」セレスティは合点がいって頷いた。「モーリスの能力では、本に封じ込められた術まで元に戻しかねない、ということですね?」
 それを聞いてモーリスは顔をしかめた。「……もしかしなとも、魔術書の類いですか、セレスティ様」
「そういうことです。マリオンが本物らしいと言うのですから、本当なのでしょうね。気をつけて下さいね、モーリス」
「……ま、余計なものまで戻してしまわないよう努力はしますよ」
 結果は神のみぞ知る、といったところですが、とモーリスはそこはかとなく無責任な発言をした。
「しかし、良く魔術書の原本などが現存していましたね。出品した人物も価値を良くわかっていなかったのではありませんか? ――Your Eyes Onlyと書かれていますよ、冒頭に」
 読後は破棄しろ、という意味だ。歴代の読み手達がその注意書きを守らなかったために、巡り巡ってセレスティの手に渡ったということになる。
「良き使い手に委ねられる運命だったんですよ、きっと」マリオンはちらりと彼の主人を見やる。「本って、そのものが魔力を持っている感じがするでしょう? 読み手の解釈によっていくらでも変化する魔法、っていうか……」
「受け取り手の思想や倫理でどうにでもなる魔法、ですか」
 長年の時を経てセレスティ・カーニンガムの元へ舞い込んだ書物は、じっと沈黙を守りながらも、そこに綴られた言葉以上の何かを語りかけてくるようだった。



fin.
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東京怪談
2005年01月05日

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