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『【my first kiss】 』
雪森・雛太2254)&シュライン・エマ(0086)



 目の前に広がる街の夜景は星空よりも美しく、だからこそとても、嘘っぽく見えた。
「今日も疲れたなあ、っと」
 雪森雛太は胸の高さくらいまである柵に寄りかかりその夜景に視線を馳せる。明滅する赤や黄色、白や緑のネオンの光で、上から見下ろせばこんなにも東京の街はきれいなのかと驚きすらする。
 あの中で人間が生活し、そして様々な悩みや苦しみを抱えているなどとは決して見えない。
「もう。たいぶ寒くなってきたわね」
 隣ではオーバーカーデを羽織ったシュイラン・エマが、その細い肩を抱き小さく震えている。
「冬だもん。もうすぐ」
 顔を向けると、風に流れる艶やかな黒髪が自分の頬に触れた。
 青い瞳が夜景を反射させ、きらきらと光っている。その横顔をきれいだと思った。
 けれど同時に、それは何だか違うような気もした。きれいという言葉では表現しきれない、強い魅力がある。
 上手い形容詞が思い浮かばなかった。
「屋上からの見物は失敗だったかな」
「あら。どうして?」
「だって寒いし」
「癒されるから昇ってみなって言ったのは、雛太くんでしょ。せっかく気に要ったのに、もうヤンピなの? 根性がないわね」
 そう言う肩が震えている。
 雛太は笑い出したくなりながら「だよね」といい加減な相槌を打った。
 草間興信所の事務所がある雑居ビルの屋上へ昇ろうと誘ったのは、確かに雛太の方だった。毎日朝から、時には深夜まで、草間興信所に貢献し所長の世話を焼いているシュラインに息抜きを与えたいと思ったからだ。それがどうして屋上だったかといわれればわからない。昨日見たドラマに影響されていたのかも知れないし、ロマンチックなことを考えていたのかも知れない。
 屋上に上がり東京タワーを見る男女。二人は手を繋ぎキスをする。
 けれど失敗だった。
 現実は寒いし、屋上とは言ってもそれほど高さがあるでもなく、キレイなのはもちろんキレイなのだろうがやっぱりイマイチで、何より東京タワーが見えなかった。
「でも。本当。気持ち良いわね」
 柵に寄りかかり、シュラインが白い息を吐く。白くなった頬に青い瞳が余りに印象的だった。
「で? どう? 興信所の暮らしは楽しい?」
「そうだな」
 雛太はシュラインに顔を向ける。
「けっこう楽しいよ」
「そう。なら良かったわ。宿敵くんとも上手くいっているのかしら」
「宿敵?」
「ロウくん」
 笑いを滲ませシュラインが言う。
「その名前は出してくれるな、姉御」
「なんだか分からない子よねえ。どう見たって貴方の方がガサツだし、神経ずぶとそうなのに」
「何、それは褒めてンの。貶してンの」
「変なところで繊細だから。アンタは」
 鼻先を掴まれ、雛太はもがく。
 やめろよ、と言いながら口元が少し緩んでいた。
「別に……繊細とかってわけじゃねーけどさ。誰だってアイツと三日付き合えば嫌気差すって。だって俺、この間チュウされたんだぜ! チュウ!」
「チュウ」
「そ。チュウ」
「何処に?」
「わかんね」
 脱力して雛太は答えた。
「困っちゃうよなあ。唇だったら俺、マジ、ファーストキスなんだけど」
「あらあら」
「そういえばさ」
 雛太は柵に背を向け、明るく切り出す。
「姐御はファーストキス経験済…だよ、ね」
「ファーストキス?」
「そ。ファーストキス」
「そうねえ。いまいち程度が分からないけれど。あるんじゃないかしらねえ」
「なんその微妙な答え!」
「女は微妙な物なの」
「ふうん。ね、それってさ。家族とか友達とか除いたら、やっぱ所長なわけ?」
 不意に上目使いの目を向けられ、雛太の心臓が軽く飛び跳ねた。その瞳に色香が混じっているような気がするのは、自分の思い違いだろうか。
「さあ。どうなんでしょうね」
 そう答える横顔はまた、いつもの彼女だった。
「それって、さ」
 取り繕うように明るい声を出したら裏返っていた。咳払いし明後日を向く。
「それっていいよな! まあ、何つーか。俺だってやっぱりどうでも良い奴としたくないしさ。その、なんつーか。ハッピーファーストキスって感じだよね!」
「なにそれ」
 笑い飛ばされ軽くへこむ。確かに自分は何を言っているのだろう、と思った。
 けれど何を言っているのだろうついでに、言ってみたいことはある。
「俺も。ファーストキス捧げるならこの人だって、思ってる人、居ンだよね」
 心臓がコトンと大きな脈を打った。
「あら、そうなの。じゃあ。何が何でもその人としなきゃね。ハッピーファーストキスのために」
「笑いごとじゃなくて、さ」
 雛太はゆっくりとシュラインに顔を向ける。
「俺。姉御とチューしたいな」
 その瞬間、彼女はほんの少しだけ驚いたように目を見張らせた。しかしそれは本当にほんの少しだけだ。
 すぐにいつもの優しい苦笑を浮かべると白い息を吐き出しながら大袈裟な溜め息を吐いた。
「仕方ないわねえ。だったら目を閉じなさいよ」
 腰に手を当て挑むような目で見つめられ、雛太はどうして良いか分からなくなる。
「や。なんつーか。冗談っていうか、っていうか、え? え? なに、マジで言ってンの?」
 彼女は不穏な笑みを浮かべたまま、顎で「さっさとしなさいよ」と言わんばかりに雛太を差した。
「えー。や。や、ええええ? うっそ。マジで。マ」
 彼女の手が頬を掴み、雛太は思わずギュっと目を閉じその驚きに体を竦ませていた。
 心臓が痛いほど高鳴っている。

 触れたのは、額だった。

「はい。完了」
 サバサバとしたシュラインの声が、耳を通り抜けていく。
「え。ええええ? 終わりィ?」
 シュラインが悪戯っぽく笑い、ウインクした。



「俺。姉御とチューしたいな」
 彼はいつからあんな目をするようになったのだろう。
 言われた言葉には驚かなかったが、その少年を脱したかのような瞳の色にシュラインは少しだけ驚いていた。それはとても優しい色で、その優しさは少しだけ、初恋の彼に似ていた。
 もちろん、顔は全く似ていない。なにせ初恋の彼は熊のような人なのだ。華奢な彼とは全く違う。
 けれど同じ色の瞳を持った人間というのは何人も居るのだと思うと不思議だった。
「こんな所で何やってンだ。風邪引くぞ」
 柔らかい苦笑を含んだ声に振り返ると、そこに草間興信所の所長の姿があった。
「あら。お帰りなさい。早かったのね」
「寒い中の張り込みだったからなあ。早く済んで良かった良かった」
「じゃあ。温かいお茶でも煎れましょうか」
「そうだなあ」
 そう言いながらも、彼はシュラインの元へと歩いてくる。大きく伸びをし、呻き声を上げた。
「ふうん。夜景か。でも……それほどでもないな」
「そうなのよね」
 それでもロマンスを考えていた青年を思い、シュラインは小さく笑う。
「なにがおかしいんだ」
「なんでもないわ」
 彼を振り返り、そうしてもう何年も一緒にいる彼の顔の一つ一つを確認する。頬に浮かんだ小さなシミ、引き締まった顎、そして、優しい色をした瞳。
「さっきね」
「うん?」
「雛太くんに姉御とチューしたいなんて告白をされちゃったわ」
「雛太が」
 彼は盛大にふきだした。
「やるなあ。あいつも」
「ファーストキスの話をしててね。俺は姉御がイイんだって。物好きね。彼も」
「中々言うじゃないか、アイツも」
「あら? 妬いてるの?」
 子供のように視線を逸らせた彼は、明後日の方を見ながら呟いた。
「ファーストキスか……遠い昔のことで思い出せないな」
「おじさん臭いこと言わないでよ」
「でも。まあいいんだ。今の人以外のことは、忘れてしまっても」
 彼が気の利いたセリフを言っただろ、と言わんばかりに、にやついた目を向ける。
 今度はシュラインが、盛大にふきだす番だった。



 触れられた場所が熱を持ったかのように疼いている。
 そこからいろんなものがあふれ出してきて、溶け出してしまうのではないかと雛太は心配になった。
「唇だったら死んでンな。俺」
 そんな自分に苦笑する。
 ベットの中へと潜り込み、額を指で軽く押さえた。そしてふと、自分の唇を指でなぞってみる。
「ぎゃああ!」
 毛布を抱きしめ、絶叫した。
「あーあ。俺ってば純情! 額でこんなけ嬉しがるか! 普通!」
 でんぐり返り、足をばたつかせ、隣で眠り込んでいるロウの頭を思いっきり殴りつける。
「何か違うよな、俺! でも嬉しいよな! 俺!」
 そして雛太は。
 こんな夜に、ハイスタの「my first kiss」を聴くのかも知れないと思った。


















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東京怪談
2004年11月18日

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