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『空の涯てる場所へ 』
セレスティ・カーニンガム1883)&ヨハネ・ミケーレ(1286)


    ?T

 雲が向かうその先に、空の果てがあるのだと思っていた。
 ゆったりと流れるうろこ雲が遠近法を構成している、そのさらに先、歩けども辿り着けないような遠くで、世界は終わっているのだと思っていた。
 終わりなどないことを、今は知っている。
 世界を限定しようとするその行為が想像力を狭めているだけ。神の御業に果てはない。
 それに比して人間は有限であり相対だ。
 そんな僕達にも、到達できる高みがある、とヨハネ・ミケーレは思う。取り立てて、彼の敬愛するヨハン・セバスチャン・バッハの音楽に触れているときに。
(死して尚、大バッハの遺したこの音楽は生きつづけているんですね)
 ――そう、僕が生かしている。僕が死んでも誰かが生かしつづける、と。
 オルガンの音は伸びやかに、聖堂の隅々まで響き渡る。
 パイプを通り抜けていく空気の振動一つ一つを確実に捉え、聴覚から入ってきた情報を視覚化する。頭の中の譜面に書かれた音符を、一音ずつ丁寧に読み取っていく。
 オルガンの重厚な音は腹の底に響くようでありながら、魂を優しく包み込むような安らぎに満ちている。
 曲が終わり、鍵盤から指を離すと同時に、オルガンの音はふっと途切れた。
 一秒にも満たない残響を十秒は噛み締めた後、
「お見事ですね、ヨハネ君」
 ――はじめてヨハネは、来客の存在に気づいた。
「えっ? あ、セレスさん!?」
 聖堂の入り口に立っていたのは、それこそ一瞬神の使いがやって来たのかと疑ってしまうような、絶世の美の持ち主だった。
 名をセレスティ・カーニンガム。リンスター財閥創設から変わることなく総帥の地位に立つ青年である。
 秋らしい枯葉色のスーツに、銀色の髪が美しい対比を成しており、口元に浮かぶ微笑は涼やかだ。弱視の瞳は、光をほとんど捉えられないにも関わらず、湖面のように澄み渡っている。
「コンサート・ピースではありませんが」と青年は拍手をした。「――天のお父様と、貴方がヨハネ君にお授けになった才能に」
 ヨハネは恐縮してぺこりと頭を下げた。
「すみません、気づかなくて……」
「いいえ。演奏を存分に楽しませていただきましたよ。やはりバッハに始まりバッハに終わるというだけのことはありますね」
 魂に触れる音楽とでもいうのでしょうか、とセレスティ。
「はい。バッハの音楽は素晴らしいと思います。僕の信仰心は、あるいは彼の音楽と共にあるようなものなのかもしれません」
 言って、若き神父は顔を綻ばせる。
「まったくですね」不意に、第三者が割って入ってきた。ヨハネの師匠にあたるこの教会の神父が、どうも私は理解しかねますが、という表情で立っていた。「大変結構なことですが、聖堂にこもってオルガンばかり弾いていないで、君は少し下界の世知辛さを知るべきだというお話を、セレスティさんとしていたところですよ。祈り、働け。それも悪くありませんが、たまには、祈って、遊んでみてはいかがでしょうか?」
「……師匠、魔が差したんですか?」ヨハネはぽかんとした顔で、師匠の顔を見上げた。「祈り働けの『働け』、の部分は、主に師匠がおサボりになった聖務が、僕に回ってきたもので――」
 そんな師弟のやり取りを見て、セレスティはくすくすと笑みを零す。
「そういうわけで、今日は私がヨハネ君をお借りしようと思うのですが。よろしいですか?」
 セレスティはヨハネの師匠に同意を求めた。
「それとこれとは別問題です」と、金髪碧眼の枢機卿はにべもなく言い放った。「私のサボタージュのおかげで、ええ、ヨハネ君には片づけなければならない仕事が山のようにありまして」
「まあ、そうおっしゃらず。――洋菓子をお土産にお持ちしますが?」
 甘党神父は、む、と一瞬黙った。すぐにころりと態度を変えて、
「わかりました。売りましょう」
 あっさりと同意した。
 弟子を洋菓子で売り飛ばすんですか、師匠。とヨハネはちらりと思った。
「ええ、では遠慮なく。表に車を待たせております」
 セレスティはヨハネの僧衣姿を見てから、ふむ、と考えた、
「――まずは洋服を揃えましょうか」
「え?」ヨハネはきょとんとした。
「秋物をコーディネートしましょう」
 彼の朗らかな笑顔は、それこそデートの待ち合わせをしていた少女のように愉快そうだった。聖堂の出入り口で、ヨハネの師匠殿がいってらっしゃい、と手を振っていた。


    ?U

「着せ替えのし甲斐があるというものです。ヨハネ君は何でも似合いますねぇ」
 都内の洋服屋。試着室の前。
 慣れない格好をさせられて、ヨハネははぁ、と頼りない表情で己の出で立ちを見下ろした。
「あの……変じゃありませんか?」
 ヨハネは消え入りそうな声で言った。
 十九歳の若者に相応しいカジュアルな秋物だが、見立て役がセレスティだけあって、爪先まで洗練されているという感じだ。年頃の女性達を魅了するに足る異邦の血を引いた端麗な顔立ちに、すらりとした長身。なるほど確かに、
 ――聖堂でオルガンなんか弾いて青春を無駄にしている、と言われても仕方がないかもしれない。
 が、普段から僧衣服に身を包んでいるヨハネはどうしても落ち着かない。なんだか決定的に場違いなところにいる、という居心地の悪さすら感じている。
「かっこいいですよ、ヨハネ君。それでいきましょう」
「か、かっこいいですか……?」
「ええ、ばっちりイケてます」
「イケ……?」
 セレスさん、うちの師匠みたいに知らなくても良いような日本語をお使いにならないで下さい。僕わかりません!
 ちょっと困っているヨハネを横目に、そのまま服を着ていく旨をセレスティは店員に告げる(ちなみに見立てを手伝ってくれた女性店員は、ヨハネにうっとりしていた)。他にも一通り秋物を見繕ってやり、クレジットカードで支払いを済ませ、教会にお届けするように、と運転手へ渡す。
 二人の異邦人は、あからさまな好奇の視線を浴びながら店を出た。余計に落ち着かないヨハネである。
「デートのときは、お仕事の服装よりは恋人に合わせたほうが好印象を抱かれますよ、ヨハネ君」
「デ、デデデート? こ、恋人?」
 バッハについては舌滑らかに語るヨハネがデートの一単語にしどろもどろしている様子は、セレスティの微笑を誘ったようだった。
「恋愛事情に色々と悩むお年頃でしょう?」
「ええっと、あの、れ、れんあいですか?」
「隠しても無駄ですよ、ヨハネ君。君のお師匠様から色々と伺っておりますから」
 師匠。貴方って人は、可愛い弟子だろうが魂だろうが甘いものがあれば売り飛ばしちゃうんですね。
「でも、あの、完全に僕の片想いっていうか……」
「脈はあるのでしょう?」
「彼女は誰にでも優しいですから……」ヨハネは小さく溜息をついた。「僕も恋愛のことなんて良くわかりませんし。神の愛とも、隣人愛とも、少し違うんですよね……。どこがどう違うのかわかりませんけど……」
「私にも覚えのある感情ですよ」
「え、セレスさんも?」
 セレスティは内緒です、というように唇に人差し指を当てた。
「人は恋をせずにはいられない生き物です。お仕事がろくに手をつかなくなることも、ありますでしょう? 特にこんな切ない季節には」
「そうですね。ふと空を見上げたときとか……。この空の下のどこかで、彼女が僕と同じように呼吸をしているんだなぁと思うと――」
「無性に会いたくなりますよね」
「はい」
 ヨハネは照れくさそうに頷いた。
「それなら会える日一日一日を、大切にしませんと。次に会うときは、気合いを入れてお洒落していくんですよ、ヨハネ君」
「お洒落……」
 ヨハネは着飾る機会になどそうそう恵まれない日常を思い出して、そこはかとなく空しい気持ちになった。
「思えば、たまに会ったときも、それほど気の利いたことはしていないかもしれません……」
「それでは今日は、デートの予行演習ということにしましょう」セレスティは口元に笑みを刻む。「私がヨハネ君の恋人役です。さて、ヨハネ君、次はどうしますか?」
「え? えーっと」
 急に問われて、ヨハネはどもった。少し考えてから、
「……じゃあ、喉、渇きませんか? その、お茶をしながら予定を立てたりとか……」
「ええ、そうしましょう」
 そんなわけで、二人は喫茶店で今後の予定を立てることにした。


    ?V

 喫茶店でお茶を楽しんだ後に、軽くウィンドウショッピング、CDショップに立ち寄って古典音楽談義を交わしたり、最近駅前にできた甘味処を冷やかしたり、などといった定番デートコースを楽しんでから、二人は本日の締めくくりにとコンサートホールへ向かった。
「気分転換にはやはり音楽鑑賞ですね」とは音楽好きのセレスティの言。
 趣味が高じて楽団を所持しているセレスティや、音楽指導に携わるヨハネにとっては、クラシックコンサートのチケットは高いものではない。書店で雑誌を立ち読みして目星をつけてから、ホールへ向かった。
 ブランデンブルグ協奏曲の当日券を取った二人は、開演二十分前に三階席へ上がった。
「こんな後ろの席は久しぶりです」後ろも後ろ、オーケストラ・ピットの全体も見渡せるかというような席から下方を見下ろし、ヨハネは言った。「リハーサルを見学するときくらいかな」
「今度私の楽団のリハーサルにご招待しましょうか?」
「それは豪華ですね。あの、セレスさんのホールを見学に行っても良いですか?」
「ええ、もちろんですとも。音楽指導に携わるヨハネ君には、完成前のステージから得られるものも多いでしょうしね。その代わり、今度ヨハネ君の聖歌隊を見学させて下さい」
「それは、少し恥ずかしいです」
「今度お師匠さんに掛け合うことにしましょう」
「またケーキで売られちゃうんですか、僕?」
 そうですね、とセレスティは笑った。
 セレスさんとご一緒するのは楽しいから大歓迎ですけど。
 そんな他愛ない話をしているうちに、開演を告げるブザーが鳴り、楽団が舞台袖から入ってきた。コンサートマスターが立ち上がってラの音を弾き、音合わせが始まる。クラシックコンサートで一番血の騒ぐ場面はなんだかんだいってこの瞬間かもしれない。開演前の一時だ。
 指揮者が入ってくる。一斉に沸き起こる拍手。すぐに訪れる静寂。
 指揮棒が振り下ろされると同時に静寂が破られる。ヨハネは、吸い込まれるように聴き入る。
 ブランデンブルグ協奏曲の第五番。
 第一楽章はアレグロ。リトルネロから、フルート、ヴァイオリン、ハープシコードのソロヘ。
 ハープシコードのコンスタントな音色を聴きながら、ヨハネははじめてオルガンに触れたときの出来事を思い出している。彼の音楽の才を見抜いた神学校の教師が、ヨハネにオルガンを弾いてみてはどうかと勧めたのが最初だった。
 彼の身長より遥かに高い、そびえ立つようなパイプオルガン。聖堂の壁面を占める巨大なその楽器は、神々しく、その神性さ故に少し恐ろしかった。巨大な機械を連想させるせいもあったかもしれない。
 その巨体からは考えられない鍵盤の軽やかな感触。与えられた楽譜通りに弾くと、楽器が応じるようにバッハのフーガを謡い――、
 酷く感動したものだった。
 人の力では到底御することのできないように思える楽器が、ヨハネの指に応じてあれほど美しく深い音色を発する。神様の楽器だ、と思った。思えばその感動に取りつかれて、自分の信仰はより深いものになったのではなかったか。
 信仰に疑問を差し挟む余地などなくここまで来てしまったけれど。
 途切れることのないハープシコードの音色は、果てのない神の御業を想起させて。
(僕が信じられる『音楽』の他にも、果てのないものがあるのだとしたら――)
 例えば愛情の深さは底をつくことがないのだろうか。
 そんなことを、考えた。


 盛況のうちにコンサートは終わり、セレスティとヨハネは、すっかり満たされた気分になってコンサートホールを後にした。もっともヨハネは、気分転換のつもりが少し考え込んだりしてしまったのだが。
「素晴らしかったですね、ヨハネ君。今日はバッハ尽くしですね」
「生で宗教曲以外の楽曲に触れたのは久しぶりです」
 ヨハネはセレスティに笑顔を向ける。
「満足していただけたようで何よりです。――けれど、気分転換にはなりませんでしたか?」
「えっ?」
 思わぬ言葉に、ヨハネは狼狽した。
「難しい顔をしていましたよ、ヨハネ君」
「参ったなぁ……」
 見破られるとは思わず、ヨハネはもごもごと口ごもる。
「愛しい彼女のことでも考えていたんですか?」
「ええっと、その……」ヨハネは頬を赤くした。「ちょっと、考え事をしてしまって」
 セレスティは無言でつづきを促した。
「僕の場合は、その、音楽が日常の一部になっていますから……、音楽には果てがないって、そんな風に思うんです。……人を好きになる気持ちも、音楽と同じくらい深いものになり得るのかな、なんて考えてしまって」
「私はそう思いますよ」
 セレスティは穏やかな微笑を浮かべた。ふと、空を見上げる。
 果てなき空を。
「長い時を生きているからこそ……、たくさんの死や、悲しい出来事に直面します」
 長い時、という言葉に何か重い意味合いが込められているように思い、ヨハネは黙り込む。
「争いは絶えることなく、愚かなことと知りながら何度も同じ過ちを繰り返し」
 ヨハネはセレスティの視線の先を追って、同じように空を見た。
「裏切り、裏切られ、それでも懲りることなく人は愛を語り合い、音楽を奏でます。――そんな彼ら一人一人に対して、空は平等に美しいですよ。いつの時代も」
 セレスティは、そんな『私達』に対して、という言い方をしなかった。
『彼ら』。どういう意味かと問うことはしない。
「僕は、空には果てがあるのだと思っていました」
「もし果てがあるとしたら、行ってみたいですか?」
 セレスティは相変わらずの、穏やかな顔で問う。
「難しい問題ですね」とヨハネは首を捻る。「世界の終わりに行きたい、というのは、僕の信仰心に反する発言のような気がします」
「時には信仰に反発してみるのも良いかもしれませんよ。――なんて言うと、ヨハネ君のお師匠様に怒られてしまいますね」
「あはは。師匠は、盲目的に信じるだけが信仰ではないなんて、良く言っています」
 ヨハネはすっきりとした気持ちで、両腕を大きく広げた。秋の凛と冷えた空気をたっぷり吸い込む。
「気持ちが良いですね」
 セレスティの長い髪を、秋風がさらった。
「はい、とても」
 薄っすら広がるうろこ雲は、存在しないはずの『果て』に向かってゆったりと流れる。
 雲が向かう先を目指すとしたら、それは終わりのない旅になるだろう。
 人生って、そんなものか、とヨハネは思う。
 その長い旅路を愛する人や音楽と歩めたら、それはとても幸せなことで。
 イエスは、きっとどんな時も共にいて下さるだろう。

 秋の空は遠い。



fin.
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
雨宮玲 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年11月01日

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