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『理想郷夜話 ◆ 後編 』
セレスティ・カーニンガム1883)&池田屋・兎月(3334)

 「すっかり、元通りになりましたね」
 笑みを浮かべてそう話すのは、輝く銀の髪を、今は月の光に彩らせているセレスティ・カーニンガム。リンスター財閥を率いる青年だ。
 海の色を思い起こさせるその青い瞳は、優しげに兎月を見つめている。
 『はい。主様には、大層感謝しております』
 「私に感謝するより、君を直した彼に感謝してあげて下さい」
 にっこりと笑い、何処かからかう様に兎月に言う。
 『は、はぁ…』
 兎月が心の中で『機会が御座いますれば…』と言ったのも、実はセレスティには聞こえていた。
 「今宵は、良い月夜ですね。…満月ですか。ワインでも嗜みたい気分ですね」
 ぼんやりとした中空に浮かぶのは、鮮やかな十五夜の月。
 その月明かりがあまりに眩く、周囲にある星々が霞んで見える程だ。
 昔から月には魔力があると考えられて来た。その姿が夜毎変わるのが所以だ。
 月は人の心や農作物の生長、または動物の行動や魚介類の給餌活動にまで影響を与える。それ程に人、いや人も勿論ながら、人の生活ともまた、親密な関係であると言える。
 そして魔力が最大になるのは、新月と満月。
 つまり今宵だった。



 カーニンガム邸の庭は、専属の庭師が丹誠込めて主の為に世話をしている。
 その庭が一番綺麗に見えるそこは、ガーデンテーブルが設置してあった。
 ガラス細工を思わせるそのテーブルの上には、セレスティの望みに答え、赤いワインが冷やされて置いてある。傍らにはグラスと、そこには少々不似合いな皿があった。
 セレスティは、その皿に向かって話しかけていた。
 その皿は、数日前までは一部欠けていたのだが、この館の庭師であり、全てのものをあるべき姿へと戻すマイスターが、主であるセレスティに請われ、修復したのだ。
 『十五夜を見上げますと、何故か還りたい…と言う意識に捕らわれてしまいそうになります』
 「おや、兎月君は、兎なのですか? 皿ではなく?」
 冗談でそう言ったセレスティだが、返ってきたのは予想だにしない言葉だ。
 『はい、以前、兎としての形を持ったことがあるからもしれませぬ』
 「………」
 『あの、主様? わたくしめ、何か可笑しなことを申し上げましたでしょうか?』
 不安が感じられる声だが、実はセレスティが別のことを考えていたのなど解りはしないだろう。
 飲み干して空になっていたグラスに、未だ冷えたままのワインを注ぐ。ボトルをそこから抜き去る時に、氷の音がしゃらりと鳴った。
 「兎になった兎月君は、さぞかし可愛らしいでしょうねぇ…」
 『ぬ、主様っ?!』
 「声がひっくり返ってますよ。兎月君」
 思わずそう突っ込んでしまうセレスティだ。
 だがその慌てぶりもまた、何とも言えない程に可愛らしいと思ってしまう。
 「で、どうなのでしょうか?」
 『は? あの…』
 「兎姿の兎月君は、可愛いのでしょうか」
 『……あの…。自らのことは解りかねますが…』
 それもそうだろう。愚問であったと悟ったセレスティは、その問いを追求することはなく、別の方向で攻めてみることにした。
 「兎月君。お願いがあります。聞いて頂けますか?」
 『……何で御座いましょうか?』
 ここに兎姿の彼がいれば、きっと上目遣いになっているだろうと、まだ見ぬ兎に思いは馳せる。
 「私に兎になった姿を、見せてはくれませんか?」
 『主様……』
 何処か困った様な風なのは、どう言うことなのだろう。
 そんなに兎になるのは嫌なのか、または皿姿がそんなに気に入っているのだろうかと、セレスティは様々に考えてみる。けれどその答えは、幾ら考えても正解に辿り着くことはない。
 『わたくしめは、今は自らの意志にて変ずることは出来ませぬ』
 それを聞き、セレスティにはもしやと思うことが、一つだけあった。
 あの傷に残された気配だ。
 あれはもしや、異能者に付けられたものではないだろうか。
 と、すると、その時にこの皿の姿のままにされ、それ以来、ずっと皿のままで過ごしてきたのでは…。
 「兎月君。もしかすると、君は封印されているのですか?」
 『ご推察通りに御座います』
 やはり…と、セレスティは納得した。
 封印を解くことは、セレスティに取って何も難しいことではない。彼の能力を使えば。
 「……。兎月君。君にお聞きしますが、その封印を施した者は、何故そんなことをしたのですか?」
 『……。心ない…いえ、こう申し上げることが不遜なのかもしれませぬが。…とある退魔師に追われ、戦うことになりました。わたくしめは、ただただ、静かに暮らして行きたかっただけに御座いますれば…。しかしながら、彼の退魔を生業とされる方には、認めてはもらえませなんだ故、主様にお会いしました際にありました傷を負い、そのまま封印を施されてしまったのです。ただ、その退魔師は、いずこでか亡くなられた由。それのお陰で、こうして封印が弛み、主様とお話することが叶いました次第』
 これであの時、兎月が言っていたことに合点が行く。
 何もしていないのに、ただ異形であると言うだけで、その身を追われ、そして傷を付けられた上に封印までされ、己が意志で動くこともままならぬ様になったのだ。
 もしも自分が、物言わぬ皿のままであれば…と、兎月は何度思ったことだろう。
 「それは、別段君が悪さをしたからと言う訳ではなく、ただ九十九神であったと言う理由から、封印をしたと言うことですね」
 そう仮定で言ってみたものの、この兎月が悪さなどしよう筈がないと、セレスティは確信している。
 『九十九神と言う物は、日の光の元、大手を振って歩くものではないと、そう申されました』
 何と愚かな…と、セレスティは怒りを覚える。
 その者が今も生きているのなら、恐らくセレスティは容赦ない罰を与えるだろう。
 それこそ、死んでいて良かったと思える程に。
 「兎月君、そんな愚か者の言うことなど、忘れておしまいなさい。君は何も悪くはありませんよ」
 『主様…』
 泣き出しそうになるのを、必死で抑えていると言った風な声だ。
 セレスティは、優しく労る様に、彼に触れた。
 「兎月君、今君が望むことは、何でしょうか?」
 不意に出された問いに、何処か困っている様だ。
 けれど暫しの沈黙の後、兎月ははっきりとしたイントネーションで、セレスティに答えた。
 『そうで御座いますねぇ…。主様には、何時もご健勝であって欲しいと、心より願っております。主様は、どうやらお聞き及びすることに、食が細いと感じます』
 「そうでしょうか? 私は普通だと思うのですが。こちらの料理人からは、まあ確かにそうは言われますけれど…」
 それどころではない。
 事実、今年の夏も、余り食べてはくれなかったと嘆きの声を、兎月は聞いたばかりだったのだ。勿論セレスティの耳には入っていないが。
 また同じく、今は過ごし易くなっている為、漸く口に運んでくれるものも増えてきたと安堵の声も聞いていたらしい。
 「まあ、それはともかくとして、そんな優しい兎月君が、悪さをするかどうかも解らない様な者など、気にかける必要はありませんよ」
 セレスティの言葉に、照れながら礼を述べるものの、兎月はセレスティの身を案じてか、皿に食について意見する。
 『食は大事で御座います。わたくしめは、元が皿の身故、食には幾ばくかのこだわりを有しております。一時は料理人として、腕を揮っておりました時期も御座いますので』
 「おや、兎月君は、料理人だったのですか?」
 良いことを聞いたと、セレスティは思う。
 『はい』
 「何が得意でしたか?」
 『大抵は食して頂ける程には作れますが、やはり和食の方が…』
 「風雅ですねぇ。私は元いた場所が、アイルランドでしたので、洋食が多いのですが、兎月君の手にかかった和食を食べてみたいですね。とても美味しいことでしょう」
 既に心は、兎月作成の和食へと傾いている。
 『有り難き御言葉に御座います』
 「料理人であったと言うことですから、人の姿を取れるのでしょうね?」
 『はぁ…、上手く行っていたのかどうかは、今となっては解りませぬが、一応は』
 「見たいですね」
 にっこりと、そうまるで悪戯を企む海の精の様に、セレスティは微笑む。
 『は?』
 「兎月君の、人の姿を見たいと申し上げました」
 『あ、あの…、主様?』
 狼狽える彼の気配が伝わって、思わず楽しくなってしまう。
 「兎月君の人である姿は、どうなんでしょうねぇ」
 うっとりと思いを馳せるのは、普通であればいい大人が気持ち悪いと言われるものなのだろうが、そこは人を魅了することも出来るセレスティだ。
 まるで童話の国の夢見る王子様が、まだ見ぬ姫に思いを馳せているかの様に見える。
 「髪の色は?」
 『青で御座います』
 「では瞳は?」
 『同じく青に御座います』
 「私と同じなのですね」
 きっと穏やかな湖面の様に、澄んだ瞳だろう。
 『主様と同じなど、勿体のう御座います』
 「そんなことを仰らないで下さい。私はとても嬉しいのですよ。日頃は、どの様な?」
 『それは、衣服のことで御座いましょうか?』
 「ええ」
 『そうですねぇ…。わたくしめは、和装が好みに御座います』
 では、直ぐにでも着物を用意することにしようと、セレスティは脳裏で発注をかける呉服屋を選別していた。
 「その姿になった兎月君を見るのが、とても楽しみです」
 『主様…』
 「はい」
 『それは…』
 言い淀む彼の心は読めている。
 「封印…ですね?」
 『はい』
 「私に任せて頂けますか?」
 『主様に?』
 驚きを隠せない兎月の声が、セレスティにはいじらしい。
 恐らくは、封印が解けることは嬉しい、だがそんなことが出来るのだろうか、いや、出来たとしても、迷惑なのではないのだろうかと、兎月は考えているのだ。
 何ともまあ、可愛らしい…と、セレスティはますます兎月を愛おしく思った。
 「ええ、悪い様には致しません。私を信じて欲しいのですが…」
 『主様を不信になることの方が、わたくしめには出来かねることでございます。主様がそう仰るのであれば、わたくしめに否やを申す理が御座いましょうか?』
 「では…」
 『はい。宜しくお願い申し上げます』
 はっきりとした答えが、セレスティの耳を打った。



 審判は下された。
 今の兎月の心境は、これだった。
 「兎月君。一つお願いがあります。聞き入れてもらえますか?」
 穏やかに言うセレスティは、ついと、ワインを口に運ぶ。
 その様は、何とも言えぬ程に、妖艶であった。
 『わたくしめは、主様に言葉より大切なものを、沢山沢山頂戴して御座います。その恩をお返しするのに、何の躊躇いが御座いましょう』
 「君の安息を奪うことになっても?」
 その様なこと、あろう筈もない。
 兎月ははっきりと、そのことを伝える。
 『主様。主様の元は、わたくしめの理想郷に御座います』
 そう、丁度、あの店に漂っていた、シャングリラの香りの如く──。
 『主様、一つお伺いしても、宜しゅう御座いますか?』
 「ええ、勿論です」
 小首を傾げてそう聞くと、セレスティは快く頷いた。
 『わたくしめの封印を解いて下さるとのことで御座いましたが、その様なこと、只人には到底出来得ることでは御座いませぬ。主様は、一体如何様な方なのでしょうか…?』
 その言葉に、セレスティは少しだけ驚いた様な顔をしたが、直ぐに悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 「私だけ、兎月君の秘密を聞いたのでは、狡いですね」
 『とんでも御座いませぬ。狡いなどとは…』
 慌ててそう返す兎月に、しかしセレスティは優しかった。
 「いえ、やはり狡いと思いますよ。私の秘密も、兎月君にお話致しましょう」
 真剣な眼差しを向け、一言一句聞き漏らすまいと、耳を峙てる様に聞く。
 「私の本性は、海より生まれ出で、海に暮らすもの。ここ日本では、その肉を食らえば、永久の若さと命を与えられると噂されるもの」
 それはもしやと、兎月は思う。
 「そう、私は、人魚だったのですよ」
 微笑むその後ろに、穏やかな海が見えたのは、その言葉を聞いた為に浮かんだ幻なのだろうか。
 呆然とした様な兎月に、セレスティがひっそり声をかける。
 「ですから、君はもう一人になることはありませんよ。ずっとずっと、私と共に有り続けましょう。永き時を生きる者同士、同じ時を歩んで行きましょう」
 その言葉が、兎月の五体に染みて行く。
 人の命は短く、それ故、兎月は時に置き去りにされた様に生きて来た。
 セレスティもまた、この屋敷に住まう者達と出逢うまでは、同じだったのであろう。
 しかし今は違う。
 「兎月君、先ほどのお願いですが、申し上げても宜しいでしょうか?」
 『はい』
 兎月は、セレスティになら何を言われても心から是の答えを返すことが出来ると確信している。
 躊躇いすらなく、兎月はセレスティに答え、そして彼の言葉を待った。
 「もし姿を得ても、随分と時代も経て仕舞っていますから、このままこの屋敷に、主にセレスティの料理人として居て頂くことは出来ないでしょうか?」
 兎月は最初、何を言われているのか解らなかった。
 いや、解っていたが、そんな都合の良い話があろう筈がないと思ったのだ。
 封印が解けたとしても、今の兎月では一歩踏み出すことすら困ってしまうだろう。けれど、セレスティはこうして手を差し伸べてくれているのだ。
 兎月の答えがない為か、セレスティが続けて話しかける。
 「日本料理の他にも色々な料理の範囲で有れば、大抵はこなせて仕舞うようなので、雇うということになりますが…」
 ここで首があるのなら、何度も何度も頷いていたであろう。
 兎月は、震える声でセレスティに答えた。
 『勿論で御座いますとも! その様に思し召して頂き、大層嬉しゅう御座います。この兎月、主様の為、誠心誠意、お仕えすることを、ここにお約束致します』
 「我が儘な主人ですが、宜しくお願いしますね」
 兎月を見るセレスティは、華がほころぶ笑顔であった。



 既にワインを楽しむ時は過ぎた。
 場所はあの庭のまま、セレスティは、兎月だけを乗せたテーブルを前に、不自由な足で立っている。
 ゆっくり、兎月に向かって口を開いた。
 「高き彼方より低き此方へと水は流れ落つるもの。
 人の時や運命もまた同じくをして、過去から未来へと流れます。けれど、それは人として、または人以外の、けれどこの世界に捕らわれているが故のこと。
 時とは、そしてまた運命とは、その時々によりその形を変えます。
 時は過去から未来へと流れるものでありつつ、反面、その自覚し得る時こそが現在となり、以降が未来、以前が過去となるものなのです。
 運命もまた然り。人が岐路を前にし、立ち止まったその時に、運命の女神の彩なす糸は紡がれ、またはその糸は掻き消える。
 兎月君、私は君のその運命に干渉致します。
 私の力の源、存在の源、そう、私の全てである水の力を借りて」
 囁く様に、歌う様に、セレスティがそう諭す。
 徐々にセレスティの内なる力が膨らみ始め、今まさに堰を切らんとしていた。
 セレスティの周りにあった、仄かに、そう蛍火の様に輝いていた光は、徐々にその勢いを増し、既に瞳と言うものが兎月にあったとしたならば、それを開いてはおられぬ程に眩く輝いていた。
 まるで夜の随(まにま)に、昼が出現したかの様だ。
 けれどその昼は、その身を焼き焦がす様な激しいものではなかった。
 「我は命ずる。この手に、この身に、この内に、女神の彩なす糸を渡(と)せ──!」
 静かな、けれど厳しいセレスティの声と共に、一筋の光が、何処からともなく落ちてくる。
 まるでそれは、海と対なす空から降りた、天の梯子の様だ。
 落雷かと思える程の明るさだが、しかし、音はない。
 瞬時に光に包まれた兎月は、次に意識が拡散した──。



 光の中、夢から覚めた様な顔をした青年が現れた。
 濃紺の短く切った髪に、すらりと伸びた身体。
 涼やかな目元は、美しい湖面の色を湛えていた。
 濃色の着物を身に纏い佇む様は、まるで日本画から出てきた役者の様だ。
 周囲を見回すと、そのままゆっくり振り返る。
 セレスティは、満足気にその彼を見ると声をかけた。
 「兎月君。ようこそ、セレスティ・カーニンガムの館へ」


Ende
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
斎木涼 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年11月15日

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