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『残夢 』
向坂・嵐2380
 いつの頃だっただろう。悪夢を見始めるようになったのは。
 はじめの頃を覚えていないくらいだから、相当以前の事だろうとは思うが…。
 ふぅ…っ、と窓の外を見やりながら煙草をくゆらせていた向坂嵐が煙混じりの溜息を吐き出して、遠い目をする。
 何気なく体の向きを移動しようとして、「いて」と小さく呟く。
 急に動こうとした事で刺激されたか、忘れていた痛みを思い出させられて渋い顔をすると、ふと苦笑いを浮かべてまた窓の外に目をやった。

*****

 ほんの僅かな浮遊感。その直後に来た衝撃…気付いたら、知り合いの経営する病院にいた。そこではまあ、あまり理想的な患者とは言えなかったが…それでも無事退院の運びとなり、日常生活に取りあえずは支障ない所までは回復している。後は、捻挫の状態が良ければ近いうちに仕事復帰も出来るだろう。
 ――病院では階段から落ちた、と言っていたが、それは嘘ではないが本当でもない。
 夜毎、眠りに落ちる度に現れる悪夢…どう言う訳か、夏の2ヶ月頃はぴたりと止まっていたそれが、10月に入ってからその反動のように、毎晩現れてくるようになり、実際にそれで注意力が散漫になってしまっていたせいだった。
 いや――あの時は、階段から転げ落ちる前、完全に意識が飛んでしまっていた。
 目の前が光のせいでなく真っ白になった瞬間、手すりに捕まろうと咄嗟に手を伸ばしたが間に合わず、頭と胸と足、その3箇所を打ち付ける羽目になったのだ。
「あれがバイクに乗ってる最中だったら…」
 下手をしなくても、命は無かったかもしれない。それを考えれば幸運だったのだろうか、いや…。
 ゆっくりと首を振り、コーヒーでも飲むかとポットを引き寄せて、机の上に置かれた薬袋にふと目が行った。
「…全く」
 『寝たくない』と言った言葉をどう受け取ったか、導眠材を処方した洞察力には恐れ入った。だが、嵐が求めているのは安眠よりむしろ、『夢を見ない』薬。強力な睡眠薬なら、そういった効果があるかもしれないが…そのあたりの薬の副作用の噂も聞いている事だし、手は出さない事にしている。
「熱ち…」
 出来上がった黒々とした液体にふぅっと息を吐きかけて一口啜りながら、夢と言えば、とちょっと首を傾げた。
 悪夢を見ることがなかったあの2ヶ月間、別の夢を見ていたような気がずっとしている。それがどんなものなのか、夢だけに不定形のものでほとんどは思い出せないのだが、ひとつだけ。
『――ねえ、本当に調査させてくれない?あなたの背後をしっかり調べてあげるんだから』
 今も鮮やかに浮かぶ、若々しい声。知っている人物のような、知らない人物のような、それすら曖昧なものだったけれど。
 背後か。
 …夢でも気になるくらい、俺は――
「…馬鹿馬鹿しい」
 幽霊を信じないわけじゃない。『見』える事だってある。けれど、だからと言って俺に憑くような存在なんか…。
 呟きながらも、思わず後ろへ意識を向ける。
 そっと、口を開き。だが声は出さないままに、囁いた言葉。

 …あんた、いるのか?…そこに?

「――――――」
 ――いくら待っても、
 答えは、無かった。
 …嵐自身、その問いに答えてもらいたかったのか、それすらも良く分からなかったのだが。

*****

「向坂、これいつものトコな。至急じゃ無いから、あんまり飛ばすなよ」
「ういっす」
 書類の束らしい茶封筒を渡された嵐が、キャリーケースに封筒を入れ、バイクによいせと跨る。
 バイク便の仕事に復帰した嵐は、周りの好意で比較的負担の少ない仕事を回して貰っている。嵐自身は急ぎの仕事でも構わないから、と言い続けているのだが、そのあたりは負傷が完全に回復しているわけでもなさそうだ、という上の判断もありあっさりと却下されていた。
 それでも、好きなバイクを封印されていた数日間に比べれば現状は文句を言うような物ではなかった。
 今日もいつものように、得意先である会社へと荷物を運ぼうと角を曲がり――。
「―――――!?」
 気が付けば、思い切りブレーキをかけていた。後で思ったことだが、良くこの急激な運転で事故にならなかったものだと思う。
 ただその時は、角を曲がった瞬間、すれ違った人物に意識が飛ばされていた。
 『あいつ』がここにいる筈無い。――そんな筈は無い。
 だが。
 それと分かっていても、身体は自然このまま移動する事を拒み、そして目は…きっと血走っていただろう嵐の目は、今すれ違った筈の人物を捜し求めて、視界の利かないヘルメットを脱ぐ事さえ忘れ動き回っていた。
 他人の空似だったのか…だが、だとしたら、どうして――嵐の『感覚』に引っかかってしまったのだろう。
 しかも、目の隅に映ったその人は、見間違いでなければ、薄らと――笑っていなかっただろうか?
「まさか」
 そんな筈は無い、そう繰り返す事だけが、気持ちが静まるまで嵐が出来た唯一の事だった。

 ――結局、暫く後にようやくバイクから降りることが出来た時には、当たり前だがその人影はもうどこにも見当たらなかった。それでも尚、その辺りを探し回り、結局約束の時間には間に合ったものの、必要以上に時間がかかってしまったため、足の具合が悪くてどこかで休んでいるのでは、と携帯に何度も連絡が来ていた事に後で気付いて、同僚や上司に謝りに行く羽目になった。…逆に、その事が、嵐に現実感を取り戻させるきっかけのようなものになったのだが。

 そして。

 その日以来、どう言う訳か、嵐をずっと悩ませていた『悪夢』は、再びなりを潜める事になった。
 消え去ったわけではない。けれど、この2ヶ月毎夜眠りを妨げられていた事から考えれば天と地程の差があった。

 …あんたが、何か、したのか?

 ふと、そんな事を思う事もある。当然声に出さない呟きでしかなく、それに対する答えは無いまま。

 ――再び、現実に起こった『悪夢』から、何度目かの冬がやって来ようとしていた。


 -END-
PCシチュエーションノベル(シングル) -
間垣久実 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年11月30日

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