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『□■□■ Chamomile Junkey ---向こう側の--- ■□■□ 』
緑川・勇0410


 吸い込んだ湯気のニオイは鼻腔を擽って肺腑に到達――する、気がする。実際はそんなものすべて作り物の器官で何か違う名称があるのだろうが、生身の名前で呼んだ方がしっくり来るほどに、身体の感覚は精巧だった。
 入浴剤のパッケージを信じれば、それはカモミールのニオイなのだという。見たことも聞いたことも食ったこともない、なんて考えて一人笑った。バスタブに身体を沈めながら天井を見上げれば、換気扇から落ちた雫が鼻の頭を叩く。

 この身体に入れられた当初は風呂に入ることなんて恐ろしくて出来たものじゃなかった。自分の物ではない、異性の、子供の身体に触れなければならないなんてのは道徳的に犯罪のレベルだったし、サイバーのボディをどうやって洗ったものかも判らなかった。だから一週間ほど風呂に入らずに居たこともある。だが流石に我慢できなくなって、シャワーを浴びた。初めて服を脱いだ時にはやはり精神的なショックが強くて、シャワー後には肉体へのダメージが来た。

 生身だった頃は、シャワーなんて簡単に済ませていたものだ。半ば乱暴だったといっても過言ではないと思う。同じ要領でサイバーの身体に接することが出来ないなんて知らなかったもんだから、それはもう豪い状態だった。社会はもう少しエキスパートにもサイバーの構造を教えるべきだと思った最初の出来事である。二度目はまあ、思い出したくないこととして。

 いつもの癖で擦り付けた垢すり用のナイロンタオルなんて無意味どころか皮膚を痛ませるだけだったし、男性用のトニックシャンプーでガシガシ洗った髪はごわごわに広がって。条件反射で付けたシェービングクリームを慌てて流して、また付けてしまったり。
 そう、その頃に比べたら、バスルームにも随分物が増えたと思う、肌をなるべく長持ちさせるための栄養剤入りのボディソープも買ったし、人工毛髪用のシャンプーも買った。当初はそれだけを使っていたが、やはりどうも髪が落ち着かなかったので遅れてリンスも購入して。驚いたのは、どれも生身用とは違って値段が高いということだ。懐への打撃は強かった。あの頃は自由業無職で、日々少ない貯金を食い潰している状態だったし。今はご丁寧に、生活費の一端としてCIAが支給してくれているが。
 物が増えたということは、風呂に入っている時間も増えたということで。冷たいタイルがむき出しだった床にはバスマットも敷いているし、鏡も少し大きめのものに付け替えた。立っていても座っていても見えるようにとの配慮だったが、思いのほかに全身が映り込んでしまうのは難点で。

 圧倒的に違う骨格、何もかもが異なる感触、同じ生物の形とは思えないほどの差異。いっそ触れるのが恐ろしかった、それは異性の身体に持つ潜在的な畏敬のようなものの発露だったのかもしれない。今にして思えば。まあ理屈をつけたって、ただ慣れないものに触るのが怖くて扱いを持て余したというだけのことなのかもしれないが。
 バスタブから身体を起こし、俺はシャワーヘッドを自分に向ける。スポンジにソープを垂らし、軽く泡立てて、身体に当てた。柔らかな感触が皮膚を覆う。自然な感覚。脳に伝わる電気信号を操作しているだけなのかもしれないが、それでも、身体を清潔に保つという行為は単純に気持ちが良い。首や腕を重点的に洗うのは、もしかしたら逃げているのかもしれない。

 この身体でずっと生きていくのだとしたら、まだ慣れきれないこの現状をいつか笑える日が来るのだろうか。その時俺の精神は、どっちなのだろう。社会か私か、パブリックかプライベートか。どっちを取って、この身体に向き合うのか。
 それは少し興味があって、だけどぞっとする。どっちをとっても救いは無い。もしも社会を取ってしまっていれば、それは現在男としての精神を残す俺にとってどうしようもない未来だし、私を取って男の精神を保ち続けたとしても――それは、今のような心地が続いているというだけだ。
 未来の自分にとって、どっちが楽なことなのかは判らない。ただ現状から考えれば、どっちも考えたくないぐらいに気分の悪い世界なのかもしれなかった。

 シャワーのコックを捻る、冷たい水が少し反った喉元を直撃した。ゆっくりと温度を上げて、それは体温より少し高い程度のお湯になる。出だしが冷たいのは心臓に悪いが、もうそんなものも無いから、覚悟を決めてさっさと流せる。
 水の当たった鏡からは曇りが取れて、自分の身体が映り込んだ。眼を反らしはしないけれど、自分の物と認識しきれない身体。泡が取れて露になっていく肌。眼を閉じる、深呼吸をする。

 鏡の向こう側。
 そこにいるのは俺なのか、違うのか。
 未来なのか、現在なのか。
 『俺』なのか、『私』なのか。

 ――まったく。

 吸い込んだ空気はカモミールのニオイ、何も考えずに選んだ入浴剤。今まではそんなものに縁は無かったし、別にわざわざ花のニオイとプリントがあるものなんか買わなくても良かった。でも、なんとなく選んだ。
 些細なことなのだけれど。

「戻れや、しないんだよな――」

 反響するのは声、当たり前の事を実感させられる浴室にはむせ返るような花の香りが満ちて俺の身体を外からも中からも包み込んでいた。



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PCシチュエーションノベル(シングル) -
哉色戯琴 クリエイターズルームへ
PSYCHO MASTERS アナザー・レポート
2004年11月24日

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