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『呼応 』
葛城・夜都3183


 葛城夜都は、闇からぬっと突き出でたその手指に、されるがまま、頬を撫でさせていた。
 指は、手は、腕は、やたらに生ッ白くて、臂の辺りから先は無いようで。否、そう見えたのは一瞬で、よくよく見れば墨染の衣を纏うているが故に、ぽっかりと、暗闇に出現したように見えただけなのであった。
 ――闇を見誤うとは、珍しい。
 先程明るい月を見詰め過ぎたか。それとも、好ましき深さの鮮血の香に酔うたのかもしれず、夜都は変わらず己の面に添えられた指が、唇に触れたところで漸く、諌むような眼差しを相手へ送った。玻璃の内、青銀の眸が女のそれと搗ち合い、僅か色合いを変じたようだが、それだけだった。静かな眸は、揺れず、何の感情をも表さず、ひどく機械的に動いては、また女を怯えさせた。女は、夜都を恐れているのである。その上、憎んでもいるらしい。だのにこうして厭きず夜都へ触れてくる。夜都にとっては不可解極まりない行動に相違ないが、特にこれと云って行為を拒む由も無く、好きにさせていた。女と夜都が一見無駄とも取れるこんな遣り取りをしている傍に、水気の音が絶えず響いている。時折何か硬いものの砕く音もする。獣の荒い息遣いが合間に。
 不意に、足許近くの秋草がさざめいた。温度を伴った臭気が、むっと押し寄せてきて、女はその正体を認めるや口を歪めてみせた。笑ったのだった。そうして、夜都から離れると、草掻き分け、手に取ろうとして、ああ、と声を洩らした。叶わなかったのである。草に埋れ掛かったそれは、女の手が掴む前に、獣が銜え――咀嚼した。
 男の頭部だった。

 *

 確かにわたくしは、元人間であったもので御座います。今の姿もその時分と何ら変わりなく、只、徒人には視えぬようで、それがわたくしには些か寂しくありました。こんな邪な念を抱いていたが故、彼を呼び寄せて了ったのではと、今になって思いますが、余りに時は永く、主の仰るような神霊は、一向、わたくしの許へはいらしては下さらずに、己が意味を、此処に縛られ続く意味を、見失い掛けていたわたくしには、彼の存在は必要であったのです。呼びました。わたくしは夜毎、此処で、この護るべき橋の袂で、彼を呼んでいたのです。彼は必ず応えて、逢いに来て下さいました。けれど、或る日、わたくしの声に彼以外の、ええ、そうです。貴方たちが、此処へ。

 *

 月が眩しかったのであろう。獣は目を眇め、隣で夜都は、夜霧煙る向こうを茫々と透かし見た。漆黒の装束に身を包み、やはり此方も黒鞘の太刀を佩いた出立ち。月光に透かせば暗紫懸かる艶やかな黒髪が夜風に揺れ、それが夜都の影で唯一、蠢くものである。面に掛けられた道具の示すよう、今宵は光の多さが煩わしい。整った、見目好いうちの唇が、薄く開いて大して動きもせずに言葉を紡ぐ。
「獲物はあれに」
 獣は低く吼えて応う。
「片方は何方に属するものでしょう。近しくも視え、遠く、隔つものにも」
 見極むよう細めた眼に、呟きは独り言つに落ち着き、夜都はゆっくりと、腰の刀の柄に指添えた。触れた鍔の、冷々たる。肌撫ぜる夜気の、冷々たる。風は遠く近く、朽葉を散らす音、草薙ぎの音、啜り泣くような、噎び泣くような。
 草の疎らに生えた地は、足音を吸った。
 密やかに闇狩師と獣は進みゆく。
 風の渡る音だけが、餌の在処を満たし、途方に暮れたようにひたすらに、哭いていた。

 *

 彼は、闇に生くるものでした。
 光は彼には毒となって、ですからわたくしの魄の残りますこの土地が心地好いとも申しておりました。
 はい。わたくしは未だこの地に。
 それでも、ここまで流れが穏やかであります川ならば、架け直しを幾度も受けたとは云え、わたくしはお勤めを果したと、そう思っても良いのでしょうか。わたくしが此処に在るだけで、お鎮め致していることに、なると、そう自惚れても。

 *

 闇を寄り集めて、殊更極めた処に、男と女の気配を知った。
 男は夜都を恐れ、女の方はぼんやりと、頸を傾いでいた。唐突に夜から出でた夜都と獣の性を判ぜられずにいる様子で、併し男の異様さに兇と察し、その背に縋った。何者か、と云った意味の問いを男が発したかしないか、ほんの、刹那に。

 *

 トン、と彼の重みが、わたくしに預けられました。わたくしは、彼が蹌踉けたのかと思いました。そうではありませんでした。掴んだ彼の肩が真砂のように脆く、ひどく不確かに、わたくしの、彼の肩に添えられていた親指が、出し抜けに沈み込みました。やわらかな感触して、彼の肩に埋もれたのでありました。彼は、ぐずぐずと頽れてゆきました。はっとして、貴方たちの方を窺いますと、獣が嗤うておりました。貴方は、貴方は、

 *

「……貴方は、どのような表情をしていらしたのでしょうか」
 女は口の端にほんのり笑みを滲ませたままで、夜都を上目に見た。指は夜都の硬質な美貌を掠め続け、すぐ傍で己が男が狼魔に喰われているのにも拘らず、するりと夜都の頬を指滑らせ、鼻梁を辿り、薄い唇を横方になぞり、終には花唇を重ねて、夜都の呼吸を僅か共有した。それでも夜都は動かなかった。彼にとっては、闇を狩った今、すべての、他のことには、意味なぞなかった。常の、気怠げな、透いて何事も留めぬ銀眸を空間に向けるのみである。青銀は、光を燈すと云うよりは、その奥に仄かな熱を留め置いたような様。けれどその熱も、星光の如く疾うに温かの失われた色である。
「今と、変わらず、何の情をもなかったのでありましょうか」
 夜都の答を待たず、女はぽつぽつと呟き落とす。放された唇の後に乗せられた指を、夜都は口に含んだ。女が頸を傾げる。男の隣に居たその時と同じ表情に思えた。
「――あなたは、あの男と同じモノですか」
 女の指を銜えたまま、夜都は問うた。女はゆるく頸を振って否定したが、
「こうして、貴方に触れておりますところから、じんわり、染まりゆく心地は致します」
「……それは」
「貴方もまた、彼と同じモノなのでありましょう?」
 夜都は口中の女の指を、甘く、噛んだ。

 *

 彼は不死の身でありました。否、一度、人間としての生を終え、どういうわけか、何処へも向かわれずに、損うことなくその躰に留まりまして、あのように世を渡っていたのでした。自分が二度死を迎える時は、きっと、煙のように跡形なく消え敢うだろうと、思えばそう、彼が云っていたことがあります。
 併し、彼は残ったので。
 其方の、貴方にそっくりな、彼を食んでおります獰猛な、醜い、恐ろしげな、悪しき獣にとっては、ふふ、満足で、ふふふふふ、お味はどうです、美しいでしょう、彼は旨いでしょう。

 *

 夜都は、女の話に厭いていた。
 そもそも聞いていたのは、女の素性が知れず、そして紫黒の食事の間をもて余していたからなのであって、既に狩ったモノのことなどに興を感ずることはなかった。

「あなたは、聖、邪、いずれに」

「聖に成る可しと此の地へ」
「では」
「然れど邪を呼びました」

 明々と、月。
 深さも過ぎれば程の知れぬ闇が、唯々黒く此処には横たわる。夜都も、女も、獣も、内にあって、融け切らず息衝く。獣吼ゆ。男はもう、無かった。不死者にあり乍ら、生々しい最期にやはり名残なく、女がうっとり、煙となって了ったのだわ、とささめいて。

「貴方たちをも、呼び寄せました」
 咲った。にっこり。
「而るに此の身――邪、也」

 夜都から離れた女の躰が、ゆらり、舞って、細い指が、際に闇を掻いた。女のそれより目映し白が、女の後を追った。
 その面影を、撫ずように。
 女の頸を、刎ねた。

 葛城夜都は、闇からぬっと突き出でたその手指に、されるがまま、頬を撫でさせていた。幻だった。頬には僅か、熱の残火。疵。
 獣の唸りに、風はまた、哭いた。


 <了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
香方瑛里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年12月09日

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