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『濁雲 』
加賀島・樹乃4013










夕暮れの冷ややかな空気が、其れでも颯々(さつさつ)と金色の少年の髪を弄ぶ。
其れを軽く右手で纏め上げ、かきあげる形で少年は髪を押さえる。見据える先は──唯只管目前にと広がる、海。否、海と呼ぶ事すらも烏滸(おこ)がましいか。少年──加賀島・樹乃は、海と呼ぶ価値すら無いほどに濁った東京湾を、そう思い見詰めた。

雨を含んだ大気と空気、そして仄かな水の匂い。もう直ぐ雨が振るだろう──東京湾という大量の水を前にしても判るほどの生々しい水の匂いは、明らかに雨雲の齎(もたら)す物だ。其の証拠に、空には濁った灰色の雲が一面に浮かんでいる。

「……この濁りが、東京そのものを現しているのかもしれませんね……」

東京湾に浮かぶ大きな貨物船、其のブリッジの手摺りに凭(もた)れ掛けながら、樹乃はそう呟いた。

一見すれば、極普通の貨物船。だけれど其れは表の姿だ。無機質な貨物船と言うカモフラージュの裏には、イタリアマフィアの密輸船という名目が控えている。乗せられた無数の武器や麻薬──そう言った非合法品の多さが、如何(いか)に東京と言う街を現しているか。其れは誰にとっても一目瞭然の事柄であって。

濁り切った東京湾。其れに浮かぶのは、樹乃が搭乗している貨物船のような無機質な船ばかりだ。魚すらも逃げてしまったであろう産みの水は、船体に当たっては撥ね、当たっては撥ねを繰り返しながら、其れでも又暗い水の中へと同化して行く。

何て、汚い──樹乃は顔を歪め、水面から視線を背けて其れを水平線に遣る。夕暮れと冴えた空気の中、水平線に融けて行く太陽は喩え様も無いほど美しい。色が織り成すグラデーション、水面に描かれる半月の赤。だけれど其の赤を描き出す水は、この汚らしい海と同一の其れだ。



(何故、こんなにも東京は汚いのでしょう……)



足元に擦り寄ってきた猫を抱き上げ、其の暖かな体を愛でてやりながら、樹乃はそう思う。イタリアの海は、もっと美しかった。自ら輝きを放ち、太陽の輝きすらも跳ね返すほどの煌びやかさ。夕暮れ時には一面に染まる海──だけど、其れが此処には無い。

「……需要が増えたのも、此処最近でしたね」

ふと、猫を抱きながら樹乃はブリッジを振り返る。幾つも積み上げられたコンテナの類いは、此処数年で急激に増えた。以前は其れ程需要の無かった武器や麻薬も、同じく此処数年で急激に其れは増えている。

嗚呼、海は人の心をも反映するのだろうか。──ふと、樹乃の中にそんな疑問が浮かび上がる。だけれど其れは酷く朧げで、考えている自分すらも自信を無くしてしまうほど小さなものだ。
にゃぉんと鳴いた猫をあやしながら、樹乃は其の朧な疑問をそっと、手繰り寄せる。まるで蜘蛛の糸でも扱うかのような──其れ程丁寧に。



(昔であれば、この水すらも綺麗であったのだろうか──?)



見下ろすのは、濁った水。打ち返し、跳ね返り、又没んで行く──暗く深く冷たく、そして濁った水。

考える樹乃の頬を、ぴた、と冷たい水滴が打つ。漂っていた雨の気配がとうとう動き出したようだった。彼の腕の中で大人しくしていた猫も、雨を嫌がって其の身を捩(よじ)らせる。

ブリッジで荷物を運んでいたらしき数人の黒服の男性達も、雨の気配に気付くと直ぐに動き始めた。何しろ水分を含ませてはならない荷物が、この貨物船には多すぎる。
黒服の一人が樹乃に声を掛けたが、彼は動こうとはしなかった。猫はするりと其の腕を滑り落ち、軽快な足取りでブリッジを走って行く。だけれど彼は其れすらも追わない。





幼い其の瞳は、じ、と空の曇天を見詰めていた。雨を厭わない凛とした背筋、見据えるのは暗き空。徐々に大粒になる雨を全身に受けながら、其れでも樹乃は考えていた。

「……水が人の心を映すと言うのならば、この雨すらも濁っていることになりますね」

自嘲する────何て、何て馬鹿馬鹿しい。確(しっか)りとしなければ。この船を纏める人物は、ボクなのだから。頼り無い疑問に頭を貸している暇なぞ無いのだから。



そうして、樹乃はゆっくりと視線を水平線に見据える。とっくに沈んでしまった太陽の残滓を其の瞳に映し、酷い雨の中──彼はようやっと黒服の男の呼ぶ声に踵を返したのだった。





■■ 濁雲・了 ■■
PCシチュエーションノベル(シングル) -
硝子屋歪 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年10月18日

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