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『川 』
山崎・健二3519

 きっかけは何だったのか、それは分からない。
 だが、とある朝、いつものように目覚めた健二は、何処か何かが違って思えた。
 今から思えば、それはある種の予感、或いは予知だったのかもしれない。


 健二にとって、ここはなんと言う町でなんと言う場所なのか、そんな事はどうでも良かった。殺し屋をやっていた頃は、ターゲットの居場所を確認する必要があったが、それはターゲットの顔と同様、一仕事終われば瞬く間に記憶から抜け落ちてしまう程度の情報だった。同じ場所にもう一度行った事はなかったが、万が一にあったとしても、健二は、その場所に見覚えはなかっただろうし、そして仕事が終われば、また同じように忘れてしまっていただろう。
 だから、何気なく訪れたこの街の風景に、何か得体の知れない感情らしきものを感じたのだが、それが既視感である事に気付く為には、暫しの猶予が必要だった。
 何故、この風景に見覚えがあるのか、勿論今の健二には全く理解不能だった。第一、この駅で電車を降りたのだって、全くの偶然であり、その駅名に聞き覚えがあった訳ではない。と言うか、車内のアナウンスなど聞いておらず、ただ何回か、目の前で開いたり閉じたりする自動扉を見ているうちに、ふとその間を潜りたくなったからその小さな駅で降りただけだ。そんな自分の行動を、何かに導かれたからとか心の奥深くの記憶がどうとか説明付けるほど、健二は今の己自身には興味が無かった。
 見覚え、と言う感覚は余りにあやふやで、健二にはただの気のせいとしか思えない。今視界に入ってくる街並みは極めて平凡で、観光地になりそうな程古い街並みでもないから際立った特徴がある訳でもなく、どこにでもありそうな穏やかな住宅街、と言った感じである。どこかの家から犬の吠え声がしたかと思うと、何かを煮るいい匂いが漂って来た。誰かが見ているテレビの音声が微かに聞こえ、家の中で誰かが誰かを呼ぶ叫び声まで聞こえてくる。そんな、視覚だけでなく色々な感覚が健二をゆっくりと揺さぶって行く。健二が聞いた音、声、嗅いだ匂い、それらは過去のものではなく明らかに今現在のもの。だが、それら全てが、健二の奥底の隠れた記憶と、少しずつだが合致していく。台所から漂ってくる、何かの料理を作る匂い。己を呼ぶ声。叫ぶ声。犬が吠えていたのはいつの事だっただろうか。そう健二が考えた途端、目の前を一瞬だけ、激しい業火がよぎったような気がして思わず立ち止まり、目を瞬いた。
 「……お、…か…さん……」
 途切れて言葉にならぬ声が、健二の喉から絞り出された。久しく呼んだ事の無いその名称。そんな存在が自分に居た事さえ、すっかり忘れていた。哺乳類生物として生まれて来る為には、母親と父親の両方が必ず必要なのだと言う生物学的な根拠も、自分が『人』だと思った事が余りない健二に取っては意味を為さなかった、と言う理由もあるが。
 いずれにせよ、先程までの『見覚えがある風景』は『懐かしい風景』に変わっていく。あの角を曲がればそこには赤いポストが立っていた。そう思って健二がそこを曲がると、確かに、あの帽子を被ったような懐かしい形のポストが仰々しく立っていた。あちらの家には大きな犬が居て、いつもその前を通り掛かると凄い勢いで吠えられたものだ。そう思い、その前をゆっくりと通過するが、犬が吠え掛かって来る様子はない。ただ、壊れ掛けの大きな犬小屋だけがあったから、恐らくその犬は死んでしまったか何処かに貰われでもしたのだろう。それは己の記憶が過去のものであるからそう言う事もある、と、そこまで理解出来るようになった。いつしか、健二の足取りは早くなっていた。記憶の濃度も次第に濃くなっていく。もう二回、通りを渡って小さな川を渡り、もう一度角を曲がる。そこにある記憶、過去に戻る自分、思いも寄らず早くなる鼓動と呼吸、最後には健二はとうとう走り出していた。声にならぬ声で、誰かを健二の心がまた叫んだ。
 しかし。
 「……………」
 健二の靴先がぴたりと動くのを止めた。立ち竦むその姿は、いつもの如く無表情ではあったが、どこか呆然としているようにも思える。健二の目の前にあるのは、ただの月極駐車場。停めてある車には当然見覚えがない。健二の微かな記憶の中にあったのは、小さな一軒家であったから。庭の無い、二階建の古びた住宅。薄汚れた壁、曇りガラス、半分だけ閉められたカーテン。テーブルの上の倒れたコップ、干乾びたミカン。記憶に僅かにこびりついていたそれらは、今はもう何処にも無かった。
 「……か、………あさ……ん……」
 もう一度、掠れた声がその存在を呼び、健二は踵を返す。来た時とは裏腹な、足を少しだけ引き摺るような足取りで、さっきは走って来た細い橋を戻って行った。


 何故、その家の行方を捜そうと思ったのか、その理由ははっきりとは説明出来ない。だが健二は、何かに突き動かされるがまま、情報屋や探偵を使って、今は駐車場になってしまったあの場所にあった家の事、そこに住んでいた人達の行方を捜させた。捜してどうなるのか、どうするつもりなのかと自問自答する時もあった。己との遣り取りの中で、自分が捜しているのはあの家そのものではなく、あの家で共に生を営んでいた“母”と呼んでいた人そのものである事までは納得出来た。だが、母親を捜してどうするつもりなのか。自分に取って母親はどのような存在なのか。懐かしいとか愛しいとか、或いは憎いとか悔しいとか恨めしいとか、そう言った類いの感情は何一つ蘇ってこない。健二には感情そのものが欠落していたから当然と言えば当然なのだが、健二はただ、母がどのような顔をしていたのか、それだけが興味の対象であり、捜索の原動力となっていたのだ。
 それだけでも、健二が己で何かをしようと思っただけ、画期的な事だったのだが。
 結果はすぐに出た。探偵から渡された報告書にあった住所をメモに取り、そこへと向かった。その足取りは重くもなく軽くもなく、ちょっとその辺のコンビニまで、と言った程度のものに見えた。

 健二が母と呼ぶべき人は、以前に住んでいた場所とは違う都道府県に住んでいた。その距離は、過去を忘れたいと言う願いなのか、それとも何かから逃げて来た月日の長さなのか。僅かな庭のある小さな建売住宅が、今の住み処であるようだ。適度に賑やかな商店街のある駅前から少し歩くと静かな住宅街に入り、そこから更にもう少し歩き、恐らくその住宅街の一番奥にその家はあるらしかった。健二がそこに辿り着いた時には既に日が落ち、夕暮れと夕闇の境目辺りの時刻になっていた。庭には芝生が植えてあるが所々は剥がれ、見栄えが少々悪くなっている。植え込みの影に何も植えていないプランターが幾つか、その脇には子供用のプラスチック製のバケツとスコップ。バケツの中に土が盛ってあり、その天辺にスコップが突き刺してある。何て事はない家の庭先、だが妙に生活感が滲み出て、確かにここには『人』が住んでいる気配がした。
 気配を消し、健二はその家の庭に侵入する。まるで杭の一本にでもなったかのよう、全く生きたものの気配はさせず、無機質な存在になって健二は家の中の様子を窺った。庭に面した大きなガラス窓のある部屋がリビングらしく、カーテンは閉めてあったが完全ではなかった為、その隙間から内部を覗く事ができた。縦に細長い視界から見えたものは、白いカバーを掛けたソファと大型テレビ、そして適当に折り畳んだ新聞が置いてあるローテーブル、その下に転がる緑色のゴムボールのようなもの。壁に貼ってあるのは酒屋かどこかから貰ってきたようなカレンダー、そこには何かの予定がペンで細かく書き込まれているのが窺えた。そこから繋がる奥の部屋とは壁がなく、食器棚とダイニングテーブルがある事からダイニングルームであるようだった。健二の目が、僅かに見開かれる。そのダイニングテーブルに向かう、三人の人影を見つけたからだ。
 大人の男が左側に座り、ビールか何かが入ったコップを旨そうに口に付けている。その向かいには幼稚園児ぐらいの男の子。手振り身振りで何かを一生懸命説明しているようだ。その男の子の隣、食事より喋るのに夢中な男の子を諌めつつ、だがその表情は慈愛に満ちた、その顔は―――…。
 「…………さ、…ん……」
 その顔に、見覚えがあるかどうかと聞かれれば、健二ははっきりとは頷く事はできなかった。住んでいた街を歩いた時に感じたような、懐かしい気持ちとかは余り感じない。会えて嬉しいとか生きてて良かった等と言う感情が湧く筈もないことは分かり切っていたが、どうして俺を殺そうとしたのかとかどうして見捨てたのだとかと言う憎しみも感じなかった。ただ、何だろう、心臓のある場所辺りが、戦慄いて収縮して緊張し、息苦しいような気分になる。健二は、自分の胸元の真ん中辺りの衣服をぎゅっと握り締める。一回視線を足元に落とし、もう一度家の中の風景に移した。窓は初冬の寒い風を遮る為、しっかりと閉められているから中で何を話しているのかは判らない。家族の団欒と言うものを知らない健二だから、その会話を想像する事もできない。ただ、時折響く楽しげな笑い声に、この中で行われている事は悪しき事ではないと言う事だけは分かる。目を細めて微笑む母親の顔、その表情には勿論見覚えはない。健二の、忘れた振りをしている記憶の底に眠る母親の顔は、泣いているか怒っているか叫んでいるかのどれかしかなかったからか。窓ガラス一枚を隔てたその世界、それは余りに健二には縁がなく理解する事も想像する事も不可能であり、手を伸ばせば届く距離にありながら、その親子三人と健二の間には、恐ろしく流れの早くて深い川が流れているように思えた。
 増水した川幅は健二の靴先を濡らし、瞬く間に足首までも冷たい水に浸かる。益々水量の増えるその川から一歩後ずさり水から出ると、健二は濡れた靴が少し重くなるのを感じた。それ以上そこに居ては、そのままその川に呑まれてしまう。この川は、モーゼが切り開いた地中海のように、健二に行く道を示してくれる事など有り得ないのだ。

 来た時と同様、健二は全く何者の気配もさせずにその場を立ち去る。暫く夜の街を足音もさせずに歩いた。この暗闇は、健二にとっては馴染み深い時間帯。一日のうちで、恐らく一番落ち着ける頃合いの筈だったが、何故か今日は、丁度揃えた両足のサイズ程度の面積しかない、高い山の天辺に立っているような、そんな心許なさがあった。
 寿命の尽き掛けている街燈の明かりの範囲を抜け、薄暗がりに身を浸す。ふと立ち止まった健二の、俯き加減のその無表情の頬に、透明な雫が一滴だけ流れて落ちた。

 それが、単なる生理現象などでは無いと言う事は、さすがの健二でも理解出来た。


 ただ、何に寄るものなのかが、判らなかっただけで。



おわり。


☆ライターより
 いつもいつもありがとうございます!ライターの碧川桜でございます。
 久々のお仕事だから…等と言う言い訳をするつもりは毛頭ございませんが…ギリギリの納品ですみません(平身低頭)
 相変わらずの亀のようなペースですが、これからも見捨てずよろしくお願い致します(礼)
 ではでは、またお会い出来る事を心よりお待ち申し上げております。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
碧川桜 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年12月13日

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