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『2つの世界 』
四方神・結3941

●世界の始まり
 暗い部屋の中で微かな音がする。それは少しずつ大きくなり、やがて耳を覆いたくなるほどの大音響となる。規則正しい電子音が部屋中に響く。
「うるさ〜い」
 くぐもった声とともに音がピタリと止んだ。壁際に置いてあるベッドに人の気配があった。布団の中からニョキッと腕が突き出され、手のひらが正確に目覚まし時計のてっぺんを平手打ちしていた。静寂が戻ってくる。1分、2分‥‥3分が過ぎる頃、布団は大きくめくりあがった。この家の一人娘、四方神・結(しもがみ・ゆい)は大きく伸びをして起きあがると、枕元にある目覚まし時計のアラームを完全に解除した。
「これでよし! さ〜て起きようかな」
 潔くベッドを離れて立ち上がる。そこで結は動きを止めた。何か『欠落』しているような気がしたのだ。
「‥‥夢?」
 たった今まで別の結が生きていた、そんな思いが不意にこみあげてきた。目を閉じれば光景が目に浮かぶ。家族、学校、友達、部活、試験、文化祭、そして事件‥‥手で触れる事が出来そうな程の現実味がある世界だった。そこに自分は確かに居た‥‥と、思う。けれど寝ぼけた頭で考えても、認めたくなくても夢としか思えない。なぜなら今いるここも現実だからだ。いつもと同じ朝、いつもと同じ行動をしている筈なのだ。そうでなければ、あんなに見事に目覚まし時計と付き合うことは出来ないだろう。毎日使っているものだから、目覚まし時計の置き場所も、スイッチの位置も無意識にわかるのだ。けれど‥‥やはり違和感がある。
「あれが‥‥夢‥‥?」
 結は布団の上に腰を下ろした。馴染んだ筈のマットレスの弾力も、掛け布団の質感もどこか未知なものに感じる。そのくせ、今日は休日だから急いで何かをしなくてもいいのだという理性も働いている。結の生きる世界はここに違いないのだと思う。それなのに、何故かここではないどこか‥‥そこでも結は結として暮らしていた感覚が抜けない。その世界で結は幸せだったと思う。じっとしていられない程の望郷の念で胸が一杯になる。
「うん‥‥制服のネクタイの結び方までわかる。実はもうネクタイの形になってる嘘っこネクタイだった‥‥」
 付け方を手が覚えていた。なんなんだろう。こんなにリアルに『感じる』のに、この世界の事じゃない。こんなに帰りたいと思うのに、それはどこにもない夢の世界なのだろうか。
「ああぁあ、わからない」
 結は頭を抱えこんだ。
 
●継続する世界
 ひとしきり悩んだ後、いつもよりゆっくりと身支度を整えて遅めの朝食を摂った。時間が経つにつれて少しずつ違和感は消えてゆく。母を早くに亡くし父が単身赴任の為、結はここで1人暮らしをしていた。一人娘を案じて父は赴任先へ一緒に来るよう勧めたが結は最後まで突っぱね続けた。寂しくはない。友達もいるし父からは頻繁に電話がかかってくる。心配されているのだと思うとくすぐったい程嬉しい気持ちと、信頼して欲しい気持ちとが入り交じってぐちゃぐちゃになる。だから、素直になれる時もあれば反発してしまう事もある。
「でもどうして‥‥」
 箸を持つ手が急に止まった。何故父の誘いをあれほど拒んだのだろう。結は父が嫌いではなかった。むしろクラスのどの子達よりも父親を好いている子だっただろう。
「‥‥でも、‥‥学校が‥‥」
 学校が好きだった。転校したくなかった。
「どっちだろう」
 現実に今通っているあの学校が好きだからだったのだろうか。結はゆっくりと首を横に振る。わからなかった。目覚めた時はあれほど鮮明だった『記憶』が今はもうぼやけていた。クラスメートや部活の人の顔や名前も思い出せない。
「変な感じ‥‥」
 まるで仮の記憶を植え付けられ、今日この世界に生み出されたばかりだとでも言うような気分だった。でも、そんなのは映画や小説、漫画の世界だけの事だ。良い夢だったのだ、と思った。だから出来るのならばもう1度か2度、同じ夢を見てみたいと思う。シリーズ物の夢っていうのも良い物かもしれない。そう、気持ちを切り替えればいいのだ。
「ごちそうさまでした」
 1人暮らしでも挨拶はちゃんとする。箸を置いて礼すると、結は食器をまとめて台所の方へと運んでいった。

●消えない思い
 午後の日差しが大きな窓から差し込んでくる。掃除が終わったばかりのリビングで結はソファに勢いよく座った。お茶とお菓子、それから数冊の雑誌をテーブルに置く。学校に行きながら家事もするというのはやはり忙しいものだ。普段の日にはこうしてゆっくりと時間を過ごすことなど出来ない。買っただけでまだ読み切ってない雑誌が結構たまっていた。
「紅茶、紅茶‥‥レモンとスプーン」
 入り用の物をすべてテーブルに集めると、結はおもむろに雑誌の山から1冊を取り出した。ファッション誌だった。流行りの服やドラマ、ショップが掲載されている。少し前に発刊されたものだったので、話題の映画や星占いはもう古い情報となっている。それでも面白そうに結はページをめくる。
「あれ‥‥」
 舞台や劇場の案内がある紙面がどうにも気になった。それも普段関心もないクラシック音楽関連だ。それなのにどうしてもページをめくる事が出来ない。
「やだ、どうして?」
 記憶の世界から『思い』が溢れてきそうだった。忘れてしまった筈なのに消えない『思い』だけが圧倒的な強さで結の胸に蘇ってくる。そう、誰かがいたのだ。忘れてはいけない、忘れられない誰かがその世界にはいた。細く激しい弦の旋律が聞こえたような気がした。目を閉じれば見えるような気がする。けれど、どんなに求めてもそれは確かな像を結ばなかった。夢だから‥‥夢の中の事だから仕方がないと思っても、どうしても心はその人へと向かっていく。あの世界では沢山の事件があった。結はいつしかその人を巡る沢山の出来事に巻き込まれていった。その人はお調子者で子供っぽくて、いつもハラハラしてばかりいた。私の方が年下なのに、いつも守ってあげなくっちゃって思わせるような人だった。でも、死地に平然と赴く事の出来る人だった‥‥ような気がする。
 気が付くと雑誌のページに涙が落ちていた。その雫が落ちてはじめて結は自分が泣いている事に気が付いた。
「え? え‥‥なんで? 涙なんて‥‥」
 自分でもわからないし、止められない。ただ後からあとから、涙が溢れて頬を伝った。

●この世界の記憶
 また新しい一日が始まる。いつも通りに目覚まし時計を止めて、きっかり3分でベッドから起きあがる。昨日も一昨日もその前も、結はずっとここで暮らしてきた。身支度を整え手早く弁当と朝食を用意してテーブルへ並べる。朝のニュースは今日も天気はいいとか、昨日の株価は安値だったとか、交通情報とか、それから各地のの事件事故等を伝えている。もうちょっとしたら携帯電話が鳴るだろう。父からの電話を知らせるメロディが流れる筈だ。結はこの世界に認められ、この世界に居る。今日も明日も明後日も、この世界で生きていくことになるのだろう。あれほど胸を焼いたあの世界への思いも少し薄らいできていた。あわてて結は首を横に振り、出掛ける支度を急いだ。今は思い出したくはなかった。思えばそれに囚われ、この世界で動き出す事が出来なくなりそうだ。腕時計の時間を確かめ、もう一度服装をチェックしてから戸締まりをする。家の外にはまだ清々しい朝の空気が残っていた。学校でちゃんと授業を聞く。終わったら今日は何をしようかと考える。最近ご無沙汰している興信所を訪ねてもいいし、ネットカフェにいくのもいいだろう。それともショップの秋モノを見て回るのも楽しそうだ。
「あ、きたきた」
 鞄につけた携帯電話が光とメロディで父から着信を知らせる。
「もしもし? うん、おはよう!」
 結はいつもと同じ元気な声を遠く離れて暮らす父へと送った。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
深紅蒼 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年09月06日

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