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『■湯気に馳せる遠(とお)の夢■ 』
白姫・すみれ3684)&諏訪・海月(3604)&青砥・凛(3636)

 とある有名旅館の一室で。
 皆が寝静まった頃、そっと起き上がった浴衣姿の白姫・すみれ(しらき・すみれ)は、真っ暗な中誰も踏まないようにと枕の上のほうを忍び足で歩き、個室露天風呂へと辿り着いた。
 本職は違えど神聖都学園の臨時教師でもある彼女は、星海同好会の夏合宿に数人を引き連れて来ていた。まあ、殆どが身内の集まりだったのだが───。
 眠れそうで眠れないわけは、誰もいないからこそ水着なしで寛げる彼女の腰骨の上辺り、そこの古傷にあった。
 昔の、弾傷。自分の失敗の跡。
 親友の弟である赤い瞳の少年に、治療をしてやろうかと当時言われたものだが、彼女はあえて断った。
(この傷は、自戒の証、だから)
 ふと、自嘲気味の笑みが漏れたのと同時に、涙が落ちる。死んでいった同僚。犯人。過去のことなのに、まだ忘れられないでいる。
「すみれ───さん?」
 聞き覚えのある声に呼ばれ、すみれはハッと顔を上げた。男装の麗人、青砥・凛(あおと・りん)も浴衣姿でそこにいた。
「あ……」
 咄嗟に、言い繕う。
「あはは、硫黄って結構目にしみるね。なんで? 寝たんじゃなかったの?」
 最後のほうは、尻すぼみだ。凛は黙って岩に手をつき、星空を見上げた。
「うん、一度寝た。でも、音がしたから。……すみれさんだったんだ」
 凛もまた、眠れないでいた。それは、決してすみれの動く気配に反応したからだけではなく。
 考えていた。
 今回、すみれの配慮で一緒に参加した、この合宿。窓を隔てて姉の隣で寝ている赤い瞳の少年のことを、そして何にも変え難い大事な相棒の諏訪・海月(すわ・かげつ)のことを。
 ついこの前、その少年ととあることが起きて、凛は自らを氷漬けにした。それは、少年が悪いわけでもなく、少年が気分を害した原因の少年の姉のせいでもなく、凛のせいでもなく。その場にいて「何も出来なかった」海月が悪いのでもなく。
 ただ、あの時自分のトラウマに触れてしまった。だから、今回も赤い瞳の少年に気遣いばかりして、悪いなという思いでいっぱいだった。海月も、それを感じてはいただろう。
「凛ちゃん」
 既にちゃん付けされているのにも構わず、呼ばれて凛は自分を真っ直ぐに見つめているすみれを振り向いた。
「今回あの子と一緒にきたの……ツラかった?」
「え」
 そういう風に、見えただろうか。意外そうに上げた凛の声に、すみれもまた意外そうに目を見開いた。
「ツラくない? それならこの合宿企画したわたしは嬉しいけど」
「うん。……ていうか」
 凛はぽつぽつと間を置く彼女特有の言い方で、言う。
「あの人が気遣ってるのが分かって……それでちょっと、驚いた。あと」
 すみれさんが面白くて、と素直な感想を言う。
 すみれはそれをどう取っただろうか。相棒が近づいてくる気配に気付き、凛は彼女に持っていたタオルを投げる。
「それ、身体に巻いて」
「え?」
「海月が来るから」
「え……ええっ!?」
 海月も起きていたのか、というかどうして分かるのだろう。「そういうこと」がどうして二人の間には当たり前のように「分かる」のだろう。
 ともかくもタオルを慌てて身体に巻いた直後、タイミングよくその相棒が岩場の向こうから顔を出してきた。彼もまた、星空を見ていたクチなのだが。
「古傷、痛むのか?」
 聞くと、すみれは黙り込んだ。やっぱり、あの時───寝る直前に痛がった時、気付かれていたのだ。
「ちーがーいーまーす! 貴方の額に肉って書けなかったことが悔しくて眠れないだけよ」
 そうそう、こういうところ、と凛は海月と目を合わせて思わず笑みを零す。
 凛が笑ったことで、海月は内心安堵していた。
 すみれは温泉から出て、気を利かせたように二人の会話が耳に入らない距離まで移動した。星空を見上げ、「満天だねー」とはしゃいでみせる。
 気遣いに感謝しながら、凛は海月に少し寄りかかるようにして、心の中で呟いていた。
(みんな、どうして笑っているんだろう。ぼくはどうして生きているんだろう)
 ぼくは……過去に、罪の感情に、囚われている───。
 その最後の凛の小さな呟きを聞き取ってしまい、海月は再び胸が痛む。
 いつもの館で、二人の館でティータイムをしている時が、一番安らぐのに。そういう時は、全て嫌なこと苦しいこと哀しいことから解き放たれた錯覚を覚えるのに。
 ───海月にとっては、錯覚でもいいのだ。それが、一瞬の安らぎでもいいのだ。
 何もない暗闇だけより、一瞬でも光が射したほうがまた次の光をと希望を抱くことができるから。未来に希望を抱くことができるから。
 海月もまた、凛のトラウマを意図的でなくとも引き出した赤い瞳の少年のことを考えていたのだ。そう、凛と同じ時間に。違う場所ではあったが、考えていたのだ。
 あの時、凛は自分を氷漬けにした。あれは、本人か少年の姉でなければ溶くことが出来なかった。
(凛があのときのように、また今後もあるのなら)
 身体が、震える。
(もし次、凛がああなった時、あのままになったら───俺はどうなってしまうんだろう。俺は生きていけない……)
 生きていけない───。
 その海月の息だけの叫びを、凛は気付いただろうか?
 ふと、
「でもね」
 と、凛が窓の中、眠っている赤い瞳の少年を見つめる。
「ひとつ、分かったことっていうか……自覚したことがあるんだ」
 それは、自分があの赤い瞳の少年に、兄のような感情を持ち始めているということ。それは、海月にとって驚きだった。だが、分かるような気がする。
「時には厳しく、時には優しい人だから」
「……そうだな」
 凛が見せる、心からの小さな笑みを見て海月もまた心から微笑む。
 その時、小さなクシャミが聴こえてきた。
「あ───」
 しまった。気遣われていると気付いていたのに、すっかり忘れていた。
 急いで、自分も持って来ていたタオルを、すみれに近づいて肩にかけてやる。
「中に入ってればいいのに」
「だって、ホントに綺麗な星空だから、つい」
 ね? と見上げるすみれの視線を追うと、確かに滅多に見られないほどの満天の星が輝いている。
「手、のばしたらホントにつかめそうだよね」
 楽しそうに手をのばすすみれに、海月は苦笑のようなそうでないような、あえていえば子供を見るような微笑みを贈る。
「あんたの挑発、楽しかった」
 ん? と振り向くすみれだが、それが寝る前に自分が彼の額に肉と書こうと躍起になっていたことだと気付く。
「あのねー言っとくけどあれは、元はといえば凛ちゃんが王様ゲームで海月くんをくすぐれっていうから男性恐怖で触れないにも関わらずくすぐってそれから発展したんじゃないの」
「くすぐるってより、引っかいてるようにしか見えなかったけど───」
 凛の突っ込みに、
「だって男の子だもん、コワいじゃない!」
 と、子供のようにむくれるすみれ。
 普通、それならあんな風な言動に発展するだろうか。海月はまた、つい笑いたい気分になってしまう。からかいたくなる。
(この人もなんかあるのかな)
 弾の古傷といい、そう思う。涙の匂いが微かにまだ残っていることに気付く海月の敏感さは、誰がカバーするのだろうか。もし、凛すらいなくなってしまったら、誰が自分を支えていけるだろう。今はそれすら分からない、けれど。
 ただ、すみれに少しだけ心の紐を解いてもいいのだろうかと夢のように思う。
 凛と赤い瞳の少年のきっかけを作ってくれた、すみれに。
 あの時の自分の中の恐怖を少しでも忘れさせてくれた彼女に。
 凛もまた、海月とすみれとを見比べて、安堵のようなため息を小さく小さく、つく。
 こんな夜が、ずっと続けばいい───。

 それは、湯気と満天の星空に託した、夢ともまだいえない、三人の、遠い夢の欠片の架け橋───。



【執筆者:東圭真喜愛】
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東京怪談
2004年08月18日

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