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『赤日の偶然論 』
三島・香3888
 九月に入ったからといって暑さが和らぐ訳ではない。寧ろ暑さが戻ってきたようで、肌に纏わりつくような熱気を伴う残暑が続いていた。昨日の午後から明け方にかけて雨が降ったが、それももうすっかり上がってしまって、今は容赦を知らない太陽の光がアスファルトを焦がしている。
 三島香は自らが院長を務める病院から少し離れた場所を歩いていた。一日の内で一番日差しが強いこの時間帯に屋外をふらつくのには理由があった。気さくな中年の看護局長に「院長先生は仕事しすぎるから」と半ば無理矢理に休憩をとらされたのだ。
 早急に手術が必要な患者が現れたらどうするのか、という三島の主張は、彼女が突きつけた「うちには優秀なドクターとナースが揃っている」 事実の前に崩れた。大規模な事故が起こったら、と可能性を示唆するも、病院からそう離れていない場所に建つ大学病院を理由に却下されてしまった。設備の点では他の病院に引けを取らないが、文字通り建物の大きさでは圧倒的に三島の所有する病院の方が小さい。救急車というものは総じて設備と規模を重視するものだから、院内で人手が足りなくなるほど怪我人が運び込まれる事はない。
 彼女の考え方に些かの疑問は生じたものの、医療機関の構造をよく理解している三島は渋々ながら院長室を出たのだった。
 こんな時間に放り出されても行くあてなどある筈がない。三島は仕方なくコンビニでスポーツドリンクを二本買い、小さなビニル袋を揺らしながら来た道とは違う道を歩き始めた。
 本当はすぐにでも院長室に帰りたい。先月学会で発表されたドイツ人の研究者による論文に目を通したかった。分野としては昆虫細胞遺伝子工学で、とりわけ先駆な内容ではないのだが、ただ只管セミを研究し続けた彼のセンスには心惹かれるものがあった。学生時代には医学のみならず他の学問も学んだ三島にとって、しかもその各々でトップクラスの成績をおさめた彼にとっては、各分野の研究論文を読む事は楽しみの一つと言っても過言ではないだろう。
 もし医者を志していなければ、三島は研究者になっていたかもしれない。只管ある一つの事物を研究するという行為は嫌いではなかった。寧ろかなり好きな部類に入っていただろう。きっとどの分野に身を投じても成功するだろうという、確信に近い考えが三島の中にはあったから、研究者の道を選ぶ事も可能性の一つとして考えられてはいた。それでも医者の道を選んだのは、誰かを救いたい、手助けをしたいという意識が強かったせいだ。
 天才と呼ぶに相応しい三島の頭脳を三島自身は運が良かったのだと思っている。自分の脳が常人とは比べ物にならないくらい精度の良い物だと三島は理解していたが、それは後天的な要因からなるものではなく先天的な要因が大きいと自己分析していた。ある程度医学的にも裏付けられる事だったが、もし何ら裏付けがなかったとしても、三島はそれが事実だと受け入れるだろう。
 勿論日差しも強いのだが、何より蒸し暑かった。ただ歩くだけの行為が奪う体力を三島はもう沢山だと叫び出したいくらい実感していた。
 革靴とアスファルトが立てる規則正しい足音と自らの呼吸音に子どもの声が混ざり始めた。あてもなくふらふらと歩いている内に、公園に辿り着いていたようだ。
 思えば遠くまで来たものだ、と自嘲するように笑って、噴水周辺で走り回る子どもたちを眺めた。そうして様々な事を思った。明確に言葉にできるような、そんなしっかりした思考ではなく、質感だけ触れさせて流れていくようなぼんやりとしたものだった。辛うじて「遠く」とは時間と距離両方の概念に係る言葉だという事はわかった。
 視界に入っていた子どもたちの一人が転んだ。同時に三島の足も止まった。これはもう習慣としか言いようがない条件反射だ。他の子どもたちが転んだ子どもの周りに集まるのを見やりながら、三島は小走りに彼らの元へ向かった。
「大丈夫かい?」
 倒れた子どもの名を子どもたちはしきりに呼んでいた。倒れた少年の息遣いは荒く、顔は真っ赤に火照っていた。
「おじさん誰?」肩より少し長い髪を二つにしばった少女が訊ねた。
 スーツを着ていれば子どもにとっては皆「おじさん」だ。おじさんか、と少なからずショックを受けながらも、お医者さんだよ、と笑顔で答えた。
 少年の体をそっと持ち上げ、木陰に運ぶ。恐らく日射病だ。涼しそうな土の上に彼を横たえ、三島は着いてきた子どもたちに保育士のような口調で話しかけた。
「誰か、タオルを持っている人はいるかな」
「はーい!」
 思いがけず全員が元気良く手を挙げた。面食らったが、三島は
「じゃあ皆、タオルを濡らして持ってきてくれる?」
と続けた。勢い良く走り出した子どもたちの背を確認して、三島は少年の頭を膝の上に乗せた。少年は意識はあるようで薄く開いた瞼から弱い光を放つ目を三島に向けた。
「気持ち悪い?」
 そう訊ねると少年はほんの少し顔を左右に動かし、あついと唇を動かした。
 大丈夫だよ、と熱い額を撫でると、少年は安堵した表情で目を閉じた。
 コンビニのビニル袋に入ったままだったスポーツドリンクを取り出して、中身を三分の一ほど捨てる。丁度その時、続々と子どもたちが戻ってきた。最初に戻ってきた少年にペットボトルを渡して水を足してくるよう伝え、彼らが持ってきたタオルを受け取った。
 Tシャツの裾からタオルを入れわきの下を冷やし、首の後ろも冷やした。他のタオルは子どもたちに持たせ、少年の体を仰いでやるようにいった。子どもたちは一様に素直に三島の頼みを聞いた。
 タオルが温くなったら取り替えてまた冷やしてきてもらい、薄めたスポーツドリンクを少しずつ少年に飲ませた。熱すぎるほど熱かった少年の肌は幾分落ち着いてきて、目に力が戻ってきた。
 自分で飲み物が飲めるほどに回復したので、タオルを子どもたちに返しお礼をいった。三島をおじさんといった少女がどういたしましてと微笑んだ。しっかり者なんだな、と三島も微笑みながら思う。
 子どもたちはタオルを持って噴水の傍に戻っていく。遊びを再開するのだろう。気配を察した少年が体を起こし、彼らの後を追おうとした。
「急に動いては駄目だよ」
 起き上がった少年にそう伝えると、うんと首を大きく頷かせて返事をした。が、次の瞬間には仲間たちの方に走っていってしまう。苦笑して立ち上がった三島の元に、少年が走って戻ってきた。
「ありがとうございました!」ぺこ、というより、ぶん、と少年は体を折った。
 いいえ、と笑って、明日は帽子を被ってきた方が良いよ、と助言した。
 公園を出る時に視線を感じ振り返ると、少女が二人、しっかり者のあの少女ともう一人がこちらを見ていた。バイバイ、と手を振ると、小さな手をぎこちなく動かしてぱっと背を向けた。
 ガサッと音を立てたビニル袋の中には空っぽのペットボトルとスポーツドリンクが入っている。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
siihara クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年09月13日

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