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『いつかきっと。 』
橘・百華3489)&橘樹・香雪(2117)

 痛みのない世界に住むこと。
 もしかしたらそれは、光のない世界より辛いかも知れない。
 痛みのない世界に住むこと。
 もしかしたらそれは、音のない世界より辛いかも知れない。
 果てしない闇だと、香雪は思う。
 限りない無音の世界。星々の煌めく宇宙よりも遠い孤独の世界だ。
 見る側に強い痛みをもたらしても、本人はそれを全く感じる事が出来ない。
 喜びよりも悲しみよりも、共有する事が難しい感情。痛みを共有することで初めて人と人が繋がりあえるのならば、この目の前にいる百華は決して、人と繋がる事が出来ない。
 永遠の孤独の中に、この幼い少女はいるのだ。
 『可哀想』と、一言で済ませるにはあまりにも酷い。
 百華が感じられない痛みを感じて、香雪は前進総毛立った。
 たったの7歳で、香雪が生きてきた999年以上の孤独を纏ってしまった百華。
 助けたい。
 救いたい。
 守りたい。
 何よりも、あまりに深く傷付きすぎて痛みを忘れる事で自分を守ってきた、その小さな心を癒したい。

「ごめんなさいね、こんなものしかなくて。若い娘さんの口には合わないかもしれないけれど……」
 百華を若い娘と呼ぶには、春雪にも百華にも違和感があるのだが、冷えた麦茶と共に差し出された乾菓子をペコリと頭を下げて受け取る百華は真剣と言うよりむしろ真顔で、7つと言う年齢を考えれば落ち着きすぎていた。
 この落ち着き払った様子も、彼女がこれまで育ってきた環境の中で自分を守るために身に付けざるを得なかった技なのだろうか。
 そう思うと、盆を脇へ下ろし自分の麦茶に手を伸ばす香雪の胸が激しく痛んだ。
 7歳の少女と言えば、多少の人見知りやはにかみがあっても、おしゃまでコロコロのと表情の変わる遠慮のない元気さと無邪気さを想像するが、百華には何一つ当てはまらない。子供であると言う事を忘れて、つい対等に扱ってしまいそうで少し困った。
 無言で乾菓子に手を伸ばす百華。香雪の事が気に掛かってはいるらしいが、自分から何か切り出そうとはしない。
「百華さんのお父様と、私の夫がお友達だったの。とても小さくて可愛いお嬢さんがいらっしゃると聞いて、何時か是非お会いしたいと思っていたの。今百華さんが一緒に暮らしている叔母様は私のお友達でもあるのよ。ごめんなさいね、突然呼び出したりして……、驚いたかしら」
 百華の両親は3年前に他界している。
 以来、百華を襲った不幸を思えば、父親を話しに出すのは酷かと思ったが、ついうっかり口に出してしまった。麦茶に口を付けながら百華の様子を伺うと、百華は静かに俯いて乾菓子を口に運んでいる。
 本当は彼女の叔母から精神治療の依頼を受けたのだが、百華の幼さを考えて正直には言わないでおく。……最も、叔母から話しを聞いているかも知れないが。
「……外は、暑かったでしょう?」
 初対面の大人の前で、少々身構えた感じの百華をリラックスさせようと、香雪は話を変えた。
 夏休みも残すところはあと2日。8月が終わり、9月に入ろうとしているが、当然、外はまだ夏の盛りの如く暑い。
 焼け付いたアスファルトを、この幼い少女が歩いてやって来るところを想像すると、せめてもう少し秋が深まってからにすれば良かったと思う。
「ぼうしを……かぶってきたから、大丈夫」
 小さな声で百華は答える。
 小さいが鈴を転がすような可愛らしい声だ。
 この声で、もっと感情を表せたらどんなに良いだろう。『痛み』を痛みとして口に出して言う事が出来たら……。
「ここはすぐに分かった?道に迷わなかったかしら?」
 尋ねると、百華は頷いて言った。
「初めて通る道だったけど、大丈夫……。あ、時間、遅れましたか?」
 ふと顔を上げて、百華は部屋の柱にかけてある時計を見た。
 約束は午後2時だった。まだ20分を少し過ぎたところだ。
「いいえ、時間は大丈夫。そんなこと、気にしなくて良いのよ」
 暑い最中を遙々歩いてやって来た自分の疲れよりも、約束した時間を気にする百華に香雪は微笑む。と、百華も僅かにはにかんだような笑みを浮かべた。
 素直で可愛らしい笑みだ。
「百華さん、猫は嫌い?」
 白い猫だけれど、と言うと、百華は少し首を傾げて「好きです」と答えた。
「今のお家の近くに、3匹猫がいます。白と、白と黒のぶちと、茶色。とっても可愛いです」
 猫の話しをする時、百華の表情は軟らかくなった。彼女の叔母から聞いてはいるが、百華は動物の言葉を解するらしい。
「そう、それなら大丈夫ね。私が今から猫になって、百華さんの心の中に入っても驚かないでくれる?」
 やはり百華は、今日ここを尋ねるよう言われた理由を聞いていたのだろう。心の中に入る、と言われても不思議そうな顔をしない。
「私には傷を治す力があるの。手足の怪我だけじゃなくて、心の傷もね。それで、百華さんの力になれたら良いなぁと思うんだけど、どうかしら?いやじゃない?無理にと言ってる訳じゃないのよ。百華さんがいやだと思ったり、怖いと思うなら構わないの」
 香雪の話しを真剣な面持ちで聞いていた百華は、ゆっくりと頷く。
「いやじゃない、です……」
 
 怖くない、と言ったら多分それは、嘘を吐くことになるのだ、と百華は思う。けれど、決していやではない。誰かが自分を癒そうとしてくれる気持ち、心の傷を治そうとしてくれる優しさを感じることは、いやではない。
 優しくしてくれる人がいるのだ。名を呼んで、髪を撫で、優しく褒めてくれる人がいる。そう感じる喜び。
 両親を亡くし、『呪子』と呼ばれたあの日々とは違う、優しさの中での生活。この穏やかな生活を守る為に、痛みを取り戻す事が必要なのだと言うならば、それはいやな事ではない。
 けれど、やはり怖いと感じる。
 再び痛みを取り戻すこと。
 あの叫びにもならないような深い痛みをこの体に取り戻すこと。傷付いて、幼い自分ではどうしようもない胸の奥の痛みを再び感じること。大好きだった両親を失ったあの激しい痛み、『呪子』と呼ばれ、虐待され続けたあの強い痛みを思い出すこと。
 それはとても怖いことだと思う。
 もう誰も自分を傷付ける人はいない。例え傷付いても、体の痛みも心の痛みも癒してくれる人がいる。そう分かっていても、恐怖心を完全に取り除くことは出来ない。

 目の前で金色の目の、真っ白な毛並みの猫に変わった香雪を不思議そうに見た百華は、それでも膝の上に上ってくる香雪を拒むことなく受け入れた。
 輝く金の目が、問いかけるように百華を見る。頷くと、香雪は緩やかな動きで百華の胸に飛び込んだ。
 白猫が飛び込んだ胸を両手で押さえて、百華は目を閉じる。
 心の中で猫に姿を変えた香雪が見るものを、百華も見る。
 それは酷く暗い世界だった。
 音もない光もない、何もない、深く深く、沈み込んだ世界。
 そこに、幼い少女が何人も佇んでいた。今より少し幼い百華達。
 近付きかけて、香雪が足を止める。
 暗闇に佇んだ百華の胸に穴が開いている。心臓をえぐり取ったような穴。
 それが痛みを失った自分の姿と分かり、百華は言葉を失う。同時に、香雪はそこから前に進む事を躊躇った。
 振り返ると、別の百華の姿がある。その百華も、胸に穴が開いていた。
 見渡すと、周囲に佇む全ての百華の胸に、穴が開いていた。
「これが、百華さんの姿なのね……」
 前にも後ろにも左右にも動く事が出来ないまま、香雪は呟く。
 たったの7歳で、これほどまで深い闇と深い傷を負った百華を、酷く哀れに思う。
 この世界の百華一人一人を癒さなければ、百華は痛みを取り戻すことが出来ない。
「大丈夫、大丈夫」
 自分と百華の両方に言い聞かせるように呟いて、香雪は足を踏み出す。
 しかし、触れようとすると佇んでいた百華はシャボン玉のように消えてしまった。
 別の方向に佇んでいる百華に触れよう前足を伸ばすと、足の先が届く前に消えてしまった。
 音もない光もない世界で、香雪と百華のおにごっこが繰り広げられるが、どうしても香雪は百華に触れることが出来ない。
 痛みを取り戻すことを怖がっている所為かも知れない、と百華が思うと、香雪は首を振った。
「怖いのは当たり前のことなの。だから、怖がったって構わないの。不安だって仕方がないのよ。百華さんが悪い訳じゃないわ」
 言いながら、百華を追い掛ける。
 触れる寸前に姿を消して、とうとう一人の百華が残るだけになってしまった。
「助けたいの。力になりたいよの……、あなたの苦しみが、少しでも癒えるように……」
 表情のない百華に、香雪は語りかける。
 ふと、硝子のようだった百華の目に香雪が映った。
「たすけて……」
 唇が、確かにそう動く。
 助けを求めている。
 救いの手を求めている。
 傷を癒して欲しいと訴えている。
「助けてあげる。きっと助けてあげる……」
 白く細い前足を伸ばして百華に触れようとする香雪。それに答えるように、百華が幼い手を伸ばしてきた。
「助けてあげる……」
 しかし、触れ合う瞬間に百華はまた消えてしまった。
 消える寸前に浮かんだ表情が、香雪の目に焼き付いた。

 人の姿に戻った香雪の前に、人形のように可愛らしい百華の姿がある。
 あの心の中の精気のない百華ではなく、しっかしとその目に香雪の姿を捉える百華。
 思わず、香雪の目に涙が溢れた。
「ごめんなさい……」
 俯いて、百華が謝罪する。
「百華さんが悪いんじゃないの……、ごめんなさいね。私の力不足なの」
 消える寸前、百華は酷く怯えた顔をした。
 それは、痛みに怯えた顔ではなく、これまでの彼女の現実に怯えた顔だった。
 愛する人を失った現実。虐待され、世界を閉ざした現実。
 7歳の少女が理解するには深すぎる傷が、百華を怯えさせ、その怯えが傷を更に深く深くしている。
 香雪の力では、怯えを取り除くことも傷を癒すことも叶わなかった。
「私にもっと強い力があったら、助ける事が出来るのに……、助けると言ったのに、嘘を吐いてしまったわね。ごめんなさい……」
 無力だと思った。
 少女一人助けられない自分が、ほんの僅かでも傷を癒すことが出来ない自分が、酷く無力で価値のないものに感じられた。
「……でも、百華の自分の力でも治せなかったから……」
 ぽつりと百華が言った。
「一生懸命お願いしたけど、駄目だったから……だから、悪いのは百華なの……」
 強く願えば叶うはずの願いは、どうしても叶わなかった。
 願えば願うほど、傷は深くなり、傷を癒そうとすると心の闇がどんどん深くなった。
「多分、百華がまだ小さいから、きっと無理なんだと思うの……、百華がもっと大きくなって、色んな事が分かるようになったらきっと、治ると思うの……」
「……華百さんはとても優しいのね」
 自分でそう信じる為に言っているのかも知れない。それでも、香雪の力不足を責めず自分の所為だと謝罪する百華に、香雪は微笑んだ。
「何時も、どんな時も、その優しさが百華さんを守ってくれるわね……」
 例え今は、深く傷付いて心が闇に沈んでいても、痛みを感じられず、それで孤独を感じることがあっても。
「大丈夫ね……」
「……はい」
 香雪の言葉に頷く百華。
 いつかきっと、この優しさと強さが百華自身の傷を癒すだろう。

 
end

PCシチュエーションノベル(ツイン) -
佳楽季生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年08月30日

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