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『終章―愁傷 』
桐崎・明日3138

 闇の如く黒の世界は、ただ一つの光を待ち望む。
 如何に苦しくとも、如何に哀しくとも、如何に辛くとも。
 いつしか訪れるだろう光を、心より待つことで全てを耐え抜く。
 苦しくとも、哀しくとも、辛くとも……。


「は……ははは……」
 桐崎・明日(きりさき めいにち)は、突如笑い始めた。最初はゆっくりと、徐々に声を上げて。傍から見ると、狂ってしまったかのようだった。
「ははははは!」
 黒髪の奥にある黒の目は、じっと目の前の少女を見つめたままだ。この世の全ての美が集結したかのような、美しい風貌を持つ少女。だが、その少女の目は何も映さぬかのように……または全てを映したかのように、明日を見つめているだけだ。突如笑い出した明日に対し、何も声をかけることは無い。ただじっと、見つめているだけだ。
 だが、明日は構わず笑い続けた。少女の頬に伸ばされた手は、彼女の命を絶つ為に伸ばされたものであったのに、その手が命を絶つことは無かった。頬に伸ばされた手は動かされることも無く、そっと触れているだけだ。
「はははは……ははは……」
 徐々に笑い声を抑えていき、明日はくつくつと笑う。
(そう……そうだったんだ)
 笑いながら明日は思う。笑いは全く収まらない。
(そういう事だったんだ。ああ、そうなんだな……!)
 明日はくつくつと笑いながら顔を上げ、目の前の少女を見つめた。彼女は笑い続ける明日に対し、やはり微動たりともしない。彼女は待っているのだ。明日の手が自らの命を絶つことを。頬に触れた手が自らの命を奪い去ってくれる事を。
(もう、もう駄目だ。もう気付いてしまったから)
 明日は口元で笑ったまま、じっと少女を見つめた。少女の、運命を待つ目が少し揺らいだ。訪れる筈の瞬間が、いつになっても来ない事に戸惑いを覚えたかのように。
(俺は、気付いてしまったんだ。残念だけど)
 明日の目と少女の目がぶつかり合った。全てを悟った目と、全てを拒絶するかのような目。そのどちらもの目は、闇夜のように黒い。
「私を……」
 笑うばかりで何もしようとしない明日に、少女はそっと口を開く。綺麗な形の唇を、少しだけ動かして。
「……殺してください……」
 少女の言葉に、明日は首をそっと横に振った。少女の目が大きく見開き、明日をじっと見つめる。驚きを隠せぬ少女に、明日はただただ口元だけで笑う。
(別に、俺は彼女によって落ちたわけじゃない)
 ずっと、少女によって落とされてしまったと思っていた。彼女の名を呼ぶだけで、落とされたという報復をする為の力が自ずと湧いていくるかのようだった。今まで過ごしてきた生活を奪われたのだと、心から思っていたのだ。
(落ちたのは、自分。自ら落ちたんだ)
 他人によるものじゃない。自分が誘われるがままに落ちたのだ。明日はくつくつと笑う。
(運命という、詐欺師に誘われて)
 詐欺師は落ちた明日に向かって囁いてばかりいたのだ。少女を殺す事が、全てなのだと。少女さえ殺せば、全てがクリアな世界になるのだと。自らの存在を覆い隠したまま、明日を思うように操ろうとしていたのだ。
(だけど、俺は気付いてしまったから)
 運命とやらは気付かれてしまったのだ。操っていた筈の人形である明日に、詐欺師の存在を分かられてしまったのだ。
 革命ともいえる、瞬間であった。
 今まで、目の前にいる少女の存在を、明日のような存在が殺してきた。それは丁度、カセットテープを何度も裏返すかのように。A面が終わればB面に。B面が終わればA面に。運命という名の手によって、繰り返し繰り返し裏返されてきた、変わることの無い事実であった。
 だが、そう何度も繰り返せばいつしかカセットテープは擦り切れてしまうのだ。終わる事の無いA面に、変わることの無いB面が今ここに、確かに存在しているのだ。運命とやらは、さぞかし戸惑っている事だろう。いいように裏返し繰り返してきた行為が、突如泊まってしまった事に。
(ああ、何て滑稽なんだろう)
 少女の目は未だに大きく見開かれていた。少女もまた、運命によって翻弄されてきただけなのだ。来る筈であろうB面を延々と待ち続けて。
(さぞかし滑稽で……おかしかっただろう)
 思い通りに進むカセットテープに、きっと笑っていただろう。今回も上手く行った、と。
(だが……今度はこちらの番だ)
 明日はそっと少女の頬から手を離す。少女に触れていた手は、ほんのりとした温かみを帯びていた。
「あなたは殺しません」
 明日の黒の目が、すう、と色を失っていく。その事に明日は気付かない。
(さあ、始めましょうか)
 口に出す言葉や、思考すら先程までの口調とは全く違っていた。その事に明日は気付かない。
「代わりにこの俺が、最悪らしく最悪に最悪な終わりを見せましょう」
 少女はただ呆然と明日を見ている。訪れないB面が、裏返されないカセットテープが。少女の中に妙な違和感と恐怖感だけを増していくようだった。
(詐欺師も神も予想のつかない……『最悪の終幕』を)
 明日は少女に背を向けた。少女は明日に向かって何かを言いかけ、一歩足を踏み出し……その場に留まった。突如訪れた異なる展開が、少女の中に混沌をもたらしたのだ。
 結局、明日は少女を殺さなかった。傷一つつける事もなかった。
 明日は颯爽と歩いていく。今までとは違う世界が、明日の前に広がっていた。ふと壁に掛かっていた鏡を明日は覗き込む。
「……ああ」
(今までと、景色が違う訳ですね)
 明日は鏡の中の自分とくつくつと笑いあった。鏡に写る明日の目は、黒から銀へと変わっていたのだ。
「いつの間に変わったんでしょうかね?」
 明日はそう呟いたが、返答が欲しかった訳ではなかった。別にいつ変わったのであろうと、どうして変わったのであろうと、どうでも良かったのだ。
 明日の心を占めていたのはただ一つ、自らが呼び寄せる『最悪』だけ。ただ、それだけなのだ。
「そのために、終わらせたんですし」
 明日はそう呟き、再びくつくつと笑ってからその場を後にした。
 こうして小さな戦争は、曖昧と混乱と混沌の中、終わってしまった。否、終わったのではない。明日の手によって終わらされたのだ。
 全ては、詐欺師も神も予想のつかない『最悪の終幕』を引き寄せる為に。


 明日の目の前に置かれたチョコレートパフェの容器は、すっかり空となってしまっていた。だが、目の前に座っている零のチョコレートパフェの容器は、あともう少し中身が入っていた。つう、と零のチョコレートパフェの容器についている水滴がコースターへと向かって行く。
「つまらない話を、してしまいましたかね?」
 明日はそう言って笑うと、零は首を振ってチョコレートパフェをつついていたスプーンを容器に突っ込む。
「そんな事はありません」
「それは良かったです」
 明日の馴染みの喫茶店内は、明日と零以外の客は無い。ただ穏やかに音楽が鳴り響き、厨房でカチャカチャという音がしているだけだ。もっと耳を澄ませば、店員たちの囁き声すら聞こえるのかもしれない。チョコレートパフェの美味しいこの喫茶店は、時間によっては満員になってしまうのだが、今は運良く誰もいなかった。
(まあ、別に聞かれても何もないんですけど)
 明日は食べ終わってしまったチョコレートパフェに代わり、水を口にした。甘いものを食べた後なので、何となく苦い。
(カルキの……薬の苦味のようですね)
 もっと美味しい水でも出せばいいのにと思う反面、それは無理だろうとも思う。喫茶店は水を飲む場所ではなく、その他のものをリラックスしながら味わう場所なのだから。
「桐崎さんは……どうして私にその話をしてくださったんですか?」
 話が途切れた時に、残りのチョコレートパフェを食べ終わった零が、明日に尋ねた。紙ナプキンで口元を拭い、大きな目でじっと明日を見つめている。
「どうして、といわれましても」
 明日はそう言って微笑む。
「なんとなく、ですよ」
「なんとなくですか」
「ええ」
 零は「そうですか」と言って何かを考え込んだ。実際、明日には何の感情も無かった。ただチョコレートパフェを食べるだけではなく、何か話をしようかと思って、なんとなくあの小さな戦争の事を話しただけだ。特に意味など無い。
「では、私は喜ばないといけませんね」
「何故?」
 突如不思議な事を言い始めた零に、今度は明日が尋ねる。零はにっこりと笑う。
「なんとなく、ですよ」
「そうですか」
 明日もつられて笑う。口元だけで、そっと。
「では、そろそろ興信所に行きましょうか。そろそろ草間さんが、鍵が無くて戸口で泣いているかもしれませんし」
「そうですね。さすがの兄さんも、泣いてはないと思いたいですけど」
 明日と零はそう言ってくすくす笑う。零が財布を出そうとするのを、明日はやんわりと制して伝票を手に立ち上がった。
 口の中に残るチョコレートパフェの味を、なんとなく思い返しながら。

<終わらせた愁いの傷を思い・了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
霜月玲守 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年10月18日

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