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『<エスメラルダ♯2> 』
光月・羽澄1282)&葛城・伊織(1779)


『俺は覚えてたぞ。どうだ』
『何を?』
『おまえが忘れてどうする! カレンダーを見ろよ。今日は何日だ?』
『……11月24日。……何の日?』
『おまえぇ……毎日セカセカ生きすぎなンだ。カレンダーを一枚めくってみろ』
『――あ!』
『やっとわかったか!』
『伊織、いくつになるんだっけ?』
『……ちがァう! 俺の誕生日じゃアないッ!』


 電話でのその会話から、もう、1ヶ月が過ぎたのだ。
 東京はどこもかしこもお祭り騒ぎだ。とは言っても、冷えこむ時期であるから、誰もが屋内で大騒ぎをしたり、甘いムードに浸ったり、家族団欒を楽しんでいる。
 光月羽澄は、そんなクリスマス・イヴに、暗い街角でひとりたたずんでいた。
 ――こんな夜に、私ったら……ほんとに、バカ。
 はあ、とついた溜息には、白い色がついていた。かじかむ指に、その息はかかった。小指にはまったエメラルドの指輪の銀が、ほんの一瞬だけ曇る。
 彼女は歳のわりには大人びていて、その見かけの通り、いわゆる『ふつうの18歳』よりは、色々なことを身をもって知っていた。羽澄は気丈だったが、死を恐れ、途方に暮れる人間を無碍に出来ない性分だった。ましてや、そういった人間が自分を頼って泣きついてきたら、知人の葬式をも放り出してしまうかもしれない。
 実際、非力な少女が泣きついてきたから、羽澄は今夜の約束がふいになってしまうかもしれない選択をした。
 ――でも、8時まで。8時までに片付けるのよ。それから、銀座線に乗って、銀座で降りて、走って……うん、充分間に合うわ。
 銀の髪をひらめかせ、彼女はそれきり、時計を見ない覚悟を決めた。彼女はそれまで、ほとんど五分おきに時計を見ていた。
 それは図らずとも、昨年の『失敗した聖夜』と同じ行動だった。

 13歳の少女の父親が、帰ってこなくなったというのだ。『胡弓堂』店長の知人の知人の娘なのだという彼女は、たびたび店にやってきて、羽澄と世間話をする仲だった。彼女は話好きで、好奇心旺盛で――寂しがりやで、仕事ばかりしている両親のことを、いつも非難していた。
 だがそんな勤勉な両親も、クリスマス・イヴには必ず家にもどってくる。少女の家はカトリックなのだ。
 その、家族を繋ぎとめる唯一の夜が、粉々になってしまったのだった。
 12月23日、深夜に帰宅した少女の父親は、家を出て行ってしまったのだという。
 家を飛び出したときの状況は、尋常なものではなかった。


 ――俺は、覚えてたンだ。
 はあア、と彼は白い溜息をつく。懐から取り出した鍼は、一瞬にして冷えた。冴えた夜の灯かりを浴びて、葛城伊織の鍼は、きいんとするどい光を湛えた。
 ――でなきゃ、銀座のレストランの予約なんか取らないし、プレゼントだって、用意しない。俺はおまえのことの方が心配なンだぜ。また去年みたいに、忙しすぎて、何にも用意してないんじゃないかって。
 ここにはいるはずもない想い人に、必死で心中にて侘びつづけ、ふっ、と彼は鍼に息を吹きかける。白い息を浴びた鍼が、確かに、紫の光を一瞬見せた。
 ――おまえは、セカセカ生きすぎなンだ。で、俺は、のんびりしすぎなわけだな。……8時、8時までにゃ、終わらせんと。
 彼もまた、泣いている女性を無碍には出来ないたちだった。しかもその泣いている女が、知人の知人なのだから余計なのだ。敬虔なクリスチャンである彼女が、『和』をそのまま形にしたような伊織の家を訪れて、涙ながらに依頼をしてきた。
 こんな、聖なる夜だというのに――彼女の夫は、家に戻らなかったのだ。前日に家を飛び出したまま、行方はわからなくなっていた。
 依頼人は、もう少し彼の声に耳を傾けるべきだったと、ずっと泣いていた。涙を見せられて、「今夜は予約があるから」と塩をまけるような彼では、なかった。


 ふたりとも、約束の8時までには間に合う仕事だと踏んでいたのだ。
 だから油断していたとも言える。すでに追うべきものは、ひとの足の速さを超えていて、ふたりをいとも容易く引き離していった。
 だがそれでも、羽澄の耳に届く振動、伊織の手に伝わる気の流れは、ふたつの依頼をひとつの終着駅へと導いた。
 はあはあと肩で息をするふたりが、澱んだ潮の香りの中、冷えきった聖夜に、ばったりと出くわしたのだ。
 まったく別の場所で別の人間から仕事を頼まれたふたりの知人が、東京の片隅で偶然出会う確率というのは、如何ほどのものか。それは、御子が見せる奇跡とでもいうべきか。天使の悪戯、悪魔の失態とでも、いうべきか――
「い、伊織?!」
「は、羽澄?!」
 鍼を突きつけられた少女と、鞭を突きつけられた青年とは、白い息をぶはりと吐いて、素っ頓狂な声を上げたのだった。

「じゃあ結局、私とあなたが追ってるのは、同じ人間ってことね」
「『探してる』の間違いじゃないか?」
「……伊織が受けたのは、退魔の依頼なんでしょ」
「奥さんは、ストレスで心がまいった旦那に、悪霊か何かが憑いたと思ってるのさ。……真相は本人から聞きたいトコだがね」
 生臭い、死にかけた海の匂いが、ふたりを取り囲んでいた。あと50メートルも進めば、東京湾を拝める――そんな倉庫群の裏手で、ふたりは白い息をつきながら、身を潜めているのだった。
 かさこそ――かさこそと、
 探し出すべき男の、変わり果てた足音がする。
「……アトラスで、聞いたことがあるの」
 足音に顔をしかめながら、羽澄は囁いた。
「ストレスで、蟲になってしまった人がいるって」
「何だそりゃ? どういう冗談だ?」
「編集長ならよく知ってると思う。興味があるなら聞いて」
「冷てエなあ。かいつまんであらすじを教えてくれたっていいだろ?」
「……こんな夜に、話すことじゃないわ」
 羽澄はきっぱりと言い切ると、伊織の目を真っ向から見つめた。
 黒の瞳と緑の瞳とは、よく似た光を湛えていた。
 強い、優しい光だ。


 同時に倉庫の裏から飛び出したふたりが見たのは、変わり果てた一家の主の姿だった。変わり果てていたのに、それが追い求める男の成れの果てだとふたりが知り得たのは、その存在が、『気』や『音』を振りまいていたからだ。
 男は巨大な蟲と化し、苛立ちをあらわにして、羽澄と伊織に襲いかかった。
「殺しちゃだめよ!」
「人間に戻れるのか、アレが?!」
「きっと戻れるわ。家に連れて帰るのよ!」
 蟲は、地球上に生息するどの昆虫でもなさそうだったが、かろうじて竃馬に似ていた。闇色の竃馬は跳びもせず、奇妙な鳴き声を上げて、のしのしとふたりに近づいてくる――
「便所コオロギのツボなんざ、知らねエぞ!」
 とは言うものの、ぴいんと伊織は鍼を回して、突いた。
 首筋にあたるのだろうか、頭と胸の境界に鍼を打たれ、巨大な竃馬はびくりと脚を震わせ、その場に倒れた。
 羽澄が大きく息を吸い込む。
 次いで、その口から放たれたのは――


「腰を落ち着けて聞いたら、いい歌なんだな」
「『きよしこの夜』?」
「そう」
 歌に鎮められ、鍼で意識を飛ばされた男を自宅に送り届ける手筈を整えるのに、軽く1時間を要した。追っていた者の姿は、タクシーが到着する頃には、毒々しい縞模様の竃馬から、くたびれた背広の男に変わっていた。――戻っていた、と言うべきだろうか。
何もかもが落ち着いて、ようやく羽澄が時計を見たときにはすでに、時刻は午後9時になろうとしているところだった。聖夜にも東京湾の生臭さは変わらず、潮の澱みも冴えたままだ。湾にとって、クリスマスなど、平日に過ぎない。
 午後8時の予約は、流れてしまった。銀座の洒落たレストランは、東京湾のように構えていてはくれないだろう。今宵は、特に。
「おまえが童謡っていうか、誰でも知ってる歌をうたってるのは、始めて見た――初めて聴いた」
 波の音さえ聞こえてきそうな冬の沈黙を破って、伊織が呟いている。
 その呟きに、羽澄は囁きで答えている。
 かさこそとした、呟きと囁きの邂逅は、静かな会話ともいう。大声で笑い合い、話をしたところで、誰も咎める者はないだろうに――ふたりは、声をひそめていた。
 このイヴという特別な意味あいが、自然と、そう仕向けている。
「そういう曲って、いちばん難しいのよ。『はとぽっぽ』も『ぞうさん』も、私には難しいわ。『きよしこの夜』なんて、やっぱり、だめだった」
「そうか?」
「そうよ」
「俺はそうは思わない」
 羽澄は緑の目を開き、伊織を見上げ、すぐに目をそらし、唇を噛んで、少しだけ笑った。彼女なりに照れたのだ。自分に厳しい彼女が照れるのは、めずらしいことだ。伊織はそれを知っていて、してやったりと微笑んだ。
「……ありがとう」
 そうして彼女は、いまが期だと、潮の匂いの中で思い立った。
 冷めるような風が海から吹いてくる中で、彼女は丁寧に包装された箱を伊織に手渡したのだ。
「伊織が事前に予約を入れてくれたから、今年は失礼なことしないで済んだわ。こんなところで渡す予定じゃなかったけどね……メリークリスマス、伊織」
「おオ……こりゃ、どうも。……じゃねエわな、メリークリスマス」
 伊織もまた照れ笑いをして、箱を受け取り、すぐに仕事道具を詰め込んだ鞄に手を伸ばした。その中から、がさごそと大きな包みを取り出す。渋い柄の包装紙から、中身が『和』のものであることは明白だ。伊織らしい、と羽澄は微笑んだ。
「ここで開けるか? それとも、帰ってからのお楽しみか?」
「……もう、急ぐ必要もないじゃない。『胡弓堂』、行こう。シャンパンとケーキと残りものくらいならあると思うから」
「なンか、聞いたな、その台詞――」
 遠い目をする伊織の腕を、しっかと羽澄がとらえたのだった。
 ふたりは微笑みあって、イヴをも知らぬ倉庫たちを背にする。

 箱の中の、古い真鍮の懐中時計が時を刻んだとき、
 包みの中の、揚羽の振袖がひらめくのだ、

 今はイヴを知る『きよしこの夜』が、冴えた夜空に響きわたって、眠れずにいる蟲たちの心を鎮めていく。
 葛城伊織の心に火をつけて、羽澄の喉から消え去ることはない。




<了>
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年12月13日

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