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『理想郷夜話 ◆前編 』
セレスティ・カーニンガム1883)&池田屋・兎月(3334)

 その日、セレスティが既に馴染みとなっている店、アンティークショップ・レンへと足を向けたのは、単なる気まぐれであった。
 常は数多くの人を束ね、その頂点にと立つ身であれば、そんな息抜きをする日があっても良いのかもしれない、そう自分に呟いてみる。
 アイルランドに本拠を置くリンスター財閥の、創設以来の総帥。それがセレスティ・カーニンガムの立場だ。
 背なを流れる銀糸は、秋の柔らかな光を浴び、艶々と輝いている。あまり良くは映さない瞳の青は、そうとは思えない程に澄んでいた。白皙の美貌と言う言葉が陳腐に思える程に、整った美を持つ青年だ。
 もっとも、その本性は海から陸へと上がった人魚であり、齢は七〇〇を越えている。完全なる人の子へと変わることが出来なかった名残が、その瞳であり、頑健ではない足や酷暑を敬遠する質に現れていた。
 それでも、彼──セレスティは、今の自分の状態を好ましく思っていた。
 喩えその身が少々不自由であったとしても、こうして陸へと足を着け、そして様々な物事を見聞き出来るのだ。永き時を生きる常として、幾ばくかの退屈や寂寥を覚えることはあったとしても、余り来るかけがえのない人との出逢いがある。
 そしてそんな関係に今また出逢おうとしていることは、未来見を行う己であっても、未だ感知してはいなかった。



 涼やかな鈴の音に迎えられ、アンティークショップ・レンの扉を潜った。
 ぐるりと周囲を見回す。
 一歩その店に入ると、そこはまるで今までいた『東京』と言う世界がまやかしであったかの様な錯覚を覚えてしまう。外界と完全に趣を異とするその店内は、どこもかしこも曰く付きの古具で溢れていた。
 空気の色すら変わるそこに、セレスティは安堵の気持ちで佇んでいた。
 「いらっしゃい」
 その言葉と共にセレスティの前に現れたのは、この店の店主、碧摩蓮(へきま・れん)だった。
 アンティークショップ・レンは、誰にでも辿り着けると言う店ではない。
 平穏な暮らしを送っている者達とは無縁であり、そう言った者達には、到底辿り着けない様な何処とも知れぬ場所にある。
 そこへと到達出来るのは、曰く因縁のある物であり、その身に只者とは違った何かを潜めた者だけだ。
 その独特の雰囲気は、この地上の何処を探しても味わうことは出来ないだろう。
 そしてその曰く付きの物ばかり集めている変わり者の店主は、何時もの如く、健康的であり即物的である男なら、目のやり場に困るだろう大胆なスリットの入ったチャイナドレスを身に纏い、煙管を手にしていた。
 まだ二十代後半であると称される年であるも、ふとした時に、何故か老成した様な雰囲気すら感じさせるのは、彼女が蒐集してくる諸々の古物が見せる魔術だろう。
 「今日は別に、頼み事はないよ」
 蓮の言葉に、セレスティは僅かに苦笑する。
 「何時でも、不可思議なことを探し歩いている訳ではありませんよ。今日は……何故でしょうね。何だかここへ立ち寄りたくなったのです」
 自分でも良く解らない感覚だった。
 「ふぅん…」
 何処か納得したかの様な蓮の表情は、その下に逸物持っている様にも見える。
 「まあ、立ったままってのも何だ。座っておくれよ」
 物音一つ立てず、そのまま奥へと引っ込む蓮の後を、セレスティもまたステッキと共に付いて行った。
 勧められたと言うこともあり、何時もの様にこの店の売り物だという紫檀のテーブルの元へと付くと、ステッキを背もたれにそっと置く。
 そのテーブルの上には、茶器と茶葉、そして皿が乗っていた。
 「これは…?」
 「ああ、そこに置いたままだっけ…」
 皿を手元に引き寄せようと、手を伸ばした時だ。奥に入っていた蓮が、コートを羽織って店へと戻ってきた。
 「何処かへお出かけですか?」
 「まあね、来て貰ったところ悪いんだけどさ」
 全く悪いと思っていないところが、蓮らしいと言えばらしかった。
 「ちょっと用があるんだよ」
 「では、私は帰った方が宜しいですね」
 まさか主のいないところに居座る訳にも行くまい。
 セレスティはゆっくり立ち上がろうとしたが、しかし、蓮に止められた。
 「あんたなら別にいてもらっても構わないよ。それに出て行けって言うなら、入ってきた時、先にそう言うさ。椅子まで勧めて、出て行くから帰れとは言わないよ」
 「しかし…」
 「まあ出かけると行っても、ホンのそこまでだ。小一時間くらいで帰ってくるんだよ。暫く新顔でも見てやっておくれ。そこの皿とか」
 にやりと笑う。
 思わずセレスティは、手にし損なっていた皿に視線をやった。
 「ああ、そうそう、そこにシャングリラがあるから、適当に入れて飲んどくれ」
 じゃあと、涼やかな鈴の音を鳴らせ、蓮は外へと出て行った。
 呼び止める間もない。
 このままセレスティが店を出て行けば、ここは不用心にも戸締まりなしのままになる。
 「仕方ありませんね…」
 何処か呆然とした様に、彼はそう呟いた。
 今日は一応、仕事はオフにしてある。ここから出て何処に行くと言う予定もない。
 留守番するのが嫌な場所でもなく、どちらかと言えば落ち着くし、それに何より気になるものもあった。
 「シャングリラ…ですか」
 皿の横にあるそれに視線をやる。
 シャングリラとはネパール産の紅茶だ。
 見ると、グランセ茶園のものだと知れる。
 ネパール茶と言えばカンヤムが有名だが、シャングリラもまた同じネパールが原産の茶葉だ。カンヤムほど生産量は少なくないが、やはり稀少であることには変わりない。
 水色(すいしょく)は普通の紅茶よりも淡く透き通り、花を思わせる様な豊かな香りがする。味は円やかで渋みが少なく、青臭さもない。
 何度口にしても飽きるどころか、何度も味わいたくなる様な茶葉だ。
 久々に、自分で入れてみるのも悪くない、そう思うセレスティは、何処か楽しげに紅茶を入れ始めた。
 茶葉を蒸らしている間、先ほど目にした皿を、今度こそ手に取ってみた。
 地は空にゆらゆらと浮かぶ雲の様な白、そしてその上には藍絵が描かれていた。
 一般的に呉須青絵と呼ばれるものだ。
 呉須青絵とは、白磁に簡単な青で描かれた絵があるものを指す。
 これと同じく呉須赤絵と呼ばれるものもあるが、青絵とは対照的で、濃厚鮮明な絵具で赤い線を主とした奔放な五彩文様を描いてある。
 呉須とは、一般的に十六世紀から十七世紀にかけ人気を博した景徳鎮の代替え品と言った要素が高いと言われているが、その実、模倣には止まらず、呉須手赤絵、呉須手青絵、餅花手などの独特の製法を生み出した。世界市場とは違い、後に日本では、茶席にて重宝され、陶磁器生産に大きく影響を与えるに至ったものである。
 もっとも、日本で赤絵の方が主となっており、今日目にする呉須手は、呉須手磁器のピラミッド頂点に位置するとも言われていた。
 セレスティはどちらもそれぞれに好ましいとは思っているが、この皿が青絵の方で良かったと思ってしまう。何故か、その方がこの皿らしいと感じたのだ。
 「愛らしい絵ですね」
 セレスティの面に、笑みが零れた。
 藍呉須で描かれたそれは、月を見上げる兎だった。
 簡単な絵であるのに、何故かその中には人を和ませる何かがあった。
 月に郷愁を覚えるかの様にして見つめる兎。
 それはまるで、時折に海を恋う、セレスティ自身にも思えた。
 どうやら紅茶が良い具合に上がった様だ。
 サーバーから暖めてあったティーカップへとそれを注ぎ、豊かな花の香りと呼ばれているそれを楽しんだ。
 だが、一人でのお茶と言うのは、少々寂しい物を感じる。
 「いえ、一人ではありませんね」
 そう言うと、再度皿をじっくり見て、少しばかり触っても見る。
 「おや…。可哀想に。少々欠けてしまっている様ですね」
 丁度兎の視線上、月の更に後ろに僅かな欠けがある。まるで兎は、その月を通して欠けてしまったそこを悲しんでいる様にも感じられた。
 「お話をしてみたいのですが…。大丈夫でしょうか」
 曰く付きのものばかり置いてある店だ。きっと大丈夫だろう。
 言葉と共に、意識を指先に集中させたセレスティは、皿の縁を撫でる様にして、その皿の兎を見つめつつ、『声』をかけてみる。
 『こんにちわ』
 応(いら)えはない。
 こんにちわではダメなのだろうかと、セレスティは思案するが。
 『…あの、それは、わたくしめに対する、御言葉でありましょうか?』
 遠慮がちに『声』が返った。
 清廉な印象を受ける『声』だ。
 そんな声に、セレスティは嬉しくなる。
 『ええ、君にですよ。少しお話したく思うのですが、構いませんか?』
 今度は直ぐだった。
 『はい。貴方様がお望みであれば、喜んで』
 心弾む悦びを感じさせるその『声』は、まるで野を駆ける涼やかな風の様に感じた。
 『ありがとうございます。私は、セレスティ・カーニンガムと申します』
 『わたくしめは、池田屋兎月(いけだや・うづき)に御座います。見ての通り、元はただの絵皿にありましたが、九十九神と変じましたもの』
 セレスティがそう名乗ると、皿──池田屋兎月もまた、そう名乗る。
 皿に名があるか? とも思ったが、後の九十九神であると聞いて、名があるのも然りと思った。
 『名で呼んでも構いませんか?』
 『はい。ご随意に…』
 『では兎月君、お聞きしたいのですが…。その傷はどうして付いたのでしょう。君には似つかわしくないものの様に、お見受け致しますが…』
 触れたのが、セレスティであるからこそ解る。
 この傷は、普通にして付いたとは思えない何かがあった。
 強いて言えば、何かの残留思念の様なもの。九十九神であると言うからには、その気配かとも最初は思ったのだが、それでもこの兎月が持つ様なものではない。それははっきりと断言出来る。
 池田屋兎月と名乗った皿は、沈黙した。
 何処か躊躇いの色を感じたセレスティは、聞いてはならないことだったのかと思い直し言葉を続ける。
 『答えるのが辛いのであれば、無理にとは申しませんよ』
 『いえ! いえ、その様なことは…』
 直ぐさま上がる声。何処か悲痛なそれは、セレスティの胸をも痛くする。
 『これは…。わたくしめが、九十九神として変じましてからのものに御座います。物言わぬ筈の皿が、こうして口を利いているのは間違いだったのです』
 『そんなことはありません。私は君とこうして話せることを、とても嬉しく思っていますよ。自らその様なことを仰るのは、お止めなさい』
 自己否定しているかの様な兎月に、思わずセレスティの言葉がきつくなる。
 そんなことを思って欲しくはなかったのだ。
 『も、申し訳御座いませぬ…。決して、貴方様のご不快になることを申し上げるつもりでは御座いませんでした。お許しを…』
 言葉と共に、まるで絵皿の兎が泣き出しそうに見えた。
 『私は不快ではありませんよ。ただ、自分のことを否定するのは止めて欲しいだけです。…そうですね。宜しければ、兎月君のことを、もっと詳しく聞かせてもらえませんか? その傷のお話は辛い様ですので、君が楽しかった時のことなどを。そうすれば、きっとそんなことは思わなくなるでしょう。構いませんか?』
 『はい。お望みのままに…』
 そう囁く様に言うと、兎月は自らのことを話し始めた。
 『わたしくめがこの世に生まれ出でましたのは、もう一五〇年以上も前のこと…』



 「おお、これはまた、愛らしい皿じゃの?」
 細い指。白魚の様なそれに身を包まれる感覚に、彼は気恥ずかしさを感じつつも幸福であった。
 彼は皿だ。
 丁度その才能が認められ始めた匠が、更に覚え目出度くなる様にと、さる武家の姫君への進物へと作った皿だった。
 その思いが通じたのか、贈られたその姫は皿を見てころころと機嫌良く笑っていた。
 この身が賞賛を受けているのが解る。先ほどまでは暗い暗い、そして狭い桐の箱に紫の布に包まれて入れられていた。不意に明るくなったかと思うと布が取り払われ、最初はあまり心地の宜しくない手に、そして幾度か移ってその声の主へと渡った。
 手の大きさ、そして触れている柔らかさから、まださほど成長していない少女の様だと解った。
 じっと覗き込まれ、初めてそれが黒々とした髪を長く伸ばし、豪奢な打ち掛けを羽織った大層愛らしい少女だと知る。その瞳はまるで、黒曜石の様に鮮やかな黒だ。泣いてもおらぬのに潤んでいることが、一層その愛らしさを際だって見せていた。
 『愛らしとは、姫様のことでございますれば…』
 そう思う心が聞こえたら、どれほど良かっただろう。彼はそう思う。
 「皆も、ほれ、見てみよ」
 そっと周囲に控えていた近臣達へと、彼を見せていた。
 白磁に藍も鮮やかな絵が描かれている。
 愛らしいとその少女が言うのは、その絵自身のことであろう。
 ぽつんと空にある月を、恋しやとばかりに眺めている兎。
 「ほんに、姫様の申す通りに…」
 「今にも月へと飛び立つが如くの様も、また一際興を添えておりますの」
 そう褒められ、幼き主は満面の笑みを浮かべる。
 以来、暇さえあれば、少女は彼を見つめ、言葉をかけ、触れてみては、笑顔を見せる。
 飽きることなく、毎日毎日、まだ名を持つこともない彼に向かって。
 「其方は愛らしいの。妾の宝じゃ。その眼(まなこ)は、月を恋しがっておるのかえ…。妾がここにおると言うに、何とも寂しや。いやいや、その様なところもまた、妾の気を引く故に、気に病むではないぞ。ほんの戯れ言じゃ。其方を愛おしい思う、妾のな」
 そっと馨しい香の薫りが漂ったかと思うと、幼き主は、彼にそっと頬摺りをした。
 「八千代にも、妾とともにいてくりゃれ…」



 『確かにあの時、わたくしめは、小さな小さな主様に愛されておりました』
 それはとても幸せな記憶だったのだろう。
 触れるセレスティにも、その兎月の当時を振り返る哀情は感じられた。
 悲しいまでの愛情が、セレスティの身体に流れ込んで来る。
 『その小さな姫とは?』
 『……姫様のお父上様に謀反の嫌疑がかけられ、お家がお取りつぶしに…』
 『それは…』
 聞くのではなかったと思ったが、それを察した様に兎月は続ける。
 『あの時期は、仕方のないことで御座いました』
 一五〇年ほど前と言えば、ペリーが来航し、その後に尊王攘夷の嵐が駆けめぐった頃合いだ。その嵐に巻き込まれたのかも知れない。
 『それでもわたくしめは、幸せでございました。最後の最後まで、小さな主様の元におることが出来ました故』
 どうやら最後まで、その姫は兎月を手放さなかったらしい。
 『主様が死ぬるその時まで、わたくしめはお側に置いて頂きました』
 『そうですか…。兎月君は、幸せだったのですね』
 『はい。勿論に御座います。今でも時折夢を見ます…。そうですね…。それからは、色んな方々の手を転々といたしました』
 兎月が微笑んだ様な気がする。
 『わたくしめは、この絵柄故、幼き子どもに好いてもらえた様で御座います』
 『とても可愛らしい絵ですからね。私も、一目見て、兎月君を好きになりましたよ』
 セレスティ本心からの言葉だった。
 『有り難きことに御座います』
 はにかんだ様な、けれど嬉しいと言う気持ちはひしひしと感じられる。
 『兎月君が九十九神として目覚めたのは、何時なんでしょうか?』
 『そうですね…。確かあれは…』



 そこかしこに溢れるのは、見慣れた黒髪ではなかった。
 こんな髪を持つ人がいるのかと、半ば驚き、半ば感心した彼の名を、池田屋兎月と言う。
 姿は絵皿であったが、只の絵皿ではない。
 彼は既に、九十九神として目覚めていた。何時何時と言う区切りはないものの、自覚が出たのは、この江戸と呼ばれていた街・東京を首都とする日本と言う国が、『戦争』と言うものに破れてしまってからだ。
 生まれ出でて、約一〇〇年ほど経っている換算になる。
 暫くぶりに日の光を浴びたかと思えば、見える筈だと思っていた黒い髪ばかりでなく金色の髪で、尚かつ聞いたことのない言葉を喋っているのが聞こえた。まるで遠い国に来た様だと言うのが、今の兎月の心境だった。
 いつの間にか兎月には、『手にした者を次々破滅させる絵皿』と言う、全く以て有り難くはない評判が立っていた。
 別段自分は何かをした訳ではない。
 ただただ、偶然にも、今まで主となった者達が不幸になったと言うだけだ。
 勿論そのことは、兎月の心を痛めることにはなったのだが、しかし、どうしようもなかった。彼の力で何かをしている訳ではなかったから、何もしようがないのだ。
 今兎月は、妖しげな古美術商の手元にある。
 その古美術商は、戦後の混乱期である今、法外な値段と嘘八百な逸話を付けて、何も知らないGHQのお偉いさんに兎月のことを売ろうとしていたのだ。
 自分は皿だ。
 九十九神と言えど、確かに皿なのだ。
 主人に文句を言う筋ではないと言うことは、嫌と言う程に解っている。
 だからこの古美術商が、嘘八百並べているのも我慢して聞いていた。
 だが…。
 「……そうそう、この皿の最初の持ち主の話なんですがね、旦那」
 兎月が、更に聞き逃すまいとして耳を澄ます。
 「とあるお武家様の…って、ああサムライね、サ・ム・ラ・イ。そこの姫君、えーと、プリンセス? だったんでございますよ」
 何だかこの古美術商にかかると、全てが低俗に聞こえてしまう。
 「そこのプリンセスは、大層この絵皿を可愛がっておりましてねぇ」
 『貴方様は、姫様をご覧になったのですか』と言いたい兎月だ。
 「この皿を大切にしてくれると解った方には、時折そのしどけない姿を拝ませて………」
 滅多にないことだが、兎月は怒った。
 『姫様に何と無礼なっ!』
 桐の箱に入っていた兎月だが、いきなりがたがたとその身体を震わせたかと思うと、まるで兎の様に、そのまま古美術商の顔面めがけて──。



 思わずセレスティは、吹き出していた。
 その有様が、はっきりくっきりと目に浮かぶ。
 『笑い事では御座いませぬ』
 何処か恥ずかしそうで、けれど怒った様な兎月の声が聞こえた。
 『も、申し訳ありません…。いえ、もうその古美術商が、どれほど驚いたのかと思うと、可笑しくて可笑しくて…』
 溜息混じりの兎月は、続けて恨めしげに言う。
 『その後が大変だったので御座いますよ。異人さんはご立腹なされて、古美術商共々わたくしめを叩き出すし、その後古美術商も同じく大層のご立腹…、まあこちらは自業自得のお話で御座いますが、…まあその様になられまして。わたくしめは、帰り道に捨てられてしまいました』
 『それは大変でしたねぇ…』
 そう返すセレスティの声は、何処か空々しさが混じっている。
 『ではその傷もその頃に?』
 『……いえ。こちらは、もっと後のことで御座います。わたくしめが、物言わぬ皿ではありませなんだ故に、負ったもの…。この傷は、わたくしめ自身の戒めに御座いますれば…』
 先ほどまでの深刻さはないものの、やはり口が重くなるのは否めない。
 無理には聞き出さないと、セレスティは心に決める。
 『そうですか。…しかし戒めと仰っても、もうそろそろ直しても宜しいのでは?』
 『それは…』
 『君は十分に、それを胸に刻んでいるのでしょう? それでは、もうその様な傷を残しておく必要はないかと、私は思いますよ?』
 『しかし、わたくしめに直す手だては御座いませぬ』
 では…とセレスティが提案しようとした矢先、涼やかな鈴の音が店に響いた。



 「悪かったね。留守番なんかさせて」
 入ってきたのは、この店に自分を連れてきた店主、碧摩蓮だった。
 「いえ、大変楽しい時間を過ごすことが出来ました。お礼を述べさせて下さい」
 一体何処が楽しかったのだろうと、兎月は思う。ただ自分の話を聞いて貰っていただけなのに。
 「なら良かった」
 コートをそこら辺に放り出すと、自分の乗っているテーブルに蓮が着くのが解る。
 「お話があるのですが、宜しいでしょうか?」
 その蓮が、煙管を取り出したのを見計らった様に、セレスティが声をかけた。
 「何だい?」
 「これは私が購入致します」
 穏やかに、店主蓮に向かって言うセレスティ。
 対する蓮は、何時もの如く妖しげな笑みを浮かべて答えた。
 「勿論、あたしに否やはないさね」
 ふうと煙管を一服。
 「この皿から何を聞いたかは、知らないけどね。これが何かと納得してくれる客を無碍にする程、あたしは偏屈でもないからさ。持ってお行き」
 「有り難う御座います」
 軽く会釈したセレスティは、次はとばかりに兎月に向かった。
 「私と共に行くのは、お嫌でしょうか?」
 セレスティは、そう優しく微笑む。
 その暖かな笑みは、兎月の心を暖かくする。
 未だその身は皿である為、沸き立つ何とも言えない思いに涙することは出来ないが、それでも兎月の心は嬉しくて嬉しくて涙を流さんばかりになっていた。
 こうして自分を欲してくれる人がいる。
 追われたことも、一人で寂しかった時も、もうこれで終わりになる筈。
 『暖かき御言葉、この兎月、大層嬉しゅう御座います』
 そう答える兎月に向かって、更にセレスティの言葉は続く。
 「私の屋敷には、修復が得意な者がいることですし、購入して、是非とも完成した姿を見せて頂きましょう」
 兎月に見せたその微笑みは、この世の者とは思えぬ程に、美しく神々しく、そして何よりも慈愛に満ちていた──。



Ende



PCシチュエーションノベル(ツイン) -
斎木涼 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年11月15日

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