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『DOLL CAGE 』
巌嶺・顕龍1028)&朱束・勾音(1993)

 そこは、静かなバーのカウンター。夜と言うにはまだ若干の暇を残す夕闇時、時間帯の所為か、店内には巌嶺ただひとりしかいなかった。
 まるで、一足先に一日の疲れを癒しに来た客のよう、巌嶺は磨き抜かれたカットグラスを手の中で弄びながら、グラス内で転がる球体の氷の照り返しをじっと見詰めていた。氷の出来が今ひとつらしく、氷越しにグラスの底を見詰めると、映る琥珀色のムラが整っていない。雇いのバーテンダーに一言言っておかねば、と一瞬だけ経営者の顔に戻る。だがすぐにその表情は、酒を愉しむ一人の男のものになり、グラスを揺らしてからりと軽やかな音を立てた。

 あれはいつ頃の事だっただろうか、と巌嶺は記憶を反芻する。ついこの間のような気もするし、遥か昔の話のような気もする。過ぎた時間の感覚は、驚くほどの曖昧だったが、それとは相反し、あの時感じたいろいろな事は今でも色鮮やかに巌嶺の中に焼き付いていた。
 それは恐怖であり驚愕であり、ある種の歓喜であり友好であり。
 水滴の浮くグラス、それに触れている己の指が感じる冷たさ。その微かな痛みにも似た感覚には覚えがあった。


 「噂でしか知らんのだがね、とにかく鬼のような女らしい」
 雇い主はそう言ってじろりと巌嶺の方を見た。それを聞いても巌嶺の表情は平然としたままだったので、客は何故か満足げに頷いて見せた。
 「まぁともかく、わしはその女の取引さえ横取りできればそれでいい。その為に、わしがわしの仕事に集中できるように、貴様はわしの命を守りさえすれば良い。簡単な仕事だろう?」
 横柄なその物言いにも、巌嶺は表情を崩す事無く、ただ黙って頷いた。人の命を守る事がどれだけ大変な事か、長きに渡ってその真逆の事を生業としてきた巌嶺だからこそ、骨身に染みて分かっていた。だが仕事は仕事だ。依頼された以上、その役割はきっちりと果たす。
 ―――例えその相手が、鬼だの何だのと囁かれている謎の女だとしても……。
 朱束・勾音。名前しか知らないその女は、彼女を敵だと認知している者達でさえ、その名を口にする事は憚られると言う。今回の客は、元々はっきりとはその名、その素性を知らなかったらしい。それでよく朱束を敵に回すつもりになったな、と巌嶺は思う。相手を知らなくて、どうやって相手を絡め取ると言うのだ。巌嶺は自分で朱束の事を知ろうとしたが、予想以上に朱束の身辺は『固い』らしく、情報と言えるような情報は全く手に入らなかった。
 それで、と言う訳では無いが、巌嶺は、客の取引現場まで付き合う事は止めた。最初のうち、散々渋っていた客だったが、それが最善の手だと繰り返し説明をする事で、ようやくの了承を得た。何かと手惑う今回の仕事に、何か一抹の不安を感じたが、そんな迷信めいた事を信じた事などついぞ一度もない。下手にジンクスなどを作ってしまえばそれは、自分で自分の行動範囲を狭める事に、ひいては己の命と安全をも狭める結果になり得ないのだから。

 客が差し出した手の爪先、そこから巌嶺の蟲を忍び込ませる。見た目は激痛を伴うように思うが、実際は最初にちくりと微かな痛みを感じただけで、後はただもぞもぞとした感覚があるだけだった。これは【意を強め、心的呪縛を退ける】蟲だ。聞けば朱束とか言う女、鬼だと言われているだけあって何やらいろいろと変わった術を駆使するらしい。中には、精神感応のようなものもあると聞き、まずは実際に取引に携わる客の意を強固にする事からはじめたのだ。呪を施し終えた自分の手を擦りながら、客が取引現場へと向かう。その背中に向け、数匹の呪蜂を巌嶺は放った。呪蜂は微かな羽音をさせて飛び、客の傍まで辿り着くと、後はその姿を目に見えない煙のように替え、音もなく客の周りで飛び、身を潜める。これらが巌嶺の目となり耳となり鼻となるのだ。巌嶺は気を集中させる為、小さく静かな部屋でひとり壁に向かった。


 どこかの壁掛け時計が時を刻む音が聞こえる。規則正しいそれは、いつしか巌嶺の鼓動と重なる。互いに追い越したり遅れたりする事もなく、それぞれにほぼ同一の感覚で刻み続ける。巌嶺の鼓動と時計の秒針が、一回重なってから次にまた重なるまでの間、二つの音は少しずつ、均等な感覚でずれていく。ある種のハーモニーのようなそれを楽しんでいた巌嶺の規則正しい鼓動が、何故か急に乱れた。その直後、巌嶺の周囲――正確に言えば巌嶺が気を張っている箇所の周囲、であるから範囲としてはかなり広域に渡っていた――が、突然ぐわりと撓み、動揺が走った。巌嶺はカッと目を見開く。その目は目の前の壁ではなく、それをずっと通り越した先、客が向かったと言う波止場の様子を見詰めていた。

 「…もう一回言っておくれでないかい。ちょっとうっかりしててね、聞きそびれてしまったよ」
 腕組みをした一人の女が、不敵な笑みで口端を歪め、そう言い放つ。言葉の内容としてはなんて事はない言葉だったが、その響きそのものに何かの呪詛を練り込んであるかのよう、客の体はそれを聞いた途端、びぃんと張り詰めて全身が総毛立った。
 これが、朱束・勾音か。今陸揚げされたばかりなのだろうか、小さめのコンテナが波頭にひとつ置かれており、その傍らに立っている女。見た目は、上品な着物をちょいと着崩し、細身だがどこか威圧感のあるイナセな美人だ。だが、その眼光は尋常ではない。
 「だから何回も言っているだろう、そこの荷をこちらに譲れと言っているのだ」
 そう言う客の手には一丁の拳銃。その銃口は真っ直ぐに朱束の胸元を狙っている。鈍く光るその鉄の造作を、なんの衒いもなく見詰め、朱束は笑う。
 「それは何回も聞いているさ。私が言っているのは、そんな台詞を一体何処の誰に向かって言っているんだい、と言う事さ。言っておくけど、私の商売相手に、そんな物騒なものと商品とを交換しようなんて言う無粋な奴は居やしないんだけどね」
 「虚勢を張るのも今のうちだ。こっちは、アンタが取引の時にはひとりでしか来ないって事も調査済みだ。幾らアンタでも、鉛の玉を喰らっちゃ生きていけないだろ」
 笑う客の、その自信は、背後に巌嶺がいる所為だろう。そんな、いらぬ信頼を己に置く客に、巌嶺は小さく舌打ちをする。どんなに腕が良くても、『絶対』と言う事はない。『絶対』に限りなく近づけるべく、弛まず途切れず努力しているだけだ。慢心は、必ず災難を招く。そう巌嶺が思った瞬間、ビックバンが起こった。
 「………ッ!?」
 巌嶺の顔が歪む。感じたのは精神的なプレッシャーだ。巌嶺は、客の体内に潜ませた蟲達が全て飛び散ってしまった事を知った。不快を感じた朱束のマイナス感情が、波動となって周囲を圧迫し、客に掛けられた巌嶺の術を一気に蹴散らしてしまったのだ。身体の中の楯を失った客の中に、一気に朱束の鬼迫が流れ込んでくる。拳銃をその手に握ったままだったが、ガタガタと震えるその手では、武器としての役目が果たされるとは到底思えなかった。
 「…つまんない男だねぇ……もうちょっと気概があれば、遊んでやらない事もなかったんだけどねぇ…」
 しゃがみ込む客の前に、朱束がゆらりと立ちはだかる。見上げたその顔はまさに鬼女の如く、その背負う月の光も、今はただ冷たいとしか感じられない。その時になってようやく、客は朱束の額に角がある事に気付いた。
 『…本当の鬼か―――……厄介な……』
 巌嶺は僅かに眉を潜める。己の呪法が、ほんの一瞬で破られた事には驚いたし悔しいとも思った。朱束の正体を知った今では、それも納得できてしまう。だが、納得できたからと言って、このままみすみす逃げる訳にはいかないのだ。雇い主がまだそこに居るからと言う理由だけではない、巌嶺はまだ、何も立ち向かっていないのだ。朱束に対して。

 怯え切って動く事も出来ない客の前で、朱束は禍々しいとさえ言える笑みを浮かべて立っている。この失礼極まりない男をどうしてくれようかと算段するその表情は、新しいオモチャを手に入れた子供のようでもある。しかもその子供は、オモチャの手足を引き千切ってバラバラにしないと気が済まない子供なのだ。
 そんな朱束の周りを、巌嶺の呪蜂が飛ぶ。勿論、その身体を空気に溶け込ませたままでだ。小さな蜂は朱束の後ろに回り、結い上げた黒髪の一筋をその身に巻きつけると、物凄い勢いでその場を飛び去る。朱束は、顔の位置は返る事無く、視線だけを蜂が飛んでいった空へと向けた。
 「…なんだ、楽しませてくれそうな相手がいるじゃないか、ちゃんと。出し惜しみするとは、とんだ狸だね」
 出し惜しみなどするか。巌嶺がこちらで呟く。辿り着いた呪蜂の身体に絡みついた、長い黒い髪の毛を取る。紙人形の中心部にそれを貼り付けると、人形の中に、その髪の毛が吸い込まれていく。完全に溶け切ると、ただの紙人形は、遠く離れた朱束の分身と化した。厭魅を施したのだ。気のせいかその紙人形からも朱束の鬼迫が滲み出てくるような気がする。巌嶺は素早く、無数の細かい針を口腔に含む。指で紙人形を宙に弾くと、ゆっくりと舞い落ちるそれ目掛けて、口に含んだ針を一気に吹き付けた。紙人形は、そのまま壁に叩き付けられ、縫い止められる。数え切れない程の、見ようによってはただの埃にしか見えないような、細かい針が刺さっていた。
 「ひぃ、……ッう………!」
 客の顔が恐怖に歪む。何とかしてへたった腰を引き摺りながら、後退りして逃げようとした。目の前で、朱束の身体に一瞬にして細かな穴が空いたからだ。それが巌嶺の術だと分かっていても、実際に目の当たりにすれば恐怖が湧く。しかも、目の前の女は全身を蜂の巣にされたと言うのに悲鳴も上げず、変わらぬ笑みを浮かべているではないか。くくく…と朱束の笑い声が、空いた穴から漏れた。
 「愉快な術を使う……だが、」
 それだけさね。
 「……ッく……!」
 巌嶺が咄嗟に己の顔面を両腕で覆った。その腕に、己が先程放った針が刺さる。避けていなければ、巌嶺が逆に穴開きになっていたところだ。朱束の鬼迫が、空間を介してなお、厭魅を施された紙人形のところにまで届いたのだ。何と言う強さ、何と言う禍々しさ。生まれて初めて、巌嶺は背筋を冷たいものが伝うのを感じた。
 懐からさっきのとは雲泥の差に太い針を取り出す。それを握り締め、意識を集中して強い呪を掛ける。こんなに強い呪詛を施したのは初めてだった。あまりの強さに、こちらにリバウンドが来そうなぐらいだ。巌嶺は、渾身の力と気迫を籠め、呪人形の足に打つ。紙の人形を、壁に磔にしただけなのに、巌嶺の腕から全身に、恐ろしいほどの反動が返り、それに耐える為に巌嶺は、奥歯を強く噛み締めなければならなかった。
 「……、…」
 そんな、巌嶺会心の呪詛は、確かに効いたようだった。オモチャに手を掛けようとしていた朱束の足が止まり、動きを封じたのだ。その間に巌嶺は呪蜂を再び飛ばし、客の周りに結界を敷いて朱束の呪縛から客を解き放つ。我に返った客は、振り返ろうともしないでその場を駆け去ろうとした、その時。
 ザッ!一瞬、光が弓形になって煌く印象を受ける。次の瞬間、ぼとりと何かが地面に落ちる。その衝撃で、落ちたものから火花と轟音が散り、兆弾した弾が朱束の足元で新たな火花を生じさせた。
 利息を置いてきな。そんな声が聞こえたような気がした。何の利息で元本は何かはさっぱり分からないが、朱束の主張はそう言う事らしい。何とか逃げ出した客が、利息に取られたのが己の腕一本であった事を知るのはもう少し後、ほうほうのていでアジトに逃げ帰った後、鈍い痛みを腕の付け根から感じて初めて気付いたのであった。


 どうしてくれるんだ、といきり立つ客を目の前に、巌嶺はただ肩を竦めて見せただけだ。
 「一体何の為に貴様を雇ったと思っているんだ!」
 「俺は、命を守ると言う簡単な仕事を与えられただけだ。その職務は全うした。命があっただけ良しとしろ。相手が悪過ぎだ。今度から相手の下調べはきっちりするんだな」
 次があれば、だが。その言葉は口には出さず、吐息と一緒に喉へと流し込む。
 「貴様、誰に向かってそんな口を…!」
 「元・雇い主に、だ。契約は終了している。後は知らん。好きにしろ」
 そう言い残し、巌嶺はその部屋を後にする。客の怒号はいつまでも響いていたが、最早それは単なる耳障りな騒音に過ぎない。


 とある病院の特別室、そこで極秘に入院していたとある男性が、人知れず失踪すると言う事件があった。尤も、もともと素行の悪い男であった故かそれ以外の理由からか、それは警察に届けられる事もなく、男性の行方もその顛末も、闇から闇へと消えていった。
 噂では、男性が寝ていたベッドの上に、包装紙に包まれた腐り掛けの人間の右腕が置いてあったと言う。それは男性が失踪する前日、忘れ物だと言って何処かから届けられた品であった。


おわり。
 


☆ライターより
 巌嶺・顕龍さま、はじめまして!そして朱束・勾音さま、いつもありがとうございます!ライターの碧川桜でございます。
 シチュノベ強化月間中に、シチュノベのご依頼、誠にありがとうございました!たくさん受注して即納品目指して頑張ってます(笑)
 朱束女史が登場するシチュノベをいろいろと書かせて頂きましたが、毎回毎回、こちらも楽しんで書いています。
 キャラが変われば同じであって同じでない、そんなシチュノベ目指して考え考え書いてみましたが如何だったでしょうか?少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
 またどこかで、巌嶺氏や朱束女史に会えると嬉しいです。そんな事をひっそりお祈りしつつ、今回はこれにて…。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
碧川桜 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年09月21日

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