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『琥珀色の誘い 』
四方神・結3941)&秋津・玲(0540)

◆緑の野
 心地の良い涼しい風が吹く。木の葉を揺らす微かな音が聞く人の心をゆっくりと癒していく。東京のど真ん中でもこうして木々の緑は至る所にある。四方神・結(しもがみ・ゆい)はあちらこちら散歩しながら代々木公園をゆっくりと北へ向かっていた。先ほど参拝をすませた明治神宮はもう振り返っても見えない。ここは東京にある公園の中でも特に広大で、多くの植物が管理され保護されていた。限定された場所でしか生きる事が出来ない植物達を可哀相と思う人もいるかもしれない。けれど、そんな事はどうでもいいと思うくらいここには豊かで優しい雰囲気があった。結が寺社巡りを好きでいるのは、こういう木々達の優しさに触れる事が出来るからかもしれないと思う。もっとも、それを気づいたのはごく最近の事であった。
「どこかで休憩しようかな‥‥」
 家から持ってきた保温性のある水筒には珈琲が入っていたが、明治神宮で飲んでしまっていた。少し公園内を歩きすぎたのか、喉が渇くし足がだるくなっている。どこかに入って休もうかと思う。耳をすませば、木々の向こうからは都会の喧噪が風に乗って聞こえてきた。もう代々木駅が近いのだろう。探せば喫茶店の1つぐらい見つかりそうだ。結は立ち止まり辺りを振り返る。自然の優しさは好きだ。けれど、この中だけで暮らす事が出来る程自然の厳しさに立ち向かえるとも思えない。なんとなく申し訳ないなぁと思うが、そんな思いすら木々達は優しく受け止めてくれる様に思う。にっこり笑って結は公園を後にした。

◆木々のぬくもり
 休日の午後はなにかと忙しい。普段はさほどでもないが、今日の様に休日でしかも天気もいいと店はほぼ満席になる。地獄の様な昼のピークを過ぎ、客のいなくなった店内でオーナー店長の秋津・玲(あきつ・れい)はサイフォンとカップを洗っていた。ふと窓の外を見ると、女の子が1人店の前でじーっと立っているのが見えた。何か思い悩んでいるように見える。玲は仕事の手を止めて扉へと向かった。
 1軒の店先で結は迷っていた。入るべきか、入らざるべきか‥‥店の名前は『珈琲専門店・SHELTY』とある。外観は殺風景なくらいすっきりとしているが、窓からは木目を基調とした内装が見る。今日の結はトレッキング風の服装をしているのだが、この格好では店にそぐわないのではないかと思う。
「もうちょっとオシャレしてくればよかったかな‥‥」
 小声でそうつぶやく。店の重そうな扉を開く勇気がなかった。仕方がないから、どこかファーストフードでも探そうと思い定めた時、その扉が開いた。黒髪の若い、けれど大人の男が内側から半分だけ扉を開き、まっすぐに結を見つめた。黒いエプロンには店の名前が右上に刺繍されている。
「‥‥なるほど、外は暑いですね」
 男は片手をかざして陽をよけ、親しげに結に話しかける。優しい感じがする笑顔だった。
何か言わなくてはならないけど、急な事で言葉が見つからない。ただ、黙って頷くと男はもう少し扉を開けた。
「道に迷いでもしましたか?」
 男は笑顔のまま結に尋ねる。大きく首を横に振って結は否定した。かといって、本当の理由を言う事も出来ない。
「もしよろしかったら休んでいきませんか? 中は涼しいですよ」
「‥‥あ、あの‥‥はい」
 誘われるままに結は店に入っていった。

◆琥珀の香り
 店内に入ると珈琲の強い香りがした。玲は結をカウンター席の真ん中に招いた。氷の入った『お冷や』とメニューを結の前に置く。メニューのほとんどはストレートコーヒーだった。ブルーマウンテン、モカ、キリマンジェロ、グァテマラ‥‥などといった名前が並ぶ。結も名前は知ってはいるが、実際に味を比べた事はなかった。それなので、どれを注文していいのかよくわからない。ここは一番高いけど、一番美味しいと言われるブルーマウンテンを頼むべきだろうか。それとも店のお薦めということでブレンドにすればいいのだろうか。それとも‥‥。
「珈琲の好みはありますか?」
 難しい表情のままじっとメニューに食い入っている結をみて玲は言った。結は顔をあげて玲を見る。その笑顔につられるようにして、ちょっとだけ笑みを浮かべる。降参だ、全然わからない‥‥というのはちょっと心が痛かった。自分は若輩者で門外漢で、相手は年長者で専門家だとわかっていてもチクリと痛い。けれど、それを認める事も大事なんだと自分に言い聞かす。
「あの、私こういうお店は初めてで全然わからないんです」
 正直に言ってしまえばもうどうと言う事はなかった。相手の表情は更に優しくなる。
「失礼しました。若いお嬢さんにはあまり興味がないことですね。‥‥珈琲の酸味や苦味は苦手なほうですか?」
 結は首をかしげる。
「酸味はあまり得意じゃないかもです。お料理でお酢を使ったりするのは平気なんですけど‥‥」
「‥‥わかりますよ」
 玲は水を入れたサイフォンのフラスコ部分を火にかけた後、なにやらカウンターの中であちこち歩き回っている。
「やはり最初はマイルドなものからがよいでしょうね。たしか‥‥このあたりに‥‥」
 あちこちから豆をちょっとずつ計り、それらを一緒にしてミルで挽く。一層あたりに珈琲の香りが漂う。その粉をサイフォンのロートに入れる。
「マンデリンのフルシティローストをベースにしてますが、色々他にも入ってますのでコクとすっきりとした後味を楽しめると思います」
 玲は機嫌良さそうに言った。この人は本当に珈琲が好きなのだなぁと結は思う。店の中でサイフォンの音だけが響く。そう言えば、店にはBMGがなかった。けれど、サイフォンを見ているだけで楽しかった。フラスコとロートが接続され、沸騰した湯がロート部分へとあがっていく。
「楽しいでしょう?」
「はい」
 素直に結は答えた。
「これって何時見ても楽しいのですよ。僕は毎日見ていますが、やっぱりこうして見ているのは楽しいです」
 玲はロートの蓋をあけ、竹べらでゆっくりとかき回しながら言う。その1つ1つが結には珍しいものだった。喫茶店に入るのは決して初めてというわけではないが、専門店に1人で入るのは初めてだったのだ。
「‥‥どうぞ。まずはそのまま飲んで頂いて、それからお好みで砂糖やミルクを入れてください」
「はい」
 薄い白磁のカップに深い濃い琥珀色が輝いていた。白い湯気と濃厚な香りが立ち上る。一口飲む。やはり苦い。けれどほんのりと甘さがあって後味は残らなかった。結は目をみはった。
「今まで飲んだ珈琲と全然違います!」
 声に勢いがあった。家で飲んだ珈琲とも、自販機で飲む缶コーヒーとも違う。
「そうですか? 美味しいですか?」
「はい。でもちょっと私には背伸びしている感じかも‥‥です」
 結は笑って砂糖とミルクを入れる。もっと口当たりがよくなっていた。この方が自分には美味しいと感じる。
「こちらも一緒にどうぞ」
 玲が結の前に置いた平皿にはビスケットを2枚乗っていた。
「いいんですか?」
「はい。一緒に食べると胃に優しいらしいですよ」
 ビスケットは疲れた身体に適度に甘く、けれど珈琲の味を変えてしまうほどではなかった。何もかもが珈琲と珈琲を味わう時間を楽しみむ為だけにあるような気がする。テーブルの上に灰皿がないのも、そのためなのだろう。駄々っ子めいたところが楽しいし、可愛いと思った。さっき代々木公園で感じたような暖かさがここにもあるような気がした。

◆茜の風
 芳醇な1杯を飲み終わった。結はカップをソーサーに戻し玲に笑顔を向ける。
「ごちそうさまでした。本当に美味しい珈琲でした」
 結は心の底からそう思って言った。また来たい店だと思う。
「そう言って頂けると嬉しいです」
 玲もにっこりと微笑む。会計の釣り銭と一緒に玲は小さな四角い紙片を結に渡した。名刺だった。『珈琲専門店SHELTY オーナー秋津玲』とあり、店の住所と電話番号が書いてある。
「店長さんはあきつさんって言うんですね?」
「あきつれい‥‥です。もしよろしかったらまたいらしてください。お待ちしています」
「あ、私はしもがみゆいです」
 2人は互いに丁寧に頭を下げる。それからどちらからともなく笑い崩れた。
 重い扉を開けて外に出ると、もう太陽は弱く赤っぽい光を放っていた。あれほど暑かったのにもう風は肌に冷たく感じる。もう秋だった。貰ったばかりの名刺をポケットに入れ、結は代々木駅へと向かって歩き始めた。
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東京怪談
2004年10月01日

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