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『廻風 』
ぺんぎん・文太2769


 波はひたすら穏やかである。
 このところ嵐があったと云う話は聞かぬし、一月ほど前通り雨がさっと来て、それきりのこの土地は寧ろ乾き大海を臨むに関わらず水の恵みはどうやら少なし。そこにやはり乾いた風に煽られて猛と火がこの近くのひとつ山を焼き切ったそうである。海を渡り浜に着いて吹き上がる風の含む匂いは、水のそれよりべったりとして、だと云うに人の咽喉の渇きを益させて容赦なく村の隅々を通っている。
 汀――波寄す砂浜、その一角に。たぷんと水音間近に聞き、体中にはざらざらとした砂の質感を貼り付かせて、まあるい墨色のもののけは、倒れていた。傍には真中で無理矢理に裂いたような板の切れ端あって、もののけと共に此処へ流れ着いたものらしい。何か細工の跡も見られるが、ほんの部分のものらしく、海水に長く浸かっていたせいもあり既にその板が何であるかは知ること能わず。もののけの方も、藻の乗った嘴の先端を砂に潜らせて、先程から動く気配は無い。否、呼吸はしている。身に生えた毛が風にそよそよと、強く吹き付ければ思い出したように眉間の皺が深まって、それを何度か繰り返すと、八度目に漸くもののけは覚醒した。両翼をぱたぱたやって、地面の感触確かと知るや、大分深く掘っていた嘴を引き抜き口腔に入った砂粒をぺっと吐く。それで嘴を閉めても間にじゃりりとしたから、もののけはきょろきょろ周り見て、水の在り処を探した。あった。水は眼の前に大量にあるのだ。もののけは腹這いのまま脚から海へ入り全身の砂を海水で以って落とす。水は冷たかった。以前はもっと温くて水も美味かったのに、ともののけは茫と思う。どうも鹹さが過ぎる。波は引きに転じたとみえ、水面に浮かぶもののけは小島の如くぷっかと揺蕩っていた。
 ――さて、以前とは、何時何時の。
 己が思いの頼りなさは、今に始まったことではない。
 ――今。
 もののけは、不意に目を瞬いた。高い波が身を揺らし、腹に顔にその眼にも被って、沈み掛けもした。併し慌てず耳許にこぽこぽと聴きながら、自然再び水面に出でるを待つ。
 ――今は、何時だ。
 水の味は酷くはっきりと、海流に遊ぶ身は酷くぼんやりと。
 ――此処は、何処だ。
 ――何時、何処、如何。
 と来れば、我は何ぞの、と続き掛け、その時、もののけを下からぐいと押し上げる水の動き、はっと嘴は人界の糧を吸った。
 海である。我である。今此処に在る。
 もののけは脚を使い水を蹴った。反転してすいと進む。泳ぐ進む。浜に着く。身震いする。暫く思案して――ああ、腹が減った、とやっとそれらしいことを思えた。もののけは、何故今、此処に在るのかは分からぬままである。それでも憶えておらぬと片隅で、何かもやもやしている気配もあったから、屹度忘れたのであろうと納得した。ただ、今この時、もののけは腹が減っている。ならば為すべきことは明確で、そのためにもののけは浜へ上がって右に左にと傾きながら進み始めたのである。腹が減った。食い物を探せ。つまりは。
 往かねばならぬ。
 砂はやがて草となり土の地面となって、直ぐに乾いた脚でぺたぺたと地を踏み締めては特に当てもなく前へ前へと歩いた。無論樹木などは避けていたと思われるが、真っ直ぐ行けば漁村が見えて、それにも拘らずもののけはぺたぺた、近く家の軒先で網を繕っていた老齢の漁夫が、聞き慣れぬ足音にふいと視線上げ、暫し呆然とした。併しもののけは気にも掛けぬ。その背後で漁夫が何事か喚いて慌しく走り去る音あったが、やはりもののけはぺたぺた。小さな漁村である。間もなく村を突っ切って、もののけはそのまま山に入った。ちょうど、もののけが窪地に差し掛かった頃、村では男衆が寄り集まって、その姿を捜していたが、疾うにもののけは去った後である。爺が惚けた、とそういうことになって、幸い山深くまでもののけ捜しは行われずに済んだ。何方にしろ、もののけの知らぬことではある。
 山は小さかったが、背丈の短いもののけにはそれより草の生い茂る様が邪魔に思えて、迂回を繰り返すうち、自分が何をしているのか何方から来て何方へ向かおうとしていたのか、幾度も忘れ掛けた。けれども空腹感だけは常に覚えて、その眼は食べ物の形を探している。暫く行くと、不意に頭に何か乗った心地して、ふるふると頸を横振りに、はらりと舞い落ちたは黄の眉色にも負けぬ鮮やか紅葉。ふと気付けば一面紅い、朽ち葉の床と化して、彩りが眩しいほどである。ほう、と頷くように息吐いたが、今はそれより先ず食い物であった。樹々の狭間から射す光さえほんのり色付いてもきたようだ――もののけは急ぎ足になって、ずんずん山を進んでゆく。伴う景色は段々と褪せて降る光もくすんで、足下には薄ら影が纏わり付く。陽が落ちたと云うだけではない。かさこそと触れ合った落葉も、何時の間にか土混じりとなり、頭上を覆う葉も枝も見当たらぬ。ただ痩せ細った幹に、僅かながらの枝がひょろひょろとあるのみである。枯れ山に入ったようだ。もののけは引き返すべく、くるりと振り向いた。併し宵に沈んだ辺り、立枯れの木が連なる先、黒く巨大な、彼方此方好き勝手に腕を伸ばした山の形は遠い。此処からでは戻っても、既に真っ暗、食べる物は見付かりそうにもない。朝まで待つか、そう思うと、尚更腹は空くものである。腹の白い毛を一撫で二撫でし、もののけはその場に坐り込んだ。蒼い月がやって来て、夜気が麓からじわじわ上ってくる。裸の山の天辺の、枯れた大木の枝に梟が休み休み啼いている。遮るもののない風が、もののけに当たって過ぎてゆき、びょう、びゅう、と哭く。せめて山に棲む生き物が、近くに居れば食べ物の有無を訊けたものだが、此処には、尋ねるまでもない。故に生き物の気配が無いのだ。もののけは、
「腹が減った」
 と、一言落とした。
 声は発した途端に空に馴染んで、消えてしまったようだった。まったく響きもせず、夜のしじまを一瞬揺らがせただけである。応える声も気配も無い。手持ち無沙汰にぼんやり、まるで仙客のように、嘴をぱくぱく開閉させて、ひんやりとした夜風を食んだ。しっとり水気はするものの、腹は一向に満たされぬ。逆に渇いたようにも思う。もののけは嘆息して、ついと空を仰いだ。月光が皓々さらさらと星光をも纏って、流れてゆくのが見える。雲は影も無い。此処にはもう何も無い、もののけは心寂しい枯木がぽつぽつあるなかの、殊更低い樹の一本になってしまった気がした。もう寝た方が良いのかもしれぬ。ころん、と仰向けになって、かぱ、と口を開いたまま、目を瞑った。尤も、もののけの目はとても細かったから、傍目には変わらず、眠ったようには見えなかった。丸い腹が、それだけは幸福そうに、息吸うたびに膨れる。静かである。澄んだ耳にも、特別興を惹く物音は届かなかった。――だから、もののけはそれに、酷く驚いたのである。
 突然口の中に、甘い風味が広がった。眠りに落ち掛けゆめうつつ、夢にて果実でも齧ったかと、嘴閉じてもごもごやった。じんわり甘みは広がって、これが大層美味である。旨い、旨い、と満足げ、ふうと口を開けるとまた一雫が落ちてきて、益々満たされまた夢心地。そうして共に目も冴えてきて、まどろみはすっかり追い遣られ、ああ、夢なら醒めては、と惜しく思ったのであるが、どういうわけか、口中の味だけははっきりしている。不審がって目を開く。暗かった。雲でも出たかと眇めたら(細い目のことだから、やはり変わらなかったが)、眼前に、顔があった。
「――ああ、起きたよ。君、君だろう? 腹を空かせていたのは」
 顔はそう喋った。
 もののけは、恐らく今までで一番大きく、嘴を開けた。もし今の顔を、もうひとり自分が居て、其奴が見ていたとしたら、こんなに開くものなのか、どれだけ一度に食べ物に齧り付けるかしら、と思ったことだろう。もののけは、硬直していた。驚駭したのである。
「何だい、君。腹が減っているのじゃあないのかい。それとも酒が拙かったかな」
 顔は頸を傾げながら(ここに至ってもののけは、顔には頸も胴も脚もあることに気付いた。人間の男のようである)、手に持った竹筒を振った。中でぱしゃんと水の清かなる音。もののけはごくんと咽喉を鳴らす。男は、やはり、と笑って、筒をもののけへ渡した。もののけの手と思しき部分は丸く、指なぞなかったが、器用に包み込むようにして受け取った。男もそれを知っていたようである。
「腹も減っているのだろう。これを食べるといい」
 男は懐から小さな包みをふたつばかり取り出して、もののけの前へ開いた。中身は白い饅頭で、もののけはそれを見れば今度は腹がぐうと鳴る。男はまた笑った。
「――お前の分は」
 もののけは酒を飲み下すと、饅頭をひとつだけ手に取り、男を見上げて問うた。男の懐の膨らみはもうなく、饅頭はふたつだけなのであった。
「ああ、君は優しいのだね。大丈夫、私は元より腹が空きにくいのだよ。こうして食べ物を持ち歩いているのも、誰か欲しい者に分け与えるためなのさ」
「では、我はひとつで」
「おや、いいのかい。君は体が小さいけれども、どうやら随分疲れているようだ。ふたつでも、足りないくらいじゃないかしら」
「分け与えるのだろう。ならば片方は他の、腹を空かせた別の奴にあげるが良い」
 もののけはそうして、男へ礼を言ってから、饅頭を口に運んだ。先に呑んだは美酒なら、後は佳肴。程好い甘みにやわらかさ、堪らず二口三口と齧り付く。その間、男はもののけの様子を微笑ましく眺め、返された饅頭を元のように包んで懐へ戻した。
「それにしても、珍しいものだね。こんな処で、君のようなもののけに逢えるとは思ってもみなかった」
 もののけ、との言葉に、饅頭を飲み込んだもののけは顔を上げる。
「我らのことを知っているのか」
「知っているとも。私がこの世に知らぬものはないのだよ。人間と違って、己が知らぬことは相手も知らぬことと、それだけに止めず、私はすべてを知る者なのさ」
「お前、人間ではないのか」
「君も、人間ではないだろう?」
 男は微笑に問いを問いで返して、もののけの横に腰掛けた。男はゆったりとした、緑青の衣を羽織っており、坐ると地にふわりと広がって、闇に落ち枯れた辺りが、少しばかり緑を取り戻したようにも見えた。
 もののけは饅頭を食い終えて、締めにくいと酒を呷る。男が与えたそれらは、もののけが今までに口にしたどれよりも美味いもので、併し不思議と後を引かず、ただただ微かに福なる心地がすうと曳くばかりである。もののけは、うむ、と倖せに頷いた。
「忝い」
「何、ちょいと仕事の途中で、行き倒れのもののけを介抱しただけのこと」
 男の声音はどこまでも柔らかく、もののけの声を吸い込んだこの夜にあっても、確かに在るのだと安らかに思える。
「それより、君、どうして此処へ? 随分と、遠くまで来たものじゃないか」
「遠く。遠く、と。そうか、我は遠くまで来たのか。どうにも物の覚えが悪くてな。何処から参ったか、憶えておらぬのだ」
「そうかい。成程。それで、君は其処へ戻りたいのかい?」
「……戻った方が良いのなら」
「難しいね。それが良いか悪いか、私は答えを言えはしない。良いとも悪いとも、良くないとも悪くないとも、それらは本のちょっとのことで、君にとっては変わるだろう。その実、何も変わってはいないのだけれど」
「お前の言うことの方が難しい」
「ハハ、本来は、言葉に成さぬことだからね。私も、こうして喋ること、否、姿を見せること自体、酷く久しいのだよ」
「ほう。では何故、我の前には」
「君が腹を空かせていたからさ」
「お前こそ、何故此処に?」
「私は偉い人のお使いで、この地にやって来たのだよ」
「偉い人?」
「そう、とても尊い御方だ。もう少しでその用も終わる」
 男は言いながら、いとおしげに、山膚を撫ぜた。不意に優しい風が、男ともののけの間を過ぐ。
「――そうしたら、私は『ふだらく』へ帰るのさ」
「ふだらく?」
「ああ、もうすぐ。もうすぐで、済むんだ」
 もののけは、男の言うことがもうさっぱり分からなくなっていた。でも男は、それを知っているかのように(そして知っていて、敢えて言わぬのだとでも云いたげに)、ずっと微笑を湛えたままであったから、もののけも何となく、そう云うことなのだ、と了解して、それ以上は訊かなかった。またそれには、別の理由もあって、もののけは、眠かったのである。腹が膨れれば、次に眠りが来るのは常のことで、その上、段々と暖かくもなってきたような気もして、うつらうつらと、いつの間にか寝入ってしまったのだった。

 次の日、もののけは、てらてらとした木洩れ日に眼を射されて、ゆっくりと目覚めた。此処は何処だ、と思いながら、辛うじて、昨晩の男のことを憶えていたから、ではあの枯れ山か、と起き上がった。併し、先程の光は木洩れ日である。坐り込んだもののけを包むように、殆どの陽光を遮っているのは、青々とした樹木であった。もののけは頸を傾げ、また自分は何か忘れたのかしら、と辺りを見渡したけれど、遠景は夜の帳を除かれただけで、憶えのある形をしていた。どうやら場所は違ってはいないようである。それでも何だか落ち着かぬもののけは、試しに立ち上がって、山を半周でも歩いてみることにした。少し行っただけで、此処は間違いなく昨日の枯れ山であると知れた。もののけが寝ていた場所を離れると、まだ枯木が残っていて、けれどその数は、もう幾つもない。どういうわけで、とは不思議がったが、それよりもののけは、やはり腹が減ったので、今度こそ食べ物を探しに戻った。小さな赤い実が生っていたので手折って食んでみた。少し酸っぱい味がした。
 その次の日は、男が近くを通った気配で目覚めた。用は済んだのか、と尋ねたら、明日かな、と答えが返ってきた。
 そのまた次の日には、小鳥の囀りで目覚めた。鳥も、獣も、山へ戻ってきたようである。もののけは、男が今日と言っていたから、もしかして、と、山をぐるりと廻ってみた。もう枯木の姿は見られず、代わりに周りの山々に負けぬほど、山は山としていて、緑が溢れていた。この季節は、葉が染まる頃だから、それに合わせて、染まる樹は赤の紅の黄の衣を纏って、ちゃんと色付いていた。もののけは、男を捜して、ちょうど、隣山へ繋がる辺りに、その姿を見付けた。
「終わったのか。終わったのだな」
 もののけは、繰り返した。
「ああ、終わった。終わったよ。戻ったんだ。これからだね」
 男も同じように繰り返して、数日前までは枯れていた山を眺め、嬉しそうに眼を細めた。その手には、枯れた枝が一本ある。
「それでは、帰るのか。その……」
「そうだね、戻るとするよ。『ふだらく』に」
 ゆっくりと「ふだらく」なる場所の名を言って、男は手の内の枝をもののけへ差し出した。もののけが何も言わず受け取ったのを見ると、男はその指先で、枝をそっとなぞって、小さく笑った。すると、枯枝は突然息を吹き返したように、その端から端へ見る見る本来の枝色を取り戻し、その先には、小さな白い花をも咲かせてみせた。
「君はこれから、何処へ?」
「……当てなく」
 そうかい、と男は頷き、
「特に行く場所がないのなら、いつでも遊びにおいで」
 最後にそう言い残して、山を去った。

 それからもののけが、山を出たのはまた数日後のことである。
 その間、山中で果実やら茸やらを食べながら、もののけはこれからのことを考えていた。何処から来たのか分からぬのなら、何処へ向かうかも分からぬのだ。ならば男が言ったように、とりあえずの行き先にでも、向かってみるのも良いかもしれぬ。そう考えて、もののけは、ゆらゆらと左右に揺れながら、男に遅れること数日、出立したのだった。

 微か潮の匂い混じる風。
 順風。
 もののけの旅路は、これより始む。

 向かう先は――ふだらく。


 <了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
香方瑛里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年11月15日

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