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『腕捉う夏影 』
藍原・和馬1533


 ――『白』は、その腕を捉えて。

 ***

 予報では、今日は曇りだったのだ。
 幾何学模様を描く歩道石畳の上、体重の掛け方を間違うとがたつくパイプ椅子に座り、藍原和馬は視線を眼前の人々に据えたまま、快晴の空模様に舌打ちする。雲ひとつ浮かばぬ青空からは、容赦ない陽射しが燦々と降り注ぐばかりで、風は弱く、たまに吹いたかと思えば生温い。暦はとうに秋を示しているというのに、残暑はまだ続くようである。
(忙しなく歩くよなア……)
 カチカチと不規則に手許のカウンターは回り続け、和馬の前をそれと同じリズムで人が過ぎってゆく。
(急いだって余計に暑くなるだけだろうに)
 ご苦労さん、と雑踏に向けて投げ、ちらと手許の数字を見ると、計測し始めた時間帯より幾分ペースが落ちている。ピークは過ぎたのだろう。
 と、近くの横断歩道の信号が青に変わる。団体さんのお越しだ。何度か瞬きを繰り返して、再び歩行者数の計測に戻った。
 フリーター――何でも屋として日々ありとあらゆる職業を渡り歩く和馬の本日の仕事は、歩行者を対象とした交通量調査のアルバイトだ。対象が自動車の場合はナンバープレートの表記まで確認することがあったが、今回は男女の別さえ見れば良いことになっている。一時間交代だし決して大変な仕事ではない。が、この仕事、なにが一番辛いかと言われれば、
(ヤバイ、眠い)
 暇なのである。
 じっと椅子に座り、動いている箇所といえば指の数本だけ。話し相手もいない孤独な作業だ。監督もいないので多少数をごまかしたりサボったりしても咎める人物は存在しない。その上、先ほどから陽の傾きに合わせて街路樹の影がちょうど和馬に掛かり日影を作っている。寝てしまえと状況が誘っているようだった。腕時計で時間を確認すれば交代まであと20分余り。睡魔に襲われている今、それも長く感じられる。
 眠ってしまってもこの体勢では数分あるいは数秒で起きるだろう、と、眠りに落ちることにやや寛容になりながら、ぼんやりとした眼差しでまたカチリとカウントした。
(あ、違う)
 不意に一人カウントを誤る。代わりに次の人物分は数えなかった。
 今誤って数えた『彼女』は、歩行者ではない。
 常ならそれで終わりだ。下手に係わらない方が良いに決まっている。
 それでも眼を惹くのは、きっと彼女の纏ったワンピースが白すぎるからだ。決して光の反射ではない眩しさに包まれて、彼女はこちらに背を向けて雑踏のなか佇んでいた。長い髪が、風に揺れることはない。
(ここで死んだか、それとも誰かに付いてきたか、流れてきたか……)
 変わらず和馬の指は無表情な人々を数え続けている。だが視線は。
 ――見詰めすぎたか。
 あまり女性をじろじろ見るのは失礼だぜ、と己の失態を心中でのみ悔いた。
 白いワンピースの女は、和馬の視線に気付いたのだろう。振り向いていた。
 眼が、合った。
 女は微笑んで、和馬に向かって歩みを進めてくる。その動作は、歩くというより流れに乗り、と表現したいほどに優雅で、実際、風の流れでもない気の流れを、彼女は移動手段としているのかもしれない。女の体は朧気に、文字通りそこだけ切り取ったように異質で、行き交う人間たちが時折その姿をするりするりと通り抜けてゆく。透けているのだ。度に、女の輪郭を彩る光がぐにゃり、歪む。それを和馬は心のどこかで勿体ないと、思った。形を損なう人影はなにを見、なにを思い、そんなに急く。彼女はこんなにも穏やかだというのに。
 和馬は計器を片手で操作し、開いた右手を懐に入れた。指先に固く紙の感触。符は、ある。しかし取り出だすことはせず、構えるのみに止めた。

 貴方、私が視えるのね。

 応えるべきか、否か。
 女の声は声と認識できるものの、頭に残らぬ不思議な声だった。なにを言っているのかは分かる。彼女の発した声だというのも分かる。だが音としては残らぬのだ。まるで紙に記された文字を読み取った時のような感覚だった。
 和馬がなんの応えも返さずにいると、急に女は興味を失ったとみえて、大きく首を傾け、そのままくるりと背を見せた。戻るのか、思ったが、反して彼女は肩口でちろりと顔だけを振り向かせ和馬を見遣る。険を含む眼差しは、儚い女の外見にあって異様なほど爛としており、それのみを見たのならば、この道往く人よりよほど生者らしいともいえる。そう思い至って、和馬は知れず自嘲にか片笑みを浮かべた。
 女はふっと眼差しをやわらげた。
 鋭い印象しか与えなかったそれがゆるむと、元来大きく丸い瞳が和馬を映す。
 昏い。
 僅かに揺れていた深き黒眼が、ひたと和馬だけに合わせられる。

 来

 今度は音はおろか意味すら判然とせぬ『声』が聴こえた。
 感覚のみがその意図を探る。
 訴えている。
 招いている。
 呼んでいる。
 寄せている。
「行かねぇよ?」
 答えた。

 故

 理由を問う声――ああ、信号といった方がしっくり合うかもしれない――が返ってきたが、今度は応じず、和馬は懐にあった手を抜いた。指先はなにも掴んではいない。
 女は瞳のみでいまだ和馬を見詰めている。
 既に和馬の手許のカウンターの数字は止まっていた。人は途切れることなく和馬と女の間を、女を、通り抜けてゆく。いづこかへと流れてゆく。静止しているのは二人だけだ。
「……どうしたんだ?」
 気付けば眠気はすっかり消し飛んでしまったらしい。すると時が経つ速度はぐんと早いもの、和馬はこのままでいても仕方ないと判じて、諦めたように女に声を掛ける。
 女は微笑を収めて、ふと虚ろになった眼差しを刹那和馬に向けたが、ゆっくりと瞳を伏せた。唯一生気を持ったそれが完全に瞼に隠されると、女は完全にこの世と隔つ存在なのだと改めて知らされるようだった。線が、朧かすぎる。女は瞳を閉じたままで、軽やかにまた和馬に近付いた。より近く。和馬は咄嗟に立ち上がりかけ、

 だって

 女の声を聞いた。
 そして、女はそれだけを残して眼前から消えた。
 はっと眼を凝らすが視界に女の姿はない。人間のそれより遥かに優れた視力が彼女の移動を確認できないはずはない。ならば文字通り女は消えたのだ。
 右の手首に痛みが走った。
 温度はない。皮膚ではなく肉や骨だけが軋むような痛みだ。息を詰めたが、声は洩らさない――このぐらいの痛みなら、まだ耐えていられる。右手。見た。黒のスーツの袖口辺りが、上から圧迫されたように手首に強く巻きついている。スーツにできた皺の形が、人間の指の形を表していた。
 手首を、掴まれているのだった。
 透明な、女の手に。
「女性に手荒なことはしたくないんだが……」
 呟き、一応ちろりと通りを窺ってみるが誰一人和馬を見てはいない。計器を膝の上に置いて深く息を一吐きした。気を整えると素早く空に咒字を書き、左手で右の手首の上を――見当をつけて女の手を掴み返す。あった。
「あんまり強引すぎるのも、どうかと思うぜ?」
 見上げた。
 女の顔が、そこにある。

 だって、
 私、

「どうした? 俺で良けりゃア聞いてやる」
 にっと笑って今度は和馬の方から女に視線を合わせた。女は、一瞬戸惑ったように表情を揺らしたように見えたが、すぐに出逢った時と変わらぬ微笑が面に浮かぶ。捉えどころのない女だ。

 待っていたのに。

「待ってた? なにを?」

 あのひと

「あのひと?」

 そう、あのひと
 待っていたのに 来なかったの

 女の発する言葉は断片的すぎて要領を得ない。
 このまま対話を続けるより、他の『方法』を探した方が良いだろうか。和馬は考えを巡らせながら、女の話の先を促す。

 いいえ
 待っているのに 来ないのよ
 だから

 不意に声が途切れた。
 沈黙した女は、するりと和馬から離れる。女の腕が和馬の手をすり抜ける。止めなかった。
「でも、俺は『あのひと』じゃないだろ? 呼ぶ相手を間違ってる」

 じゃあ あのひとは どこ

「こっちで待ってても、きっと来ない。アンタは向こうで待つべきだ。分かるな?」
 諭すように、できるだけ優しく告げた。女は寂しげに頷く。『向こう』への道筋は和馬が教えなくとも心得ているようだった。
 白いワンピースの裾が舞う。風はなかった。座している和馬は、自然女を見上げる姿勢のまま。眩しいのがワンピースのせいなのか、女自体なのか、それとも女の体を透けて射した陽光のせいなのか分からなかった。白い残影はより白い光に呑まれてゆく。その腕が和馬を再び捉えた。身構えたが、白い腕は触れただけで、やがて向こうに招かれ呼ばれるまま光とともに消えてゆく。
 寄せては返す波のよう、びょうと哭く風にさらわれて、彼女は逝った。
 時間にすれば、たったの20分。
 短い邂逅は、女の意志が既に決められたものだったのだと知れる。
 迷っていたのか。
(幽霊になっても不安なまま待ち続けるってのもなア……)
 生者と変わりがない。変わりがないがしかし、彼らには終わりがある。対して死者には、なんらかの介入がない限りは区切りというものが存在しない。
 故に、繰り返す。
 あの女も、和馬への行動から推測するに『向こう』へと呼び続け、待っていたのだ。ともにゆくべきひとを。
「あ? つーか、交代時間過ぎてるじゃねぇか」
 腕時計を見た和馬はその事実に気付き、道の左右にそれらしき姿を探す。
 大学生と思しき青年が、こちらへ向かって息を切らせ走ってくるのが見えた。交代時間を3分過ぎている。怒鳴りつけてやろうかと思ったが、青年のあまりの必死な形相に思わず笑みが洩れた。それに、妙に体がだるかった。夏の残していった暑さがまだ絡んでいるのか。
 もう、秋だ。
 和馬は椅子から腰を上げると、ひとつ伸びをし、青年から見えないようにさりげなく後ろ手にカウンターを一気に回した。『彼女』に対していた時間分だ。適当だったがばれることはないだろう。
 歩道を見渡す。和馬を気に留めるものはいない。己の進む方だけを見詰めて足を動かし、過ぎ去ってゆくものばかり――。
 腕を捉えた眩しいほどの白い面影は、どこにもなかった。


 <了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
香方瑛里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年09月13日

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