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『煙管の煙が死ぬまえに 』
紅・蘇蘭0908


 ふひゅう、
 灰いろにいぶされた黒の喫煙所、
 白い粉舞う今宵の賭場の、
 肖像画が褪せた茶の紙切れは、
 ふひゅうふひゅうと煙に舞う。
 褪せた刺青の男たちが密談と憎悪と笑みを交わす横では、色鮮やかな女たちが、ぼんやりとした含み笑いとともに、猥談、怪談、四方山話に華を咲かせる。
 紅を引いたその目は細く、一重で、美しい。艶やかだ。
 遠い心の故郷のことばで話せばいいものを、東京に住む彼女らは、訛りの強い日本語で話す。煙を吸い込み、煙に巻かれつつ。
いやいや、煙に巻かれるは、何も華僑の血を引くものに限らぬ。呼ばれ、金をばら撒く日本人もいる。訛りは強くとも、外国の言葉にはとんと疎いリーペンレン。紅さす女たちは、金に親切だ。
「こないダの彼女は、帰って来たのカイ」
「歌舞伎町の二丁目、行っちまったンダろう」
「あすこ、怖いネ、893、たくさんいるモの」
「女を売った? あーアア、罪作り」
「女、喰われちゃうヨ、可愛ソー」
「あすこじゃ、イロイロな意味で、喰われちゃうネ」
 ふひゅう、ふひゅう、
 男はぼんやりした笑みで大麻に火をつける。
「俺に喰われるよりゃア、ましだろうってよ」
 男の唇のあいだから、牙、のぞく。銀の煙管に、そのきらめきがうつる。
「あーいーやァ、そうネ、薄ぅい闇に喰われるよりは」
「紅ァい目の女に会うよりは」
「ずうっとずうっとマシさァねエぃ」


 おんなの首筋に、がぶりと牙を立てる。
 汗ばんだ肌にも、きらめきがあった。その肌のきらめきのわけを尋ねると、女は、嬉しそうに微笑みながら、これはアイシャドウをファンデーションに混ぜて塗っているのだと、男の質問に答えたのだ。
 男は、呪文をかけられたようだった。アイシャドウとは何ぞや? ファンデーションとは如何なるものか? 煙に巻かれた、というべきか。ともかく男の視線は、そのきらめきから、女の肩のラインに移り、首筋に移った。
 なめらかなラインに舌なめずりをして、彼は、歌舞伎町の裏路地に女を連れ込んだのだ――。
 ちょっと一口いただくつもりが、ちょっと一口すすった途端に、理性という理性が吹き飛んだ。人間が他の生命と一線を画するのは、ひとえに、本能を理性で御することが出来るからだという――だが、彼は、人間ではなかった。
 がぶりと牙を立てた彼は、それから一分も経たないうちに、女の身体から血を吸い尽くしてしまっていた。かさかさに乾いた女の死骸から、ボディラインにぴったりと張りついていたはずのワンピースが脱げ落ちた。男は血どころか、細胞液にいたるまで、女の水分すべてをすすっていたのだ。
 悲鳴さえも闇にかき消され、誰ひとり、この惨劇を目にしたものはないはずだった。
 男は地面に落ちたワンピースを、近場にあったポリバケツの中に突っ込んだ。女の皮――もとい、女の死骸は、くしゃくしゃと丸めた。そうして、それも、ポリバケツの中に突っ込んだ。
 月曜の燃えるゴミの日にゴミを回収しに来る業者も、まさか、その乾いた皮の塊が、人間の女の死骸だとは思うまい――
 ふひゅう――
 男は、ばっと振り返る。
 裏路地の奥の奥から、確かに息吹が届いたのだ。
 漆黒の闇の中に、銀とも灰ともつかぬ煙が舞う。
 そして、
 紅い紅いふたつの光点が、一瞬消え、また現れた。
 紅い点は、すうと歪む――
 笑っているのだ、
「ねぇ、ちょっと、あなた……今ので、今月、何人目なの?」
 女の声は、壁や地面に反響することもなく、まっすぐに男を目指していた。男は身構え、瞳をぎらりと禍々しく光らせた。
「何だ――誰だ!」
「名前を聞いたって、どうせ何にもならないわよ」
 声の主は、名乗らない。ただ滔々と、紫煙のように、彼女は続けた。
「私は人間のように、『食事をするな』とは言わないわ。でも、せめて、『理性を持ちなさい』。そんなことだから、いつまで経っても吸血鬼は人間を恐れなくちゃならないのよ。人間に狩られて、いつかは終わるわ」
 女であるらしい。
 闇の中、見えるのは煙と紅眼だけだ。男は血でぬめる牙を剥き、唸り声を上げた。
「おれが人間を恐れるだと!」
「あなたが、とは言ってない。あなたを含めたすべての妖が、人間を恐れているの」
 女は、笑っているらしい。
「いいこと? あなたが『食事』を続けることで、割を食うのは、人間たちだけじゃないの。この世界は、あなただけのものではないのよ。あなたは人間と同じ、ちっぽけな存在。ちっぽけなものは、ちっぽけなりに、ちっぽけに生きていくべきなのよ。目立たないように……道端の石ころのように……殺された人間の皮のようにね」
 ふひゅう、
「さあ……わかったなら、もう帰りなさい。今月はもう終いにすることね。炒飯でも食べて生きていけばいいわ。でないと……通報するわよ」
 あなどるように、試すように、彼女は言った。そうして――その紅の瞳は、ぎらりと輝く。
 ごうっ、という音がした。ような、気がした。
 闇の中に浮かび、闇に覆い被さる闇が、男に圧し掛かる。無音と無色の闇の中、ふひゅう、と紫煙がどこからか……。
 ヒトのものではない悲鳴が上がった。
 男は、そこら中にあるものにいちいちつまづきながら、歌舞伎町の裏路地を飛び出す。いくつもの視線が、駆け抜けていく青褪めた肌の彼をとらえていた。
 ポリバケツが倒れ、中に詰め込まれていた紙屑と、ワンピースと、食べ残された肴が散乱した。

 ひそひそと会話が交わされる――

 ほら見ろ、あいつ。酔ってるだけじゃなさそうだ。
 あの路地、出るだろ。よく女が死んでるもんな。
 一昨日もあそこでひとり、ヤられてから、ヤられてるんだ……。
 やっぱり、出るんだな。あそこの通りはさ。


「あの路地、ホントにやなカンジ。ドロドロしてるヨ、グログロしてる」
「昼間行ってゴラン、壁と道路、シミだらけ」
「友達、霊感あるネ。行った途端、吐いた」
「あれェ? リーペンレン、顔青いネ」
「もともと青いネ」
「でもサ、震えてる」
「怖がってるネエ」
「紅い目、怖がってるんだねエ」
 けらけらけらと、紅さす女たちは笑いあった。
 煙と女を振り払い、青褪め、震える男は、革張りのソファーから立ち上がる。女たちに札の吹雪を浴びせると、彼は脇目も振らずに出入り口に向かった。
「待ちなさい」
 紅い髪と目の、賭場の片隅にいた女が、男を小さく呼びとめた。
「どこに行ったって、同じよ。あなたが受け入れられることはないの。私が目をつけている限りはね。――紅蘇蘭……もし、気兼ねなく『食事』をしたいなら、この名が通らない場所をあたってみなさいな」
男は、ドアを開けて、閉めた。


 影に生きる男の影が、不穏なゆらめきを見せる。男は5歩ごとに背後の闇を振り返る。そのうち彼は、走り始めた。曲がり角を曲がるたび、建物と建物の境目、ポリバケツの傍ら、ネオンの下、どこにでも紅い瞳が在った。あなどるように、ためすように、彼女は微笑み、煙管から紫煙をたちのぼらせる。
 女の首は白く、美しかった。
 だが、そのラインが男の理性を吹き飛ばすことはない。
「けれどね、わかっておいてほしいのよ」
 闇が、男に囁いた。
「私は、何も恐ろしくはないわ」


 ごう、っ。




<了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年12月27日

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