『a tiny little blue 』

尾神・七重（2557）

　ふと誰かに呼ばれたような気がして目を開けた。
わずかに開けてある窓から入りこんでくる風は少しだけ冷たくて、七重は夏用の薄いフトンを肩までかぶり直して、ベッド脇にある時計に目を向ける。
針はセットしてある時間よりもかなり早い位置を示していた。朝の五時前。早朝もいいところだ。
　寝返りをうって窓の向こうに目を向ける。
夏の暑さもだいぶやわらいできたこの頃ではあるが、それでも陽の昇りは早いようで、まだぼんやりとしている七重の上に、薄いベールのような光を降り注いでいる。

　風がシンプルなカーテンを揺らしている。
見え隠れする夜明けの空は、まだ明けきっていないせいか、薄い紫色に白く細い雲を漂わせている。
　七重はしばらくぼんやりと空を見ていたが、再び聞こえてきたかすかな声に、上半身を起こして部屋の中を見まわした。しかし部屋の中には誰の姿も見えず、ドアの向こうにも人の気配はしない。

――常ならざる存在だろうか――？　

　一瞬そんな考えが頭をよぎり、七重は眉根を寄せて唇を結んだ。
けれどもそんな邪悪な気配は少しもしない。むしろどこかほっとするような、あたたかな優しさを含んだ……そんなものに感じる。

　ベッドから抜け出して机に向かい、そこにある一冊のノートを手にして開く。
誰にも知られないようにこっそりと日々したためているノートには、丁寧に描かれた小さな蕾の絵がある。
七重の部屋から外に続くベランダにある小さな鉢植え。そこに息吹いた種の成長記録をしたためてあるのだ。
絵日記なんて、我ながら子供じみているような気がして、七重は誰にもそのことを知らせていない。
けれどもそれを毎日かかさず記しているのは、何だかその芽がひどく愛しく感じられるから。

　窓から入りこんできた風が七重の髪を揺らし、開いたノートのページをめくる。
その風に乗って流れてきたかすかな声に、七重はふと振り向いてベランダに視線を向けた。

　
　夏の初め。七重はとある人から一粒の種を貰った。
七重の心を映した花が開くだろうと告げられて渡されたその種に、七重はこよなく愛を注いできたつもりだ。
強い風雨が街を濡らす夕方には、鉢が飛ばされないようにと部屋の中に入れ。
陽射しが強すぎる午後には日陰を作り、土が乾くことのないように水を欠かさず注ぎ入れ。
心地よい陽気の日には、鉢を横に置いて空を仰いだ。
『植物には語りかけてあげましょう』という記事をネットで見つけてからは、その日あった出来事なんかをこっそりと話しかけてみたりもした。
そして種が小さな芽を出したときには、自分でも気づかない内に頬を紅潮させたし、それが少しづつ少しづつ伸びていく様をノートにしたためている時は、小さな至福を感じてさえいた。

　ベランダに出て空を仰ぐ。
風が少し強く吹いているせいか、雲の流れが速い。
大きく伸びをして体の隅々までを起こし、それから鉢へと目を向ける。
　昨日の夜に見た時には、大きく成長した葉の中にいくつかの蕾が揺れていた。
もう近々花開くのだろうかと思えば、妙に緊張してしまう。もしかしたらそのせいで朝早く目が覚めてしまったのだろうか。
見上げれば、さっきまで紫色を浮かべていた空はほのかな青に変化していて、美麗なグラデーションがかっている。

　もうすぐ夏休みも終わり。夏休みが終われば夏も足早に去っていくことだろう。
去っていこうとしている季節の名残を空に見たような気がして、七重はそっと目を細めた。

　鉢植えに目をおろす。タイムに良く似た葉をつけた緑が静かに揺れて、主である七重に向けて頭をもたげた。
言葉にこそなっていないが、どこか朝の挨拶をしてくれているようなその花の前で膝を曲げ、首を傾げて挨拶を返す。
「……おはよう。良い朝だね。今日もいい日よりになりそう」
　告げかけた言葉を思わず飲みこむ。
目の前で緑が静かに揺れている。その中で、閉じていた蕾がゆっくりと花を開きだしたのだ。
言葉を飲みこんで見守る七重の目の前で、いくつもの小さな蕾が順にゆっくりと開いていく。

　今、自分の目の前で開かれていく新しい息吹に、感嘆のため息を洩らしそうになって、七重は慌てて両手で口を押さえた。
小さな花だ。もしかしたら自分の息に揺れて、ふと散ってしまうかもしれない。そう思って、塞いだ手を静かに下ろす。
息をひそめて花の開く様子を見守る。胸が自然と高鳴っていくのが自分でも解る。
　
　葉こそタイムのそれに似ているが、こうして開いた花を目にしてみれば、やはりタイムとは違うのだと判る。
この花を絵日記に描かなければ。そう思って立ちあがりかけ、それからまたゆっくりと腰をおろす。
この場から離れている間に、花は散ってしまわないだろうか？
「少し……少しだけ待っててくれるかな」
　息がかからないように口許を隠しながらそう言うと、また新しく開き出した花がゆっくりと縦に揺れた。
　急いで部屋に戻ってノートを掴み、花の傍に戻る。
空はいつの間にか明けていて、さっきまではほのかな色だった青が、鮮やかな青へと変わっていた。
細い雲が青の中に溶けこむように流れていて、まるで絵の具が混ざり合っていく時のような色彩を浮かべている。
その空の下、パジャマ姿のままの七重が、一心に花の画をノートに描いていく。
手早く、しかし丁寧に。

　朝の陽光が雲間から現れて七重を照らしだした頃、滑るように動いていた色鉛筆がようやく動きを止めた。
真白なノートの上にはきちんと描かれた小さな花が咲いている。
青と白とで塗られた花の画は、七重の心を映しているせいか、紙の中にあっても小さく揺れているような――そんな息吹を感じさせる。
　
　それから七重は再び部屋に戻り、手早く外出のしたくを整えると、両手で鉢を大事に抱えあげて家を後にした。
　太陽が姿を見せたとはいえ、時間はまだ早い。
一日の始まりを告げる鳥が飛び交う。道路にはまだ車の行列もなく、排気によるむっとした空気も漂っていない。
注意深く周りを確かめて道路を渡り、近くの公園へと足を向ける。
大事に抱えた鉢の中、小さな青が小さな声で七重の名前を呼びかけている。
七重はその声に嬉しそうに頷きながら、公園の深い緑の中を足早に進む。

　夏の初め。七重はとある人から一粒の種を貰った。
正確には、種をくれた人とそれを改良してくれた人とがいる。
彼らとは取りたてて親しくなっているわけでもなく、知人という域を脱してはいないかもしれない。
何度か顔を合わせたことのある知人――もしかしたら、彼らは七重のことをそう捉えているかもしれない。
まして、七重が今心に思い描いている男とは、たった一度きり対面を果たしているだけだ。
けれど、そんな事はどうだっていい。そう思う。
深く広い緑の海の中にいる『彼』は、花が咲いたら見てみたいと。そう、七重に語ったのだから。

　途中、七重はもつれそうになった足を止めて空を見た。
自分でも気づかない内に早足になっていた事に、今更ながら気付く。
わずかに紅潮している頬の熱に、胸にこみあがってくる感情が何かを知る。
　
　種が芽吹いたときの喜び。
　花が咲いたことに対する喜びと驚き。
　種の成長をノートに記していた時の、あの何とも言えない気持ち。

　ああ、これは。これは嬉しいといった気持ちだっただろうか。
そう思いつくと、紅潮した頬が自然と緩んでいく。　

　涼やかな風が吹きぬけて、七重の髪を静かに梳いていく。
肌ざわりの良い白いシャツの裾が風にはためき、その感触に目を細める。
空は青く、ゆったりと流れる雲は白い。太陽は惜しげもなく光を降り注ぎ、鳥達は心地よさそうに飛んでいる。

「今からご挨拶に伺いますね」

　ぼそりと呟くようにそう告げて、公園の緑を揺らす風と小さな花の声に耳を寄せた。

　彼らが住む場所まで行くにはどうしたらいいのか、七重は知らない。いつだって偶然に辿りついているのだから。
でもきっとまた辿りつけると、心のどこかが確信している。
深い森に囲まれた不思議な屋敷と、そこに住む魔女と庭師。二人はきっとまた七重を歓迎してくれるだろう。
その森の中に住む、死神と称されている一人の男。彼は今も一人で空を見上げているのだろうか。
七重に種を手渡してくれた死神を思い、七重はふと笑顔を浮かべた。

――――僕の大事な友達。
彼らにありがとうと伝えるんだ。

　どこからともなく聞こえてきた歌声を耳にとめて、七重は再び歩き始めた。

　空と花の青が、彼自身もまだ気付いていないその小さな笑顔を、微笑ましく見守っている。　


――了――

PCシチュエーションノベル（シングル）

エム・リー

東京怪談

2004年08月30日