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『水の戯れ 』
セレスティ・カーニンガム1883)&モーリス・ラジアル(2318)

 ゆらり、ゆらゆら。
 どこまでも澄んだ水のように透明感を湛えた蒼い瞳が、見慣れた天井に描き出されている銀の水面を眺めていた。
 けぶるように長い睫毛が瞬きの度に奏でる軽やかな音楽以外、無音と思えるような世界の中、セレスティ・カーニンガムは開け放たれた大きな窓から忍び込む秋の涼風に身を任せる。
 良質の革で作られたクッションの効いたソファは、重力の影響を受けている事を殆ど感じさせないセレスティの体を、優しくそっと抱き込んでいた。
 月の明るい夜。
 長い年月を生きる彼にとっては、奇跡のような一瞬の中。
 秋口に差し掛かったとはいえ、昼間の太陽の輝きはまだまだその力を衰えさせてはいない。
 だから、この部屋の窓が開くのは日が沈み始めてから。
 それは暗黙の了解。
 誰よりも繊細で美しい、ガラス細工のような美貌の主を想う心の成せる事。
 ゆらり、ゆらりゆらゆら。
 風の向きが変わったのか、高貴なる白で磨き上げられた天井で踊る水の紋が変化した。
 屋敷の近くに広がる湖。その清い水面で反射した月光が、セレスティがまどろむ室内の天井を、深い水底のような光景へと変える。
 ゆらゆら、と。
 ゆらり、ゆらりと。
 それは何処か、懐かしい燻りを胸の奥から呼び起こす。
 水の中、遠い記憶。
 けれどそれこそが彼の本性。
 不意にその揺らめきに触れたくなり、セレスティはソファから身を起こし手を天井へ向って差し伸べた。そんな何気ない仕草までが優雅に見える――この場に彼以外の人物がいたならば、たったそれだけの動きにさえ胸を騒がせただろう。
「……届くはずはありません、ね」
 呟きは誰に聞かせるためのものでもなく。
 一度伸び上がらせた背を、セレスティは再び柔らかなソファの海へと沈めた。それに合わせて、長い銀糸の髪もまるで清水の流れのようにサラリと革の上を滑り落ちる。
 こんな夜は、何か音楽を傍らに置くのが良い。
 完成された旋律に心を添わせ、密かに乱れた調律を望むべき状態へと誘うために。
「……おや、ちょうど良いところに」
 タイミングは抜群だった。
 そうと思った瞬間、深みのある音を立て開かれた扉。
 無論、セレスティはその向こうに立つ人物の姿を、視界で捉えることなく誰だか認識する。
「ちょうど、貴方と同じ名の音楽家の曲を聞きたいと思っていたところでした」
 セレスティに柔らかな笑みを向けられた緑の瞳の主は、手にしていた陶磁器のティーセットを静かに脇のテーブルへと運ぶ。
「如何でしょう? モーリス」
 唐突な己が仕える主からの誘いにも、モーリス・ラジアルはほんの少しもうろたえることなく、慣れた様子でカップに褐色の液体を注ぎながら笑みを返す。
「それでは、何に致しましょうか?」
 紅茶から立ち上る芳醇な香りが、ふわりと室内を満たしていく。今日のチョイスは単純に、しかし違いが明確に出るアールグレイのストレート。茶葉はモーリスが選び抜いたFTGFOP。
「秋の夜には……そうですね、ボレロより水の戯れ――ですね」
 主からのリクエストに応えるべく、モーリスは軽く膝を折る礼をしてから、室内の片隅に誂えられたレコードラックの扉を開く。
 そして迷うことなく、数千枚のコレクションの中から一枚を引き出した。
 「管弦楽の魔術師」と言われたフランスを代表する作曲家、モーリス・ラヴェル。その彼にとっては初期の作品でありながら、傑作といわれるピアノ曲――『水の戯れ』。
 時に緩やかに、時に弾むように。様々に変化する水を意匠したかのような楽曲は、確かにこの夜に最も相応しい。
「……少しだけ、昔話をしましょうか?」
 このような出来事にすっかり慣れてしまっているラジアルの指が、レコードプレイヤーのアームを静かに運ぶ。
 プツプツっと特有の音の後、溢れ出す豊かな水の流れ。
 その流れは、二人を過ぎ去った遠い過去へと誘う旋律。

          *

 それはまだクラシック音楽が『クラシック』という部類で括られていなかった頃。かの音楽こそが、世の主流であった時代。
 人々は自宅の庭に友人達を招き、集わせた音楽家達にもてなしの曲を演奏させる。音楽が今よりももっと身近にあった、そんな優雅な時。
 その日はとても空の高い日だった。
 海のようにどこまでも広がる青に染まった天には、薄い雲がたなびく程度。
 自身が外出をするには、少々温度が高すぎる気もしたが、最近は随分丈夫になってきた――そういう思いもあって、セレスティは知人が主催する発表会へ出かける予定を変更しなかった。
 いや、今日だけは絶対に外せないと思っていたのだ、初めから。
 何故なら最近の彼にとって大変お気に入りの作曲家が参加する会なのだから。
 彼との出会いは友人に招かれた音楽会。それから幾度か顔を会わせるようになり、片手では数え切れないくらいの回数、セレスティ自身のリクエストでセレスティの為の曲を書いてもらった。
 その中の一曲――タイトルは未だ定まらぬ曲は、まるでセレスティそのものだと周囲から大絶賛され、セレスティもその称賛を彼の作曲家と共に誉れ高く受け取った。
 その彼の晴れ舞台である。
「お気を付けくださいませ」
 自宅から発表会会場まで主を送り届けた馬車の御者の言葉に、軽く片手を挙げて応えると、セレスティはゆっくりと大きなアーチを描く門を潜った。
 すぐさま飛び出してくる係員に案内され、重厚な気配の漂う石畳を静かに歩く。
 かつかつ、と響くのは杖の音。
 細い水の流れのように、癖の全くない銀の髪を風に躍らせるセレスティの容貌。それは恐ろしいほど透明な儚さを纏わせ、見る者全てを魅了する。
 そして己自身だけでは歩くことも出来ぬ繊細さが、すれ違う人々の心を捉えて離さない。けれど、そのともそれば掻き消えてしまいそうな存在の中に孕まれた、圧倒的な存在感に誰もがすぐに気付かされる。
 どこかの貴婦人達の間で、セレスティを評するに相応しい言葉は『優美』だと、否『優雅』だと論争が起こったとか、そうでないとか。当然、渦中の本人は笑ってその噂を聞き流したのだが。
「やぁ、ようこそ」
「本日はお招き頂き光栄です」
「そんな堅苦しい挨拶は抜きですよ、セレスティ。貴方がいらっしゃっただけで会場に神さえ羨む花が咲いた心地なのですから」
 係員に案内されたセレスティに気付いた主催者が満面の笑みで駆け寄る。それを音で正しく認識したセレスティは、ふわりと右手を差し出す。
 即座に握り返され、細い指先から伝わる相手の気配から、知人の体調も心境も言葉に嘘はなく心地よいものであることをセレスティは知った。
「少し後れてしまいましたか?」
 細波のように伝わってくるのは人のざわめき。
 それが彼以外の招待客のものであると判断したセレスティは、知人にそっと視線を合わせる。申し訳なさを滲ませた青の輝きに、相手の心臓の音がオクターブ跳ね上がった。
「いやいや、そんなことはないですよ。さぁさぁ、貴方の為にとっておきの席を用意しておいたんです」
 手を取られたまま、ざわめきから離れるように誘われる。
 それは充分に気を配られた歩き方ではあったが、普段のセレスティの歩行速度よりほんの少し早い。限界を予感した体が、他人には悟られる事なく軽く揺れた。
 既に開始を待つ会場は、熱気に包まれている。仕立ての良いスーツの下に隠れた皮膚が、じんわりと小さく悲鳴を上げている。
 セレスティは心の中で、導かれる先に用意されている席が、風通しの良い場所であることを祈った。


「……気が付かれましたか?」
 再び瞳が光を捉えた時、セレスティは誰かの腕の中にいた。
「私はどれくらい……」
「目がお悪いのですか?」
 暑さに負けてしまい、体が傾いだと思った瞬間から、さほど時間は経過していないであろう。
 周囲に及んできているざわめきの程度からそう判断し安堵しかけていたセレスティは、自分を支えている青年らしき声音に僅かに体を固くする。
 陣取ったのは特別観覧用の2階席だった。しかしそれでも室内に篭った熱は、セレスティの体を容赦なく蝕んだ。
「お気を害されたのであれば申し訳ありません。ですが、今頭を打ったがためではない、という確認をさせて頂きたかったもので」
 声の主の柔らかい口調に、セレスティの体に入っていた余計な力が抜けていく。
「貴方は医師ですか?」
「いえ、違います……が似たようなものでもあります。しかし、拝見していた限りでは目が不自由でらっしゃることに全く気付きませんでした」
 青年の言葉には、純粋な感動の音が読み取れた。
 この男は、自分に害を成すような存在ではない。素早くそう結論を下すと、これ以上場が混乱せぬようにと、セレスティは青年の手を借りてゆっくりと体を起こし椅子に戻る。
 階下の席から不安げに彼らを見上げる視線を感じ、心配は要らないと軽い会釈とひらりと手を振り健在をアピールした。
 途端に上がった黄色い悲鳴に、セレスティを支えていた青年が小さく眉根を寄せる。
「まだお体はお辛いでしょうに。そのように周囲に気を遣われる必要はないと思いますが?」
「違いますよ。場が混乱したままでは発表会が先に進みません。それでは私のお気に入りの作曲家にとっての折角の晴れ舞台が台無しになってしまう。だから私は私の為に彼女たちに無事をお教えしただけです」
 紡がれた言葉が何処まで真実で、何処から建前なのか――否、そもそもこの美しい人の真実は何処にあるのか。
 触れた瞬間、銀糸の髪の持ち主が普通の人間ではないとなんとなく感知した青年は、不意にそう思う。
 その直感は、己も只人ではないが故に導かれたのか、それとも誰かの啓示か。
「貴方のお名前、お伺いしても宜しいですか?」
 すいっと自らの思考の海に迷い込んでいた青年に、セレスティが水を掻き分けるような清涼感に満ちた声で問い掛けた。
「モーリス・ラジアルと申します」
「モーリス……そうですか。貴方の髪の色は何色ですか?」
 『モーリス』という名に僅かに笑みを深くしたセレスティは、ただそれだけを訪ねる。
「金、です」
「あぁ、太陽と同じ色、ですね」
 その時、満員の客から喝采を浴びて一人の音楽家がステージに姿を現した。

          *

「出会い、とは不思議なものですね」
 カップに注がれていた紅茶の最後の一口を飲み干し、セレスティは背後に控えるモーリスを振り返った。
 即座にモーリスは紅茶のお代わりを、とティーポットを差し出すが、それは差し伸べられた手にやんわりと止め置かれる。
 真っ直ぐに自分を捕らえる蒼い双眸に、モーリスは微かに首を傾げて小さく笑う。それに合わせて金の髪が軽やかに踊った。
「確かに、そうとも言えますね」
 あの日、初めての邂逅を果たした二人は、それからセレスティの体調をモーリスが診るという形で続く事になる。
 そして時が流れ、二人の間には確固とした盟約が誕生していた。
 主、と、従。
 それをどちらが先に口に出したのかは、遠い記憶の彼方。ただはっきりしているのは、常人では有り得ない長い永い年月を、二人が共に生きることが出来る――否、生きねばならぬ存在であった、という事実。
 部屋の四隅に設置された高音質のスピーカーから溢れ出す水の流れも終幕に近付く。
 激しく舞い散っていた水が、ゆるやかに、おだやかに。
 と、その瞬間。
 天井で踊っていた波紋も一際鮮やかに揺れた。
「何か、魚でも跳ねたのでしょうか」
「そうかもしれません。いえ、ひょっとすると人魚が跳ねたのかもしれませんよ?」
 二人揃って限られた空間の天を見上げて、くすくすとしのび笑う。
 幽かに差し込むまろやかな光に、月光と同じ色の銀髪と、日光と同じ色の金髪が幻想的な絵画を描く。
 永久の中の刹那。
「ところでモーリス、あの時の作曲家の名前を憶えていますか?」
「さぁ……親しくしていたのですけれど」
「残念です、実は私も今はもう思い出せないのです」
 刹那を繋げた永遠。
 積み重ねられた時間は、押し寄せては引いていく波のように、遠い記憶を彼方まで攫って行く。
「ひょっとすると、この曲こそあの時作られたものだったりするかもしれませんね」
 モーリスの思いつきに、セレスティはそっと瞼を落とし、その奥で一人微笑む。
「もしそうだったとしたら――それはとても素敵なことですね」
 思い出せる過去と、思い出せない過去。
 その曖昧さは、これから訪れる未来に想いを馳せると同じに胸を弾ませる事。こういう楽しみがあるからこそ、生命を慈しめるのかもしれない。
「さて、今日はこの辺までにしておきましょうか」
 人の生とは、決して一所に収まらず。それはまるで戯れ続ける水のように。
「それでは、おやすみなさいませ」

 ゆらり、ゆらゆら。
 陸に上がった人魚は、幻の水底で静かな――そして短いまどろみへと落ちて行く。
 ゆらゆらとたゆとう数多の命を、弾む水滴の音のように聞きながら。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
観空ハツキ クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年09月17日

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